針よ進め
少し前の文化祭で出していた小説を見つけたので投稿してみます。
…ホントにすみません。
「今…午前九時三分!」
ユキ―――俺の妹はその日、何故かしきりに時間を気にしていた。一時間おきぐらいにリビングの壁の時計に近づいては、わざわざ俺に向かって今の時刻を知らせてくるのだ。
何を考えているのかは分からない。今日は何かあったか考えてみたが、いくら考えても特に何も出てこない。平凡な休日に違いなかった。だが、今日のユキはなにか待ち遠しそうに時間を気にしていた。
午前九時三分…分刻みで正確さを求めているのか。
たった今俺の耳に入ってきた声により正確な時刻が情報として頭に入ってくる。それだけなら構わないのだが、その度に見せて来るユキの笑顔はすんなり受け入れられなかった。
嬉しそうなその顔を崩したい、というわけではないのだが、ちょっと嫉妬に似たものを感じた。そのちょっとした乱心から、俺は彼女に悪戯を仕掛けることにした。
何のことはない。時計を五分ほど進めておくだけだ。
我が家に置時計はリビングと寝室に二つ、計三つしかない。それをいじくってしまえば、もうこの家の時間は五分進んだことになる。そして俺は、五分進んだ時間を正確に伝えるけなげで純粋な妹を見て心の中で勝利宣言をするのだ。
悪戯といってもこの程度が限界なのが俺の哀しいところか。
我が家には今俺とユキしかいない。両親は俺たちが結婚記念日に贈った温泉旅行に行っていて、明日まで帰ってこない。つまり、ユキがリビングを離れたその時がチャンスなのだ。来客でもお使いでも、この際トイレでもいい。そのきっかけを俺は静かに待った。
インターホンが鳴った。あつらえたかのようなタイミングだ。
「ユキ、ちょっと手が離せないから出てくれ」
「えー…しかたないなあ」
俺の方が玄関に近かったので、ユキは明らかに不満を示しながらも玄関に向かった。
嘘はついてない。事実、今からちょっと手が離せなくなるのだ。
ユキの様子を見計らってから、立ち上がって壁にかかっている時計に近寄る。それを外すと、分針を司るねじをゆっくりと回した。
キリ キリ キリ…
小気味よい音がして、分針が五分ほど未来に跳んだ。
「…これでよし」
「なにしてんの?」
「うわっち!」
時計を壁に戻した瞬間だった。慌てて振り返ると、すでにユキが戻ってきているではないか。もしや、今の行動が見られたのか?俺の計画はここまでなのか?
「回覧板だったよ」
だがユキは何も聞かず、回覧板をテーブルの上に放り出してさっさとソファに座ってしまった。うん、バレなかったみたい。
その後、枕元の本を取りに行くという名目で寝室の時計をずらすことにも成功し、かくして俺の壮大でチンケな悪戯計画が始まったのだ。
「今…午後一時二分!」
うん、十二時五十八分か。違った、五十七分だ。その時計が五分未来を疾走しているなど知る由もなく、ユキは俺に時刻を告げた。俺は普通に返事をする。
「ああ、そうか。って痛!」
突然飛んできた英和辞典が額にクリーンヒットした。しかも角。
「な、なにしやがる」
「お兄ちゃん、ニヤニヤして気持ち悪い」
なんと、表情に出ていたか。俺もまだまだ修行が足りないようだ。
時計は…気づいてないな。ならば良し。
「ねえ、今何時?」
え、俺に聞くの?まあ外だし、確かに時計は見当たらないからね。妹は携帯を置いてきたみたいで、持って来ている俺に時間を確かめるように催促してくる。
面倒臭いが、俺も悪戯を仕掛けた身。ここは乗ってやるべきだろう。
「えーっと、三時二分…」
あ、そういや携帯の時間はずらしてなかった。確かにずらしたら困るんだけど、思わず本当の時間教えちゃったよ。
今はちょうど家に帰る途中。まさかとは思うけど、この後家の時計を見てずれてるのに気づくとかは勘弁してほしい。なんか切なくなる。
二、三分ほど後、ようやく家に着いた。玄関を開けるなりユキが奥に走りこむ。
「ただいまー…ん?」
真っ先に時計を確認した。ってなんで?ちょっと待って!頼むから気づかないで!
「…お兄ちゃん」
「な、何?」
声が裏返る。
「今、三時十分」
うん、あれから八分経ってるね。勿論その時計が未来を行ってるからだけど。
気づかれたな、これは。二、三分と八分はちょっと差が大きい。
「…ちょっと歩くの遅かったかな?」
「え?…あ、ああ、そうだな」
え、そんなことないよ?結構速く歩いてたよ、俺達?
まさか、気付いてないの?二、三分と八分を?
…ユキ、ある意味お前を尊敬するよ、うん。
トイレから出ると、ユキが時計とにらめっこをしていた。一瞬ばれたのかと思ったが、次の一言でその可能性は消えた。
「お兄ちゃん、今、午後四時一分」
三時五十六分です、正確には。
結局気づかないのか。ユキがここまで鈍いとは知らなかった。
―――さて、なんでそんなに時間を気にするのかね?もうすぐ夜だが、まだユキはそれらしい行動を起こさない。何のためにそんなに時間を気にしていたのだろう?
時計はいま午後の十一時五十七分を過ぎたところだ。リビングの時計がそれなので、実際は五十二分といったところか。
要するに夜で、俺は早く寝たい。なのに、ユキが俺を寝かせてくれない。
「何なんだよいったい…明日も休みとはいえ、あんまし夜更かししたくないんだが」
「まあまあ、もうちょっとだから」
そういうと、また時計を見た。それ、五分進んでるよ。教えないけど。
五十九分になった。勿論リビング時計の。
「後一分…もうすぐ…」
「へ?何が?」
もうすぐ、何だろう。日付変更線は確かにすぐそこだが、それはあと六分だったりする。
…えっと、おもむろに取り出したそのプレゼントボックスは何?
「…お兄ちゃん、まさか忘れてるの?」
「何を」
「明日って、お兄ちゃんの誕生日じゃない」
―――え?
―――あ。
―――ん?
―――あ!
時計が、十二時になった。
「誕生日おめでとう、お兄ちゃん!」
えっと…今、五十五分なんだよね…ホントは。
俺の目の前にプレゼントボックスが差し出される。まさか「ごめん、実はあの時計俺がずらしちゃってて、まだ十二時じゃないんだ」なんて言えない。かと言って黙って受け取りを拒否したら、兄妹関係にヒビが入りかねない。…仕方ない、大人しくその箱を受け取ることにするか。
「あ…ありがとう」
つまり、そのために朝から時間ばっかり気にしてたのか…まるでカウントダウンをするように。
まったく、いつまでたってもユキは子供だなあ。昔からその性格変わってないな。兄としてそれは情けなくも誇らしくもあるぞ、はっはっは。
……。
やっちまった…。
「どうしたの?開けてみなよ?」
開けるの?まだ誕生日じゃないんだよ?ああ、針はまだ二分をさしている!
ここで開けたら人としてダメだと思う。じゃああと三分、どうやってこの場をしのぐ?上手くトークでつなげられるほど俺は口が達者じゃない。とすれば、会話以外での時間稼ぎを試みなければ。
「えっと…ちょっとトイレ…」
ありきたりだが、腹をさすって痛そうな仕草をする。なんとかトイレで三分を…
「お兄ちゃん」
ユキ、呼びとめてくれるな!兄は急ぎの用事なんだ!
「お兄ちゃんって、案外鈍いんだね」
なにが?それはお前の方だろうが。ってか、今は時間つぶしを…。
「あの時計、私がもう直しておいたよ?」
「えっ?」
直した?
時計を?
…それってつまり、俺のしたことが分かってたってこと?
―――えーっと、その…マジですか?
「私の携帯と時間合ってないんだもん。お兄ちゃん昼から様子おかしかったし、すぐ分かったよ」
確かに、妹の携帯はいじくるわけにいかないからな。
てことは…あ、あれ?もしかして弄ばれてたのって、俺?
「お兄ちゃんの考えることくらい、すぐに分かるんだからね」
「あ…そう…」
なんか複雑な気分だなぁ、それ。心が通い合っていると素直に喜ぶべきなのだろうか。
ユキには勝てないな…くそ、悔しい。こんなサプライズっぽいプレゼントまで…。
時計を直したってことは、あの時計はもう現代を走ってるわけか。
つまり、もう日付変更線を越えたってことか?
「じゃ、改めて。お兄ちゃん、誕生日おめでとう!」
そうらしい。つまり俺は、このプレゼントを開けることが出来るわけか。
あーあ、まさか返り討ちにあうとは。悪戯もほどほどにってことだな。
今回は俺の負けだ、ユキ。それから―――
「ありがとな」
「あ…うん」
嬉しそうにうなずいてくれた。
…あ、寝室の時計も戻さなければ。
あとで戻しておこう、この新品の目覚ましを置くついでに。