魔女の呪い(1)
それは突然だった。
小さな田舎町の秋祭り。そこのこぢんまりとしたステージに立って歌うあの人を一目見た時、激しく心奪われた。
彼女の周りだけに散らばる雪のような光り、そして胸を貫く力強い歌声。身体中に甘い痺れが走り、心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。
そう、私はあの人に恋をした。でもそれは、淡い青春のような優しいモノではなく、けして許されない恋。
なぜなら、今私には彼氏がいて、そしてその恋をした相手は、二回りも歳の離れた親友の母親だったのだから。
「俺達さ、もうすぐ付き合って三年だね。今年の記念日はどこ行きたい?」
下校途中、私の隣を歩く悠二が嬉しそうに訊いてきた。
短髪に子どものように無邪気な笑顔。野球部に所属する彼は、その明るさとリーダーシップで、二年生ながら不動の正捕手の座を手に入れていた。
「うーん、どこでもいいかな」
私が気のない返事を返すと、悠二はぷうっと頬を膨らませる。
「千秋さ、前もそう言ってたよね。嬉しくないの?」
「そんなことないよ。こんな私を好きでいてくれるだけで嬉しい」
そう言って微笑むと、単純な彼はわかりやすく頬を赤く染めた。
中二の冬に告白され、付き合うようになって早三年。悠二は変わりなく私に愛情を注ぎ、そして無条件の優しさをくれる。本当に、私にはもったいない男だった。
しばらくして、二股に分かれた道の前で私達は立ち止まる。悠二は右、私は左の道へ行くとそれぞれの家に着く。
「じゃあ、行きたい所思いついたら連絡して」
「わかった」
頷くと、悠二の顔が真剣なモノに変わった。いや、緊張していると言う方が適切かもしれない。
何も言わずに悠二の顔が近付いてくる。そして二人、キスをした。
「明日また学校で!」
はにかみながら走り去る悠二を見つつ、私は右手で手を振って、左手で自身の唇に触れた。
悠二とキスをしても、ドキドキしなくなったのはいつからだろう。初めての時は、緊張と恥ずかしさで死んでしまうんじゃないかと思うほどだったのに。それが今は、ただの行為に成り下がっているなんて。
いや、原因はわかっている。マンネリと、そしてもう一つ。そのことを考えると、私の胸はチクリと痛んだ。
ため息をつきつつ帰っていると、突然ブレザーのポケットに入れていたスマホが振動した。確認すると、幼なじみで親友の雪乃からのメッセージ。
『やっほー。千秋今日も両親の帰り遅いんでしょ? だったら、母さんがうちで夕食食べてけって。もちろん来るでしょ?』
“来ない?”ではなく、“来るでしょ?”という表現が彼女らしい。小さい頃から仕事で帰りの遅かった両親。そんな私を心配して夕食に誘ってくれるようになったのが、ご近所に住む雪乃のご両親だった。もう八割方夕食は雪乃の家で食べている気がする。
私はすぐさま返事を返した。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
スマホをポケットに戻す。緩む頬を抑えられなくて、私はそれを右手で隠した。
赤い頬はこの時期特有の寒さのせいにすれば誤魔化せる。でも、この締まりのない顔はどう見ても不自然だ。
思わずスキップしそうになる身体を必死で食い止め、私は早足で雪乃の家へと向かった。
「お、意外に早かったね」
出迎えてくれたのは、ジャージ姿の雪乃だった。私は遠慮なく家へと上がり込む。そして、居間へと入った瞬間、私の心臓は一つ大きく脈打った。
「いらっしゃい、千秋ちゃん」
「……こんばんは、美雪さん」
台所に立っていたのは、雪乃のお母さんだった。長い艶のある髪に、四十代とは思えない美貌。そして優しい微笑み。そのどれもが輝いて見える。これが雪乃のお母さん。そして、私の恋しい相手。
「おお、千秋ちゃんお帰り。ささ、座って」
もう席に着いて晩酌を始めているおじさんに促され、私はいつもの席に腰を下ろした。
どうやら、今日はキムチ鍋らしい。蓋を開けると白い湯気が立ち、キムチと野菜やお肉の良い匂いがした。
みんなで一斉に合掌して食べ始める。私の前の席は、美雪さんだった。
「遠慮せず、たくさん食べてね」
そう言って、美雪さんが鍋の具材を取り分けたお皿を私に渡す。私の好きなキノコが多めに入っているのを見て、嬉しくて思わず顔がにやけそうになった。
ご飯を食べるテーブルの向こうにソファ、そのまた奥にテレビが置いてあり、雪乃の家では食事中でもテレビを点けていることが多い。今は最近流行の女性アイドルがダンスをしながら歌っていた。
「この子、嫌いじゃないけど歌下手だよね」
白菜と豚肉を一緒に頬張りながら、雪乃がテレビを横目で見る。つられて視線を向けると、ちょうどサビを歌っているところだった。
「確かに、上手くはないよね」
「これならお母さんの方が上手」
「私もそう思う」
私は心から雪乃に同意した。美雪さんは恥ずかしそうに否定する。
「あら、そんなことないわよ」
「あるよ。この前の秋祭りのカラオケ大会だって、お母さん優勝してたじゃん」
二ヶ月前の秋祭り。そこそこの老若男女が参加したカラオケ大会。確かに、こんな田舎の割に上手い人はいたけれど、美雪さんの歌は群を抜いていた。聴いた瞬間人の心を鷲掴みにするその歌声に、酔いしれたのは私だけではない。それは結果に出ている。
「あれはまぐれよ」
「んなわけないじゃん。昔は歌手目指してたんでしょ? 続けようとは思わなかったの?」
「思わなかったわ。結婚したら家庭に入って、家族のために尽くすって決めてたから」
そう言って、美雪さんはおじさんと目配せをする。おじさんはというと、照れた顔を隠すようにビールを一気飲みしていた。
仲の良い夫婦。ご近所では雪乃の両親はそういう評判だ。だから、さっきみたいなふとしたやりとりを見てしまうと、私の胸はチクリと痛んだ。
わかっている。この恋は成就することはない。そう思ったらなんだかむしゃくしゃして、私は熱々のネギを無理矢理頬張った。
「いつもありがとうね、千秋ちゃん」
「いえ、ご馳走になっているので、これくらいはお安いご用です」
食べ終わった後、私と美雪さんは台所で一緒に洗い物をしていた。雪乃とおじさんはソファに座って、今流行のバラエティ番組を観ている。雪乃の遠慮なく大きい声で笑うところはおじさん譲りだ。
「千秋ちゃんもテレビ観たかったら行っていいのよ」
「いえ、私はそんなに興味ないので。それに、お皿洗い嫌いじゃないですから」
というか、正直美雪さんの側から離れたくない。だからここにいるのだ。時折美雪さんの左腕と私の右腕がぶつかり、その度に私の心臓は跳ね上がる。この時間は、私の至福の時だった。
そんな幸せの時間は、雪乃の言葉で呆気なく壊される。
「ねえ、千秋。今日も悠二と一緒に帰ったんでしょ?」
「うん」
「悠二と付き合ってどれくらいになるんだっけ?」
「……もうすぐ三年」
「はー、いいねえ。二人はラブラブで。ご馳走様です」
そう言って、雪乃はわざとらしく合掌した後、すぐさまテレビへと視線を戻した。ただの気まぐれなら、いっそ言わないでおいてくれた方が良かったのに。
「へえ、千秋ちゃんと悠二君は仲が良いのね」
ほら、美雪さんも乗っかってくる。何故だかわからないけれど、美雪さんの口から悠二の名前が出てくるのはひどく不快だった。まるで、裁判にかけられる被疑者のような気分になる。
そんな微笑ましそうに言わないでほしい。あなたにだけはどうしても。私と悠二が付き合っていると、平気な顔をして言える美雪さんを見たくはなかった。
これ以上彼女の側にいたくなくて、私は急いで洗ったお皿を食器乾燥機に入れていく。
「あっ」
どうやら慌てたのがいけなかったらしい。一枚のお皿が私の手をスルリと抜け出して、そして床に落ちて割れた。耳障りな音に気付いた雪乃やおじさんが一斉に私を見る。
「千秋、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫……いたっ」
割れたお皿の破片を拾っていると、その一つが私の人差し指に刺さり、赤い点を作る。
「大変っ」
それを見た美雪さんが、慌ててその人差し指を自身の口にくわえた。柔らかく温かい口腔内と、指に絡みつく唾液。彼女の舌先が怪我をした部分をなぞるように動く。そのすべてが私を欲情させ、カッと身体を熱くさせた。
「ちょっと待っててね。今絆創膏持ってくるから」
美雪さんは人差し指から口を離すと、どこかへ行き、そしてすぐさま戻ってきた。そして絆創膏を傷を負った私の人差し指に貼る。
「はい、これで大丈夫」
「ありがとう、ございます」
そう答えるのが精一杯だった。私が顔の熱がバレないように俯き加減でいると、横から雪乃が入ってきた。
「ちょっと、お母さん。指舐めるのはナシでしょ。いくらなんでも汚いよ」
「え、そうなの? 雪乃が怪我した時よくこうしてたから、ついやっちゃった。千秋ちゃんごめんね。嫌だったでしょ?」
「いえ、そんなことないです。私も昔母によくされてましたから」
本当はそんなことないけれど。まさか、むしろ嬉しいです、とは答えられない。
「本当にごめんね」
「いいから、お母さんは割れたお皿片付けて」
申し訳なさそうな顔をする美雪さんに対して、雪乃は容赦なく仕事を押しつける。そして自分はまたソファへと戻った。あんたは手伝わないのか。
「ここは私がやるから、千秋ちゃんは向こうにでも行ってて」
そう言って、美雪さんが割れたお皿を片付け始める。私は言われた通り、ご飯を食べたテーブルの方へ移動した。そして、こそっと絆創膏の貼ってある指に触れる。
熱い。痛みなんて感じないくらい、未だに人差し指は、私の鼓動と一緒に激しく脈打っている。
悠二と肌を重ねた時でも、こんなに激しい衝動はなかったのに。正直、ただ痛かったということだけしか覚えていない。
でも、美雪さんは違う。指先を舐められただけでこんなにも取り乱してしまうほど、私は彼女を心から欲している。こんな気持ちは初めてだった。
改めて気付く。私は美雪さんのことがこんなにも好きなんだと。
片付けを終え、お茶で一休みした後、おじさんと雪乃と一緒に私は帰ることになった。
ご近所といっても、田舎の隣はそれなりに距離がある。女の子一人で夜道を歩くのは危ないと、いくら断ってもおじさんが首を縦には振らないのだ。
田舎道なので街頭は無いけれど、夜空に浮かぶ星と月明かりだけで十分見える。前を歩くおじさんを置いて、雪乃が私の隣へこそっと寄ってきた。
「この前ね、悠二に冗談で、千秋が浮気したらどうする、って訊いたの。そしたらあいつなんて答えたと思う?」
「さあ。なんて答えたの?」
「その時は、千秋の運命の相手は俺じゃなかったんだって思って、千秋の幸せのために潔く身を引くって。でも、それでも想い続けるかも、だってさ」
「そう、なんだ」
「愛されてるねー、千秋。ヒュー、ヒュー」
雪乃が冷やかすように、肘で私の腕を小突く。普通の恋人なら、ここで頬を赤らめて喜ぶのかもしれない。でも、私の胸に芽生えたのは、重く冷たい罪悪感だった。
家に着いて、制服のまま部屋のベッドにダイブする。枕に顔を埋めた後、絆創膏が貼ってある人差し指を眺めた。
「美雪さん……」
呟いて、絆創膏に口づけしてみる。間接キス。そんなことを言ったら、子どもじみていると笑われるだろうか。
「はあ……。なんで好きになっちゃったんだろう」
二ヶ月前の秋祭りまでは、ただの“雪乃のお母さん”だった。美人で、大人で、優しくて。私の中では理想の母親。恋愛感情を抱くなんて少しも思わなかった。
でも、あの歌を聴いてそれが変わった。結婚する前は歌手を目指していたという美雪さんの歌は、他の人より群を抜いて煌めいていた。あれを見さえしなければ、こんなことにはならなかったのに。
「いや……」
はたしてそうだろうか。
夕食に誘ってくれた時、とても嬉しかった。バレーの試合に負けた時、一生懸命励ましてくれた。私が受験に失敗した時、ただ何も言わず側にいてくれた。そう、秋祭りはただのきっかけ。そういうことの積み重ねが、もしかしたら知らず知らずのうちに美雪さんのことを好きにさせていたのかもしれない。
「あー、もうっ」
もどかしい気持ちを表すかのように、私は足をバタバタさせる。そして、疲れたと一息ついたところで、ある一つのぬいぐるみが目に入った。
悠二と初めてのデートで行った遊園地。そこで彼が私にプレゼントしてくれたクマのぬいぐるみだった。
そのクマの目が私に問いかける。お前はそれでいいのか、と。その声が聞こえた瞬間、私は夢から覚めたかのように青ざめた。
「違う、違うの……」
悠二のことは普通に好きだ。こんな何の取り柄もない私を好きだと言って、いつも変わらぬ愛情を注いでくれるから。
私が受験勉強に専念したいから別れたいと言うと、終わるまで待つからその時また考え直して、と彼は答えた。第一志望の高校は別々だったから、私が合格したら離れ離れになるというのに、勉強頑張れと応援してくれた。それがどれだけ励みになったことか。だから、同じ高校になった時、今度は私から付き合ってほしいとお願いしたのだ。そんな彼を私は裏切れない。
それに。なにより一番嫌なのは、雪乃を失うこと。子どもの頃から一緒にいる彼女は、人付き合いの苦手な私にとって本音でなんでも言い合える唯一の友達だ。もし私が自分の母親と浮気してるなんて知ったら、雪乃は私を軽蔑して、きっと離れていってしまう。そう考えただけで恐怖に身体が震えた。それだけは絶対に避けなければならない。
そう、頭ではわかっているのに。
「私は最低な人間だ」
そんな大切な人達がいながら、私は美雪さんを好きな気持ちを捨てきれないでいる。二人の深く傷付いた顔は見たくないのに、美雪さんの笑顔を独り占めしたいと思ってしまう。
なんというワガママ。そしてジレンマ。こんな自分が、ひどく汚らしい生き物のように思える。
「最低だ……」
ただひたすらに降り積もる罪悪感。そして激しい自己嫌悪。悠二や雪乃の笑顔を見る度に、罪の意識が深くなっていく。今は二人を直視するのが辛い。
いっそ悠二や雪乃や美雪さんのいない世界へ行けたなら、もうこんなことで悩まずに済むのに。
悶々と悩む私の隣でスマホが振動した。メッセージの送り主は、雪乃。
『今日は来てくれてありがとね。お母さんも喜んでたよ。つーかさ、もういっそうちに住んじゃえば? そしたら千秋とずっと一緒にいれて、私は嬉しいけど(笑)』
思わず息を呑んだ。美雪さんと一緒にいられるとか、そんなことを考えたわけじゃない。雪乃が私といて嬉しいと言ってくれたことが嬉しかったのだ。たとえそれが冗談だとしても。
「雪乃……ごめん」
こんな汚い私で。雪乃のお母さんを好きな自分で。やっぱり、雪乃には嫌われたくないよ。




