スリーピング・ビューティー(2)
おかしい。瞼が開かない。
確かに脳は覚醒しているはずなのに、瞼がのりで貼り付けられたかのように動かない。まるで金縛りにあったみたいだ。
大丈夫、落ち着こう。こういう時は無理して開けようとしないで、焦らず、ゆっくり、集中して。ほら、ゆっくり、ゆっくり。
心の中で自分に言い聞かせる。すると、それまで動かなかった瞼がゆっくり動き出した。真っ暗闇だった世界に、徐々に光が差し込んでくる。
最初に目に飛び込んできたのは、白みがかった天井だった。私の家のものではない。学校のものでもない。いったいどこのものだろう。
首を僅かに動かしてみる。
開いた窓の外には青空が広がり、そこから暖かい風が優しく吹き込んでくる。「おはよう、元気?」という鳥の可愛いおしゃべりが聞こえ、遠く向こうには蜃気楼のような街並みと、そして鮮やかに咲く桜が点々としているのが見えた。
もし、「春」という題材の絵があったなら、これのことをいうのだろう。
気持ち良いな。
夢の中では冬ばかりだったから、この感覚は久しぶりな気がして心が震える。小さく深呼吸をしてみると、身体中が綺麗な空気で満たされた気分になり、とても清々しい。
四季なんてどうでもいいと思っていたけれど、いざそれを失ってみると、この感動とありがたみを実感する。
そこまで考えてはたと気付いた。
あれ? 夢でこんな場面あったっけ。
そう疑問に思っていると、ふいに部屋のドアが開く音が聞こえた。そこから人の足音が近付いてくる。
「柴田さーん、おはようございまーす」
それは女性だった。彼女は私を見ることなく、一緒に持ってきた台車の上で何かを書いている。そして、数ある道具の中から体温計を一本手に取った。
「じゃあ、お熱計ります、ね……」
彼女の目と、私の目とがぶつかった。その直後、彼女の動きがピタリと止まる。
この人誰だろう。
その驚きに大きく見開かれた目をじっと見つめる。そしてついに五秒経って、彼女はようやく口を開いた。
「ウソ……柴田さんが目を覚ました……っ。あの、柴田さん、おはようございます」
おはようございます、という思いを込めて小さく頷く。
「柴田さん、ここがどこだかわかりますか?」
わからないので首を横に振る。
「ここは病院です。柴田さんはずっとここに入院されてるんですよ」
入院? なんで?
そういう気持ちを込めて首を傾げてみる。すると、彼女はそれを汲み取ってくれたらしく苦笑した。
「そうですよね、わかんないですよね……って、こんなことしてる場合じゃなかった。寧々ちゃん先生呼んでこないとっ」
そう言うと、彼女は大慌てで病室を飛び出していった。
忙しない人だな。ってか、"寧々ちゃん先生"って誰?
わからないことだらけだけど。でも、彼女のおかげでちょっとわかったこともある。ここは病院で、私はどうやら入院しているらしいということ。
そう言われても実感が湧かない。
彼女はなんであんなに驚いていたんだろう。わからない。頭がぼーっとして、何だか霞がかったみたいにすべてがぼんやりしている。
(あなたはもう十年も眠り続けている)
ふいに間宮先生の声が耳に蘇った。
あの言葉は本当なんだろうか。私はずっと眠り続けていて、だからさっきの彼女は目を覚ました私を見て驚いたのだろうか。
わからない。それでもただ一つだけ、はっきりと胸に湧き上がる思いがあった。
間宮先生に会いたいな。
「……寧々ちゃん先生! 病院内は走らないでっ」
「すみません、すみません! でも……っ」
病室の外が随分と騒がしい。誰かが走ってくる足音が徐々に近付いてくる。そしてその音がピークに達した時、突然ノックも無しにドアが開いた。
「先輩!」
あまりにも大きな声に一瞬ビクつく。そのまま足音は私の方へ真っ直ぐ近付いてきた。そして、その足音の主の顔を見て、私は僅かに目を見開いた。
そこに立っていたのは、夢で見た間宮先生その人だった。
「ほんとに起きてる……っ」
間宮先生の私を見つめる目は少し潤んでいる。そのまま、目尻に溜まった涙が頬を滑り落ちた。拭おうと手を動かそうとするけれど、どうしてだろう、なんだか上手く動かせない。そのうちに、間宮先生が私の右手を握ってくれた。
「良かった……本当に良かった……っ」
温かい先生の手と声。それだけで不思議と嬉しくて涙が溢れた。
先生の思いを受け止めるように、私も渾身の力を振り絞ってほんの少しだけ握り返す。すると、先生は私の手を愛おしそうに頬に当ててくれた。
「十年も眠り続けるなんて、お寝坊さんにもほどがありますよ。ほんとに心配したんですから。このまま目を覚さなかったらどうしようって」
その声は涙で震えている。それでも、先生の顔は笑っていた。
「ご……ね……」
ごめんね。そう謝りたかったのに、口が上手く動かない。しゃべりたいのに、顔に全然力が入らない。
そんな私の戸惑いに気付いたのだろう。
間宮先生はまるで子どもをあやすように柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。たぶん、十年も動かしてなかったせいで、顔の筋肉が強張っているだけですから。リハビリをすればすぐしゃべれるようになります。だから安心してください」
大丈夫。それは夢の中で間宮先生から聞いた言葉。先生がそういうなら大丈夫か、なんて不思議と不安が消えていく。
しばらく二人見つめ合う。その時、先生の背後からパンっと手を叩く音がした。
「感動の再会のところ悪いんだけどさ、寧々ちゃん先生。これからの指示を出してもらってもいい?」
そう肩を竦ませていたのは、さっき大慌てで部屋を飛び出していった彼女だった。どうやら看護師だったらしい。
「あ、あのっ、すみません!」
間宮先生は頬を赤らめると、パッと手を離して立ち上がった。
「えっと、まずご家族に連絡してください。あと検査の準備も。何が必要かは後でお伝えします」
「わっかりましたー」
看護師さんはそう頷くと、ドアの方へと歩き出す。しかし、ドアの前でくるりと間宮先生を振り返ると、彼女はニヤリと笑った。
「イチャつくなら二人きりの時にしなよ。その方がムード出るし、やらしいことも気兼ねなくできるっしょ」
「よ、横溝さん! なっ、なっ、なっ、何言って……っ」
「さーて、連絡、連絡っと。じゃねー」
そう言って、彼女は去りながら私達に向かってウインクしていった。若い人だからなのか、そういう性格だからなのか、なかなかチャーミングな人だ。
ふいに、間宮先生と目が合う。すると、彼女は耳まで真っ赤にして否定し始めた。
「あのっ、や、やらしいことなんてしませんから。絶対絶対しませんから!」
やらしいことってなんだ、と思いつつとりあえず頷いてみる。
間宮先生の照れた顔が可愛い。
心の中ではクスクス笑っているんだけど、顔にも少し出てたのかな。しばらくして間宮先生も笑ってくれた。
「先輩、落ち着いたらまた後で来ますね。何かあったらこのナースコールで呼んでください」
わかった、と頷く。それを見て満足したのか、間宮先生は名残惜しそうに部屋を出ていった。
静まり返る室内。誰もいなくなった部屋。足音が遠のいていくのがわかると、なんだか急に心細くなった。
もしかして、これもまた夢なんだろうか。学校から場面が変わって、今度は病院であの飛び降りる夢の続きが始まるのだろうか。
それは嫌だ。もうあの悲劇は繰り返したくない。
怖くなってナースコールを押そうとする。しかし、やはり手が上手く動かせない。
間宮先生のバカ。
身体が動かせないのに、どうやってナースコール押せっていうんだよ。
悪態をつきつつもがいてみる。すると、指が何かに触れてひやりとした。これはもしかして……間宮先生の涙。
もう一度触れてみる。すると、それは確かに冷たいはずなのに、間宮先生の頬を流れ落ちる涙に触れた時の温かさがふわりと蘇ってきた。
それだけじゃない。握る手の感触も、頬に触れる温もりも、すべてが私の右手に残っている。そのすべてが、これは現実だと私に教えてくれた。
大丈夫。これは夢じゃない。私は確かに目を覚ましたんだ。
そう安堵すると、何故だろう、再び眠くなってきた。十年も眠り続けていたくせにまだ眠いのか、とツッコミを入れたいところだが、体育祭の後のような疲れと気怠さが私を襲う。
それでも、また眠り続けたら、という不安は不思議となかった。
もしそうなったとしても、また間宮先生が起こしにきてくれるはずだから。
次に目を覚ましたら、目の前に家族がいた。
少し老けた両親と、私より大きくなった弟。三人は目を覚ました私を見るないなや、泣きながら私にしがみついてきた。
抱きつくというより、覆い被さっていると言った方が正しい。重い、苦しい。それでも、それほどまでに喜んでくれていることが嬉しい。
こんなことになるまでは、そんなに実感したことはなかったけれど。家族のこの様子を見ていると、私は確かに愛されていたんだと実感する。私はこの人達を悲しませるようなひどいことをしてしまったんだと、罪悪感が胸を締めつける。
そんな私の心の声に、間宮先生は気付いたのだろう。
「確かに、先輩はご家族を悲しませるようなことをしたのかもしれません。ですが、もしそうならこれから返していけばいいだけの話です。心配かけた分、いっぱい愛して、いっぱい大切にして、家族孝行すればいいんです。そしたらきっと、以前よりもっと素敵な家族になっているはずですから」
そう言って、間宮先生は私の心を守るように優しく笑った。
間宮先生がそばにいると安心する。
何かあるとすぐフォローしてくれて、私が不安にならないようにしてくれる、というのもあるけれど。目の端に映り込んでいるだけで、一人じゃないという安心感がある。
この人が、ずっとそばにいてくれたらいいのに。
間宮先生が病室を離れた直後から、再び眠気に襲われる。
間宮先生の夢でもみないかな。そんなことを思いながら、私は静かに目を閉じた。
次に目を覚ましたのは、夜だった。
物音がして目を開ける。その先にいたのは、横溝さんではない別の看護師さんだった。
「起こしてごめんなさい。でも、もうすぐ消灯時間だから。眠くないかもしれないけれど」
そう言って彼女は苦笑してみせる。
横溝さんと違って真面目そうな雰囲気が、身だしなみや整理整頓された台車上の道具などから読み取れた。
「あと、うちの横溝が失礼しました。あの子には私からキツく叱っておきますから」
胸ポケットにぶら下がっている"多々良"というネームプレートが、まるで怒っているかのように揺れている。
べつに叱るほどのことをされてない、という意味を込めて私は首を横に振った。
それを見て、多々良さんはフッと笑う。
「でも、柴田さんが目を覚ましてくれて本当に良かった。寧々ちゃん先生の執念のおかげかな」
執念? どういう意味だろう。
僅かに首を傾げる私を見つつ、多々良さんは話を続ける。
「間宮先生がどうして"寧々ちゃん先生"って呼ばれてるか、ご存知ですか?」
知らないので首を横に振る。
「柴田さんがこの病院に運ばれてきてからずっと、間宮先生は毎日あなたのお見舞いに来てたんです。雨の日も、風の日も、雪の日も。大学受験の日や、医師の国家資格試験の時でさえも。どんな時も毎日欠かさず」
間宮先生が、毎日欠かさず私のお見舞いに?
「だから、間宮先生はこの病院でちょっとした有名人だったんです。またあの寧々ちゃんが来てるって。だから"寧々ちゃん先生"」
十年間も、私なんかのためにお見舞いに来てくれていたのか。私は、間宮先生に何もしてあげられていないのに。
「まさか本当に医者になってここへ帰ってくるとは思わなかったけど。誰かにこんなにも想われるなんて。私は、柴田さんがちょっと羨ましいです」
羨ましい、か。私は少し申し訳ない気持ちがする。
自分勝手な振る舞いで寝たきりになった私を想い、間宮先生はきっと人生で一番楽しい十年間を私のせいで無駄にしている。そんな気がしてならない。
それなのに。
間宮先生はどうしてそこまで私に尽くしてくれるのだろう。
ふいにドアをノックする音が聞こえた。そして、開いたドアから間宮先生がひょっこり顔を出す。それを見て、多々良さんは「噂をすれば、だわ」と小さく笑った。
「多々良さん、もうバイタルチェック終わりました?」
「ええ、ちょうど今終わったところです。異常はありませんでした」
「そうですか。それは良かった。……あのっ」
「消灯時間は守ってくださいね、寧々ちゃん先生」
「…………はい」
先を読まれてる。おずおずと病室に入ってくる間宮先生と入れ違いに多々良さんがドアの方へと移動する。その後で、彼女は間宮先生を振り返った。
「まあ、私達看護師も人間ですから。周りに迷惑をかけない範囲であれば、たとえ消灯時間を過ぎた後だったとしても、面会者を見逃してしまうかもしれませんね」
「え?」
目を丸くしている間宮先生を見て苦笑しつつ、多々良さんは病室を出て静かにドアを閉めた。
なるほど、間宮先生はこの病院の人達にとても愛されているらしい。
そのうちに室内の明かりが消え真っ暗になる。すると、間宮先生がベッド脇のスタンドを点けてくれた。
今は白衣を着ていない、私服だ。今日の勤務は終わったのだろう。そのまま、間宮先生はベッド脇の丸椅子にちょこんと座る。
「疲れてませんか?」
大丈夫、と小さく頷く。
「良かった。でも、たぶんこれからが大変だと思います。ずっと寝たきりだった分、先輩のADLはかなり低下しているでしょうから。それをリハビリで回復していかないと。あ、ADLというのは、日常生活動作のことです。食事や排泄といった、日常的に行っている動作のことって言えばわかりますかね?」
なんとなくわかったので頷いてみる。
「最初は辛いかもしれません。身体が思うように動かない歯痒さとか、人の手を借りないと何もできない悔しさとか、心の葛藤も出てくるかと」
その話を聞いて、私はいったいどんな顔をしていたのだろう。間宮先生はまた私の手を握ると、安心させるように微笑んだ。
「安心してください。理学療法士や作業療法士、あと言語聴覚士の方々なんかと、今後の先輩のリハビリ方針について相談していきますから。辛い時は私が話を聞きます。ですから、一緒に頑張りましょう」
一緒に頑張る。
どうしてだろう、間宮先生にそう言われると、私も頑張ろうかなと思ってしまう。一人じゃないんだと、胸に湧き上がる不安がすぐに打ち消されてしまう。
どうして、間宮先生がそばにいるとこんなにも安心してしまうんだろう。
不思議に思って、しばらく間宮先生をまじまじと見つめてみる。すると、何を勘違いしたのか、彼女は顔の前でごめんのポーズをしてみせた。
「すみません! 私自己紹介もせずに先輩に……じゃない、柴田さんに馴れ馴れしかったですよね。ほんと、ごめんなさい!」
今さら何言ってんだろう、この人。そういう思いで首を傾げてみる。しかし、間宮先生は止まらない。
「私は、間宮寧々といいます。この病院の脳外科医です。柴田さんとは同じ高校の先輩と後輩だったんですけど。……私のこと、覚えてないですよね」
最後の言葉は、消え入りそうなほど小さかった。切なそうに下を向くその顔は、今にも泣きそうだ。
私は首を横に振る。そして、渾身の力で口を動かした。
「み……あみ……お……げ……ちゃ……」
三つ編みお下げちゃん。
私より先に屋上から飛び降りようとして、結局高所恐怖症で諦めた、怒った顔も可愛い私の後輩。
間宮先生の目が驚きに大きく見開かれる。
「……私のこと、覚えててくれたんですか」
噛みしめるように頷く。すると、徐々に間宮先生の表情が崩れていき、そのまま、彼女は私の胸に顔を埋めて泣き始めた。
忘れるわけがない。
繰り返し見る夢の中、私と幼なじみ二人以外で、三つ編みお下げちゃんだけは欠かされることはなかった。
あの告白の日を後悔しているだけなら、その場面だけ繰り返せばいいのに。彼女との出会いだけは消えないまま残っていた。
それはたぶん、心のどこかで彼女のことが気になっていたから。そしてきっと、彼女が毎日私のお見舞いに来てくれていたから。
彼女の想いが、私の夢に届いていたのだ。
未だ不自由な右手をなんとか動かし、震える掌で間宮先生の頭を撫でる。彼女が泣き止むまで、私はしばらくそうしていた。
「すみません……もう、大丈夫です」
泣き止んだ間宮先生が、目尻に溜まった涙を袖口で拭いながら恥ずかしそうに笑う。怒った顔も可愛かったけど、こういう顔はさらに可愛らしい。
つい見惚れていると、間宮先生は呼吸を整えるため、一度大きく深呼吸をした。
「私の家は医師家系で、親兄弟もみんな医者なんです。あの頃、両親や兄二人も在籍していた有名進学校に私だけ落ちてしまって。落ちこぼれのレッテルを貼られていました。まあ、もともと出来はよくなかったので、あまり期待はされてませんでしたけど」
そう言って間宮先生は苦笑する。
「生きてる意味がわからなくなって、家にいても学校にいても息苦しくて、辛くて。私なんて生まれてこなければ良かった、ってずっと思ってました。だから先輩と初めて出会ったあの日、もう死んで楽になろうと思ったんです。私が死んだって誰も悲しまない。私なんか生きてる資格なんてないんだって。そんな時、声をかけてくれたのが先輩でした」
間宮先生の柔らかい視線が私に注がれる。私は目だけで「私?」と訴えた。
「最初は変な先輩って思ってました。でも、いつでも話を聞くって言ってくれたことが嬉しくて。誰にも言えないっていうのが苦しかった分、ちょっと心が軽くなったんです。この人がいる限りは生きてみよう、もうちょっとだけ頑張ってみよう。そんな風に少しだけ前向きになれました」
そこまで言って、間宮先生は一つ息をついた。
「やっと聞いてもらえましたね、私の悩み。十年もかかっちゃいましたけど」
間宮先生が苦笑する。しかし、すぐさまその表情は沈んだ。
「先輩は、私に手を差し伸べてくれた。それなのに、私はあの日何もできなかった」
間宮先生が何かを思い出すかのように目を細める。そして、膝の上に載せている両手を力強く握りしめた。
「私、たまたま先輩が希美先輩に告白してるところを目撃してしまったんです。振られた後すごくショックを受けている先輩が危うくて、放っておけなくて。屋上までこっそり後をつけていたんですけど。そしたら先輩が柵を乗り越え始めて……」
間宮先生の身体が小刻みに震え始める。
「先輩がこれから何をしようとしているのか。それがわかった瞬間、急に怖くなって、身体が動かなくなってしまって。何もできないまま震えてる間に先輩は……っ」
間宮先生の両手がさらに強く握られた。
「私があの時声をかけていたら、止めていたら、先輩は飛び降りずに済んだかもしれない。それなのに、私はただ震えるばかりで何もできなかった。先輩は止めてくれたのに、私は声をかけることすらできなかった。それが悔しくて……っ」
間宮先生の手の甲に、涙の滴が静かに落ちる。私は、その涙を拭いたくてたまらなくなった。
そんなに後悔なんかしなくていいのに。
間宮先生のせいじゃない。悪いのは、死ぬことを選んでしまった私のせい。なのに、先生がこんなに傷付く必要なんてない。
間宮先生に向かって、一生懸命手を伸ばす。そんな私に気付いたのだろう。先生は急いで涙を拭うと、私の手をその温かい両手で包み込んでくれた。
「だから決めたんです。先輩が私を助けてくれたように、今度は私が先輩を助けようって。家のためじゃなく、先輩を救うために医者になろうって。でも、結局私は何もできなかったです。私が何もしない内に、先輩は自力で目を覚まして。私、ほんと役立たずですね」
私は落ち込んでいる間宮先生の手を握り返す。そして、そんなことないと首を横に振った。
「あ……がと……」
「え?」
「み……てな……でく……て、あ……がと……。あ……がと……っ」
見捨てないでくれてありがとう。
こんなどうしようもない私を、十年間も待ち続けてくれてありがとう。
私が目を覚ますことができたのは、紛れもなく間宮先生が私のことを想い続けてくれたから。絶対目を覚ますと、諦めずに私のそばにいてくれたから。
だから、間宮先生は何もできてないなんてことはない。役立たずだなんて、そんなことあるばすがない。
そんな思いを込めて間宮先生を見つめる。すると、先生はまたポロポロと泣き始めた。ただただ、私の手を握りしめながら。まるで、懺悔した後の罪人のように。
たとえ間宮先生が罪滅ぼしのために私のそばにいてくれたのだとしても、今はそれでもかまわない。ただ、いつかこの感謝を想いを自分の口から先生に伝えられたらいいなと思う。
あの日のことも、繰り返し見た夢のことも、先生のおかげで目を覚ますことができたんだってことも。何もかも全部。
そして確認してやるんだ。先生、私が寝てる間にキスしましたか、って。
だって、未だに夢でした間宮先生とのキスの感触は、この唇に残っているのだから。




