スリーピング・ビューティー(1)
最近、よく落ちる夢を見る。
学校の屋上で一人、私は涙を流しながら飛び降りる。そしてぶつかるという直前で目が覚めるのだ。
「それってさ、潜在的に何か不安なことがあるから見るんじゃないの?」
「コウ、勉強しすぎ。受験ノイローゼで変な夢見ちまってるんだよ。正夢にすんじゃねーぞ」
「うっさい、哲也。お前なんぞ五百円玉を側溝に落としてしまえ」
「なにそのちっちゃい不幸っ? 地味に嫌なんだけど」
「じゃあ、百円追加で」
「だから地味! なんだよー、俺は心配して言ってやってんのに」
「はいはい、二人ともケンカはやめて。昼休み終わっちゃうよ」
いがみ合う私と哲也を、希美が慣れた様子でどうどうとなだめる。途中でバカらしくなった私は、食べ終わった弁当箱をうりゃっとカバンに押し込んだ。
保育園から高校まで腐れ縁の私達三人は、たぶん自分よりもお互いのことをよく知っている。言いたいことは遠慮なくズバズバ言うし、悩み事の相談だって星の数ほどしてきた。消してしまいたい過去の恥ずかしい思い出も知っているし、三人だけの秘密も共有している。
そんな旧知の仲の私達だけれど。ただ一つだけ、恋愛相談だけはお互い今までしたことがなかった。
「コウ、何か悩んでるなら話して。いつでも相談に乗るから」
「そうだぞ。一緒に風呂にだって入ったことのある仲じゃんか。今さら隠し事なんて水くさいことすんじゃねーよ」
「……それ、そのままそっくりお前に返してやる」
「なっ」
「え、どうゆうこと?」
「な、なんでもない、なんでもない! 何言ってんだろなこいつ」
はははっと笑いつつ、哲也は眉間にシワを寄せている希美に向かって何でもないと片手をブンブン振る。その彼の赤くなった顔と焦った姿が面白くなくて、私はふてくされた顔のまま視線を窓の外に移した。
高校三年の十一月の教室は、一、二年の時よりもどことなく静かで落ち着く。自分だけでなく、他の生徒も勉強を頑張っているんだと思うと励みになる。だから別に受験勉強が死ぬほど苦だということはない。
では、何が私にあんな夢を見せているのか。その理由に、私は一つだけ心当たりがあった。
「なあ、希美って好きな奴いんの?」
夏のはじめ、一緒に下校するため希美を待っている時。真面目な顔をした哲也からそう質問された。
本人はさりげなさを装っていたけれど、付き合いの長さで彼の真剣さは伝わってくる。彼から恋愛相談を受けたのはこれが初めてだった。
「さあ、知らない」
哲也は基本単純だから、子どもの頃から希美のことを好きなことには気付いていた。だから、やっとかよという心持ちだったけど。
「ねえ、哲也って好きな人いるのかな?」
希美からそう相談を受けたのは、哲也からの質問を受けたほんの数日後だった。ほんのりピンクに染まった頬が、その質問の意味を痛烈に私に伝えてくる。そのあまりの痛さに、私の唇はしばらく動かなかった。
「……さあ、知らない」
かろうじて声を絞り出し、動揺しているのを隠すように視線を逸らす。希美は「そっか」と呟くと、それ以上は突っ込んでこなかった。
そう、二人は両想い。
だから、希美から質問された時点で哲也からあんたの相談を受けたと素直に伝えていれば、彼女はきっと今頃彼に告白していただろう。でも、意地の悪い私はそれをしなかった。
だって、私は希美のことが好きだから。
いつから希美への"好き"が恋愛感情に変わったのかははっきりと覚えていない。
ただ、誰にも取られたくなくて、私だけ見ていてほしくて。それがピークに達した時、この感情が恋なんだと初めて気付いた。
わかっている。哲也はバカでお調子者ではあるけれど、友達思いの優しい良い奴だ。だから、きっと希美のことを幸せにしてくれるだろう。そう断言できる。
でも、そうだとわかっていても、なかなか割り切れない。二人が楽しそうにおしゃべりしている姿を見ていると、嫉妬で狂いそうになる。
「親友の幸せも願えないなんてね。私って最っ低」
放課後、屋上に続く階段を上りながら独りごちてみる。
哲也は実家のラーメン店を継ぐため、高校を卒業したら就職。希美は地元の大学を希望し、推薦入試の合格待ち。どちらも地元に居残り組。
だから私は県外の大学を希望した。二人から離れるために。この先、私の片想いの相手が誰かと両想いになる姿を見なくて済むように。
「かっこ悪ー」
告白もせずに、ただ逃げるだけの自分。
ドラマや漫画では告白すべきだと訴えているけれど。私からしてみたら、結果がわかっているのにわざわざ傷付く方を選ぶなんてバカげている。
しかも相手は同性。下手をすれば親友の座から転落。もっとひどければ、嫌われて、もう二度と口を利いてもらえないかもしれない。
それは、はっきりいって地獄だ。
そんな抱えきれないほどの苦痛を味わうくらいなら、私はずっと希美の親友でいる。彼女への想いを心の奥底に封印して、変わらない幼なじみを演じる。そう、心に決めたはずなのに。
「苦しい……」
どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。今は希美の顔を見る度に泣きそうになる。
もし、夢の中のようにこの屋上から飛び降りたなら。
この胸の苦しみも少しは楽になるだろうか。
屋上へと続く扉を開ける。すると、いつもは誰もいないはずのこの場所に先約がいた。
一人の女子生徒が、手すりから下の景色をただじっと眺めている。
空はこんなに青いのに。それすら気付く気配もなく、ただ思いつめた顔で立っている。そんな彼女の様子に、何故だろう、不思議と親近感が湧いた。
しばらくはその様子をただなんとなく見ていたけれど。とうとう彼女が手すりに足をかけ始めたので、私は慌てて声をかけた。
「それ以上行くと落ちちゃうよ」
「え……っ」
彼女の眼鏡の奥の瞳が驚いている。今時三つ編みお下げとは珍しい。ブレザーの襟に付けている校章の色から、どうやら彼女が後輩らしいということがわかった。
「もしかしなくても、飛び降りるつもりだった?」
「…………」
「死んでも良いことないと思うよ?」
「邪魔しないでください」
彼女は俯いたまま、キッパリと私を拒絶する。その様子に彼女の本気度を感じて、私は「わかった」と言って頷いた。そして、手すりをひょいと乗り越える。
「えっ、ちょっと……っ」
「一人じゃ寂しいでしょ? だから、私も一緒に飛び降りてあげる。わお、私って優しい先輩ー」
「冗談はよしてください。本当に死にますよ」
「冗談じゃないよ。最近ちょっと嫌なことがあってさ、生きるのが面倒くさくなっちゃった。でも一人で死ぬのは怖いし寂しいから、あなたも一緒だと助かる」
「そんなこと、言われても……」
「いいから、いいから。あんたもこっちくる」
「へっ?」
手すりに足をかけたままの彼女を、半ば強引にこちらへと引き寄せる。彼女は「きゃっ」と可愛い悲鳴を上げて私の腕の中へ入ってきた。
「うーん、やっぱ高いね」
下を覗く。夢で見た景色と一緒だ。
寒々しいコンクリートと、蟻のように動く生徒達。眼下に広がる地面が、私が飛び降りるのを今か今かと待ち構えている。まるで私を飲み込もうとしているかのように。
死に対する好奇心と、抗うことのできない自由への渇望。
何故だろう、身体が勝手に吸い寄せられる。
しかし、今にも飛び立ちそうな私を止めたのは、震える手で私の制服を握りしめている後輩の彼女だった。
「なに、今さら怖気づいたの?」
「違っ……わ、私、高所恐怖症なんです……っ」
「はあ?」
なんだそれ、と私がツッコミを入れる前に、彼女は涙目になりながらその場にヘタリと座り込んだ。
飛び降り自殺しようとしてたくせに、今さら高所恐怖症で怯えるってなんだよ。
「あんたさ、覚悟決めて手すり乗り越えようとしてたんじゃないの?」
「そうなんですけど、そうなんですけど……やっぱりダメぇーっ」
「ダメって……」
駄々をこねる子どものように、彼女は私の足にしがみつく。そのあまりの情けなさに、私は思わず吹き出してしまった。
「ぶっ、あははははははっ! 面白い、面白いよ、三つ編みお下げちゃん」
「ふぇ……三つ編みお下げちゃん?」
「私と一緒、かっこ悪ーっ。ぷっ、はは!」
「そ、そんなに笑わないでください! こっちは真剣に怖がってるんですよっ」
「えい」
「きゃあぁぁ!」
わざと軽く小突いてみる。すると彼女はまた半泣きになりながら私にしがみついてきた。それが可笑しくて、私はまたお腹を抱えて笑う。そんな遠慮なくゲラゲラ笑う私を、彼女はズレた眼鏡越しに恨めしそうに睨んでいた。
しばらくして笑い終わり、私と三つ編みお下げちゃんは手すりを乗り越えて屋上の内側へと戻る。そこで彼女はやっと安堵のため息を漏らした。
「信じられません、一緒に飛び降りようとするなんて。普通なら引き止めますよね?」
「だって、そっちの方が残酷じゃない。死を覚悟するほど生きるのが辛いのに、相手のその気持ちを無視してそこに留まれなんて。私には言えないわ」
「それはっ……そうかもしれないですけど。だったらなんで私に声をかけたんですか?」
「んー、美人だったから」
「は?」
「こんな綺麗な子が死ぬなんてもったいないなーって思ってたら、気付いたら声かけてた」
「なっ……か、からかわないでください! またそうやって私の反応見て楽しんでるんでしょっ」
「あ、バレた? あったりー」
ニシシッと悪びれることもせず笑ってみる。そんな私を、彼女は潤んだ瞳で恨めしそうに睨んでいた。
まるで見知らぬ人に吠えようとしている子犬のようで全然怖くない。そんな様子がまた可愛らしい。
私はクスリと笑いつつ、そんな彼女の頭に手を乗せた。
「でも、美人だなーって思ったのは本当。何で悩んでんのかは知んないけど、私で良ければいつでも話聞いてあげるから。ひとまず、今日のところはこれで終わり。それでオッケー?」
「……べつにかまいませんけど。でも、先輩に話を聞いてもらうことは一生ないと思います」
「言うねー。見た目に反してけっこう芯あるじゃん。これなら大丈夫そうだ」
未だ睨んでいる彼女を無視して立ち上がる。「んーっ」と伸びをしてみると、それまでモヤモヤしていた気持ちがいつの間にか消えていた。
「じゃあね、三つ編みお下げちゃん。今度は飛べるといいね」
「大きなお世話です!」
笑いながら手を振る。どうしてだろう、怒っている彼女の顔が何故か可愛く見えた。
「柴田さん、また落ちる夢見たんですか?」
「そうなんですよ。べつに害は無いからいいんですけど、さすがにこう何度も見てしまうと何かあるんじゃないかって勘繰っちゃいますよねー。間宮先生なんとかしてくださいよ」
「私はただの保健医ですから、ご期待には添えません。でも、斉藤さんが心配してましたよ。柴田さんは内に溜め込むタイプだから、誰にも言えない悩みごとを一人で抱え込んじゃってるんじゃないかって」
「希美は心配性なだけです。べつに悩みごとなんて……」
「無い、とは言い切れない」
一瞬言葉に詰まった私を見逃さず、間宮先生はまるで見透かしたかのような顔でフッと笑った。
幼さの残る顔に、子犬のように丸い目。それとちょっと天然な所が子どもっぽくて、よく十代に間違われるらしい。
それでも、生徒の悩みを真剣に聞いてくれる姿は、信頼できる大人のそれだった。だからこそ、不思議と先生には何でもしゃべれてしまう。
「先生は、好きな人はいますか?」
唐突な質問に、間宮先生は「へ?」と間抜けな声を出す。それでも、私の目が真剣だと感じ取ってくれたのだろう。先生ははぐらかすようなことはせず、少しして小さく頷いた。
「います。もう十年近く片想いしてる」
「十年もっ?」
「バカみたいでしょ。いい年して同じ相手に十年も片想いしてるなんて」
「いや、それは……」
「でも、いくら諦めようと思っても全然ダメなんです。心が、思い出が、その人への恋心となって私を縛りつける。ほんと、なんでこんなに好きになっちゃったんだろう」
「あの、告白はしないんですか? そしたら諦めもつくんじゃ……」
「それができてたら、十年も片想いなんてしてないです。告白もさせてくれないんですよ。本当、ひどい人」
窓から入ってきた西日に照らされ、間宮先生の笑顔が寂しそうに揺れた。
本当は、聞きたいことがたくさんあった。相手はどんな人なのか、とか、どうして告白できないのか、とか。
それなのに。どうしてだろう、先生の纏うその憂いに呑まれて、私はそれ以上聞くことができなかった。
不思議な人。
今年からこの学校に赴任してきた間宮先生。
それなのに、初めて見た時からどこか見覚えがあった。出会ったのはこの時が初めてのはずなのに、何故かひどく懐かしいと感じてしまう。
「あの、先生と私ってどこかでお会いしたことありましたっけ?」
ある日思い切って聞いてみたけれど先生は「さあ、どうでしょう」と言って微笑んだだけだった。
話を聞いた今なら、懐かしさだけでなく親近感まで湧いてしまう。
「私もね、いるの、好きな人。でも、先生と同じで告白できない」
「どうして?」
「その人には好きな人がいるし、たぶん私のこの想いも受け入れてくれないと思う。だから、拒絶されるくらいなら、友達のままの方がいいと思って」
「そうですか」
「……それだけ?」
「え?」
「いや、こういう時ドラマや漫画ではそれでも告白した方がいいって説いてくるからさ。てっきり先生もそうアドバイスしてくるもんだと思ってた」
「告白するしないは本人の自由ですから。他人が強制するものじゃないと思いますし。それに……」
「それに?」
「柴田さんには、傷ついてほしくないから」
そう言って、泣くのを我慢するかのように間宮先生は笑う。
まるで、結果がわかっているかのような言い方。いや、脈はないという風に伝えたのは私なんだけれど。
先生の態度は私の未来を予見しているような気がして、なんだか私の胸をざわつかせた。
屋上に足を踏み入れると、外は人工的に作られたかのような綺麗な青空が広がっていた。
頬を伝っているのは、無数の涙。それを拭うことなく、私は柵を乗り越え縁の上に立つ。緩い風が頬を撫で、遠く見える景色はどこか虚でボヤけている。
そこにいるのは確かに私なのに、何故か実感がわかない。まるで録画した映像を観ているみたいだ。
そこで気付く。ああ、これはいつもの夢なのだと。
いつもの光景、いつものシチュエーション。そして、私はそのまま飛び降りる。それがいつものローテーション。
それなのに。今回に限っては様子が違っていた。
初めて私が後ろを振り返る。その視線の先、開いた扉の前に一人の女子生徒がこちらを見ていた。
眼鏡に三つ編みお下げ。
彼女の顔は青ざめている。驚いているような、悲しんでいるような、怖がっているような、そんななんとも表現し難い顔。怯える彼女は私を凝視していた。そんな彼女に向かって、私は震える唇で声をかける。
「…………、…………」
何と言っているのか上手く聞き取れない。それでも、最後の言葉だけははっきりと聞き取れた。
「……じゃあね、三つ編みお下げちゃん。バイバイ」
言った直後、私の身体は宙を駆ける。そして、何も言わず重力のまま落下していった。
ぶつかる。
その直前で目が覚めた。目に飛び込んできたのは、誰もいない寂しい教室。どうやら、自分の席でうたた寝をしていたらしい。
「今何時だろ……」
時間の感覚がわからない。人はいないし、鞄も机に一つとして掛かっていない。放課後かとも思ったけれど、部活動に励む部員達の声ばかりか、人の気配や物音すら何一つ聞こえない。まるで、休日の学校に来たみたいだ。
「バイバイ、か」
薄ぼんやりと覚えている記憶の中で、私は確かに誰かにそう言っていた。でも、どうしてそんな言葉をかけたのだろう。
いつもと少し違う夢。今まで出てこなかった謎の女子生徒。彼女の顔は強張っていたのに、頬に残る感触から、あの時の私は僅かに微笑んでいた。落ちる夢を見始めてから、こんなことは初めてだった。
「何かの暗示……なんてね」
考えすぎか。それとも、受験勉強のしすぎでとうとう夢まで歪んでしまったか。それとも、恋の悩みが私の精神を蝕み始めたか。
「勘弁してよ……」
ふう、とため息をつく。その時、教室の扉付近でカタンと物音がした。思わず振り向くと、そこにいたのは幼なじみの希美だった。
「ちょっと、コウ。こんなとこで何してんの。ずっと待ってたのに」
「待ってた? なんで?」
「はあ? 話があるから屋上に来て、って朝約束したじゃない。もう忘れたの?」
「そうだっけ。ごめん、覚えてない」
そんな約束しただろうか。いつ? 朝? ダメだ、記憶が混乱していて上手く思い出せない。
そんな頭を抱える私を見て、希美が心配そうに声をかける。
「ねえ、大丈夫? 体調悪いなら保健室行った方がいいんじゃない」
「ううん、大丈夫。まだ寝ぼけてるだけ。それより、話って何?」
「それは……」
希美は気まずそうに言葉を濁す。そして、一度周囲を見渡した。誰もいない教室には、私と希美の息遣いしか聞こえない。
希美もそう思ったのだろう。意を決した顔で彼女は口を開いた。
「ずっと、コウに聞きたかったことがあるの。哲也のことで」
「聞きたかったこと?」
「コウってさ、哲也のこと好きでしょ」
「……は?」
「だって、私と哲也が話してる時、コウつまんなそうにしてるじゃん。私達が二人で一緒にいるとこ見ないようにそっぽ向いてる時あるし。それに、哲也と話してる時のコウ、なんだか楽しそう」
「ちょっと待って。それはない、絶対に」
「ウソ。私にはわかるよ。だって、コウとは長い付き合いだもん。私に気を遣って哲也を避けようとしてるでしょ」
「だから、そんなんじゃないんだってば!」
「誤魔化さないで、私には正直に話して」
希美の目が、力強く私の目を捉えて離さない。まるで逃がさないとでもいうように。
私が哲也を好き? なにをバカな。
哲也と話してるのが楽しそうに見えるのは、なんの気兼ねもなくいつも通りしゃべれるから。目を逸らしてしまうのは、私の好きな人が楽しそうに哲也と話しているところを見たくなかったから。
希美と話す時は、すごく楽しかったけど少し緊張してたんだよ。この気持ちがバレないようにって。
希美が哲也と楽しそうにしてるところを見ると、いつも嫉妬で胸が張り裂けそうだったんだよ。
それなのに、どうしてあなたはそれに気付いてくれないの?
長い付き合いなのに、なんでそんな勘違いするの?
どうして、好きになったのは私じゃなくて哲也なの?
なんで……どうして……っ!
「コウ?」
「私が好きなのは、哲也じゃない。希美だよ」
「え?」
「中学の時からずっと好きだった。だからお願い、あなたがそんなひどい勘違いしないで」
壊された心の鍵。戻すことのできない隠し続けてきた感情。
でも、もうこれ以上は耐えられなかった。
私が好きなのは、希美だよ。哲也じゃない。
それなのに、あなたにそんな勘違いされると、ひどく悲しくなる。まるで、私達二人の間に恋愛感情なんて芽生えるはずがないと、そう否定されているようで。
この恋心までなかったことにされるのは、どうしても我慢できなかった。
恐る恐る希美を見る。彼女はかなり動揺しているようだった。
「や、やだなーもう。何を言い出すかと思えば。私だってコウのこと好きだよ」
「じゃあ、私とキスできる?」
言うのとほぼ同時に、希美を黒板に押しつけて唇を近付ける。しかし、触れる手前でそれは遮られた。希美が私の左頬を叩いたのだ。
「じょ、冗談はやめて……っ」
「冗談? そんなわけないじゃない。私は本気で希美のことを――」
「やめて!」
もうこれ以上聞きたくないとでも言うように、希美は耳を塞いでそう叫ぶ。そして、怯える瞳で私にトドメのナイフを突き刺した。
「もうやめてよ……気持ち悪い」
そう捨てゼリフを吐くと、希美は私から逃げるように走り去ってしまった。
「気持ち、悪い……?」
本当に、ナイフが心臓に刺さったんじゃないかと思った。
だって、その拒絶の言葉は、私がこの世で一番聞きたくないセリフだったから。
「あ……あ、あぁぁぁーー!」
刺さったナイフはあまりに痛くて、私は耐えられずしゃがみ込む。その間にも傷口はジュクジュクと広がり、私の心を蝕んでいく。
「やだ……やだぁ……っ」
傷口を癒すため涙は止めどなく溢れてくるのに、抜けないナイフの痛みはどんどん増していく。呼吸が上手くできず、息をするのもままならない。このまま闇に溺れてしまいそうだ。
もう元には戻れない。
幼なじみのまま、親友のまま、大好きな希美のそばにいることはもう叶わない。
希美のそばにいる。それこそが、私が生きる唯一の理由だったのに。
「痛い……苦しいよ……っ」
こうならないように、ずっと気持ちを隠して生きてきた。希美のそばにいられるよう、哲也への嫉妬も歯を食いしばって耐えてきたのに。
それなのに。そのすべてがもう、無駄になってしまった。
もう二度と元の三人には戻れない。私という存在を構築するすべての世界を、私は自らの手で破壊してしまったのだ。
これから私は、どうしたらいい? どうしたら、この苦しみから解放される?
「死にたい……」
そう呟いた直後だった。自分でも驚くくらい心が軽くなった。胸の痛みが消え、楽に呼吸ができてくる。しかし、それは束の間のとこで、すぐさま心を裂かれるような激痛が私を蝕む。
「死にたい、死にたい、死にたい……」
痛みから逃げるように何度も繰り返し呟く。まるで麻薬のよう。一度口に出してみたら、これがないと耐えられない。
そこで私はやっと気付いた。
ああ、そうか。私はずっと死にたかったんだって。
希美に恋心を抱いたあの日から、この恋は叶わないという絶望が常に私の背後に張り付いていた。拒絶されたらどうしようという恐怖がまとわりついて離れなかった。
重い、苦しい、悲しい。早く楽になりたい。このどうしようもない痛みから解放されたい。誰か私を助けて。
抗うことのできない自由への渇望。死によってのみ得られる救済と安息。
ねえ、早く楽になろうよ?
心の奥にいるもう一人の私がそう呟く。その通りだと頷いて、私は吸い寄せられるように屋上へと向かった。
屋上はとても静かだった。
青い空、虚な景色。そのどれもが夢で見たのとまったく同じで何故か落ち着く。そんな中を、私は一人亡霊のように歩いていた。
心がはやる。この先に、苦しみから解放される手立てがあるんだと思うと欲しくなる。
遺書代わりのスマホを置き、柵に手を伸ばす。しかし、足を掛けようとした所で背後から声をかけられた。
「それ以上行くと落ちますよ、先輩」
聞いたことのある声に、思わず振り返る。視線の先にいたのは、保健医の間宮先生だった。
先輩? 先生の方が歳上なのに? でも、そんな疑問はすぐにかき消された。
「お願いだから止めないで。私が楽になる方法は、もうこれしかないの」
「だったら一人は寂しいでしょうから、私も一緒に飛び降ります」
「ダメ。先生を巻き込みたくない」
首を横に振る。すると、間宮先生はクスリと笑った。
「やっぱり。先輩は私が思ってた通りの優しい人だった」
先生の足がこちらへと向かってくる。でもどうしてだろう、来ないでと拒絶できない。先生が近付いてくるのは不思議と嫌じゃない。
「なんで先輩が落ちる夢を見るのか、その答えを教えてあげましょうか?」
「そんなの、先生にわかりっこない」
「わかりますよ。だって、先輩は十年前、私の目の前で飛び降り自殺を図ったんですから」
「……な、に、それ」
急に世界が止まった気がした。
それは気のせいではなく、まるで先生の言葉が滅びの呪文かのように、空が、景色が、学校が、世界のすべてがまるでジグソーパズルのピースのように一枚一枚剥がれ落ちていく。
「十年前、希美さんに振られた先輩は、この屋上から飛び降りたんです。奇跡的に一命はとりとめました。でも、そのせいであなたはもう十年も眠り続けている」
「ウソ……」
そう呟きながらも、どこかで納得している自分がいた。先生の言う通りだと。
夜寝て、朝起きればリセットされる一日。あの日の会話、絶望的な感情。何度見てもやり直しのきかない告白。
ああ、そうか。繰り返し見る夢は、この世界すべてのことだったんだ。
世界のピースはどんどん剥がれ落ち、その向こうには何もない闇が広がっていく。雪のように降るそれは、不思議と私と先生には当たらなかった。
「あなたは、誰?」
私の呟きに、間宮先生の足が止まる。手を伸ばせば容易に触れることのできる距離。近付いて来た顔を見れば、やはりどこかで会ったことがあるような懐かしさを感じた。
間宮先生がフッと笑う。
「もういいじゃないですか。そろそろ起きましょう? 何千何万回とあの日を繰り返したって、やり直せるわけじゃないんです。先輩だってそのことはもうわかっているんでしょ?」
「綺麗事言わないで。今更目を覚ましたって何になるの。現実世界に戻ったって、そこに幼なじみだった希美はいない。私を拒絶し続ける彼女しかいないんだよ? そんな世界で生きていけっていうの。そんなの私には耐えられない!」
「じゃあ、なんでこの世界は崩壊し始めてるんですか? どうして私はここにいるんですか? 私をここへ呼んだのは、他の誰でもない、柴田先輩自身なんですよ」
「そんな、こと……」
「ないとは言わせません」
キッパリとそう言うと、間宮先生は私の手をそっと握った。
「先輩は、心の奥底でもう起きたがってる。この呪いの日から解放されたがってる。でも、怖くて勇気が出ない。ただそれだけのことなんです」
「……だって、怖いじゃない。もしこの夢の続きの未来がもっと悪いモノだったら? 結局は何も変わらない虚な世界だったら? そんな世界でたった一人生きろっていうの? そんなの私には耐えられない。そこまで強かったら、死のうなんて考えてない」
「先輩……」
「怖いよ、先生……私、たまらなく怖い」
思わず間宮先生の白衣にしがみつく。そんな恐怖に震える私を、先生は優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫です。私がいます。私が先輩のそばにずっといます。寂しい時にはそばにいて、悲しい時や辛い時には隣に寄り添います。一人で生きていくのが怖いのなら、私も一緒に先輩の人生を歩みますから」
「間宮先生……」
「先輩のことが好きです。だからお願い、もういい加減目を覚まして……っ」
間宮先生の手が伸びて、私の頬に触れる。そのまま顔を引き寄せると、先生は涙を流しながら私の唇にキスをした。
優しいキス。与えられる無償の安心。まるで不安を打ち消す最高峰の魔法。
不思議。この人がそばにいてくれるのなら、私は大丈夫かもしれない。
次の瞬間、パッと世界が弾けた。パズルのピースが一斉に桜の花びらへと生まれ変わり、それは吹雪となってヒラヒラと私達二人の周りを舞い踊り始める。
暖かい。花びらの一枚一枚が小さな光の結晶となって周りに集まってくる。まるで先生の優しさみたい。
心地良い眠気が身体を襲い、耐えられず私は先生の腕の中で目をつむる。
私はもう、なんとなく間宮先生の正体に気付いていた。




