百合姫様は部室にいる
扉を開けると、そこにはこの世のものとは思えない、まるで天使のような女性が、パイプ椅子に座って優雅に本を読んでいた。
ふと目が合う。その驚くほど綺麗な顔にとっさに何を言っていいかわからず、混乱した私はどうでもいいことを口走る。
「それって、もしかして『マリア様にくちづけを』ですか?」
オタクの兄が面白いから読めと無理矢理勧めてきた百合のライトノベル。彼女が手にしているのはまさにそれだった。
「あなた、百合を知っているの?」
「はあ。兄がオタクなのでそれで。でも、それは読んだことがありません」
驚いたような彼女の顔。今思えば、こんな余計なことを言わなければよかった。そしたら今後こんな面倒なことにはならなかったのに。
「そう」
ボソリと呟くと、彼女は無駄のない動きで椅子から立ち上がった。そしてこちらへと歩いてくる。何事かと思っている間に彼女は私の視界を独占した。
「じゃあ、あなたに頼みたい事があるの」
この時は心臓が蒸気機関車並に暴走していて、その頼み事の内容が頭に入ってこなかった。それなのに。私はただバカみたいに頷いてしまった。
それが私と先輩との最初の出会い。
放課後。窓の外を見れば、中庭で制服のまま女子生徒が数人で円になってバレーをしていた。たぶんバレー部ではなく帰宅部の連中がお遊びでやっているんだろう。さっきから白いボールが四方八方に大脱走している。そんな不安定に動くボールを、私はただぼんやりと眺めていた。
「あっ」
廊下の先。見知った女子生徒が歩いてくるのが見えた。向こうも私に気付いたらしく、一瞬動きが止まる。しかし、言葉を交わすこともなく、気まずそうに視線を逸らして私の横を通り過ぎていった。
それは幼なじみの翔子だった。ゆらゆら揺れるポニーテールが印象的で、中学まで一緒にバレーをしていた仲間。
気まずい原因は、昨日のケンカ。これが初めてではないが、今回は今までのとちょっと様子が違う。なので、どうしたら仲直りできるか少し途方にくれていた。
「ひっ」
そんな私が頭を抱えている時、ものすごい悪寒に襲われた。この嫌な感覚には覚えがある。まさかと思い振り返れば、廊下の壁の角からこちらをじーっと眺めている一人の女子生徒がいた。やはりお前か。
「姫川先輩、ストーキングはやめてください」
近付いてなるべく冷たく聞こえるように抗議する。しかし、その女子生徒は私のそんな態度を気にする様子もなく、邪魔だと言わんばかりに長い黒髪を左右に振った。
「観察と言ってほしいわね。それに、これは正式にあなたに依頼して了承を得たことよ。とやかく言われる筋合いはないわ」
確かに、初めて文芸部の部室に足を運んだあの日。姫川先輩に、これから書く小説のために私と友人とのやりとりを観察させてほしい、と言われ思わず頷いたのは私だ。しかし、それから一週間ずっとストーキングされている。さすがの私もずいぶんと辟易していた。
「確かにその時は了承しましたが。まさかこんなに気持ち悪いものとは思ってもみませんでした。解消してもらってもいいですか?」
「無理ね。あなた達二人のやりとりは非常に素晴らしい。私の百合的妄想をかき立てる。是非あなた達二人をモデルに百合小説を書きたいわ。だから無理」
「先輩、発言がキモいです。吐き気がするのでやめてもらってもいいですか?」
「それは大変」
すると、姫川先輩はスカートのポケットから一つの小さな長方形の箱を取り出した。そしてそれを私の掌の上に載せる。
「胃薬よ。これで吐き気は治まるでしょ」
速効で効く、と胃の形をしたマスコットが私を見て親指を立てていた。
「そういう意味で言ったんじゃねえ!」
勢いのまま胃薬を廊下に叩きつける。どうして嫌味を真っ直ぐ受け止めない。もしかしてこれは高度なボケなのか。私の偏差値が低いから理解できないだけなのか。世間一般的にはツッコめない私の方が間違っているのか。
そう思ったけれど、どうやら違うらしい。姫川先輩は不思議そうな顔をしつつ胃薬を拾っている。どうやら本気だったようだ。マジか、こいつ。
姫川百合。二年生の先輩。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、等々。まるで絵に描いたようなお嬢様。巷では“百合姫様”なんて呼ばれてもてはやされている。しかしその実態は、うちの兄貴と同じオタクでしかも百合が好きな変人。
「それで? 今日は二人とも様子がおかしいようだけど、何かあったの」
「なんで先輩にそんなこと言わないといけないんですか」
「私には聞く権利がある。今後の作品の参考にしたいので是非聞かせてちょうだい」
「なんで先輩は、あなたの力になりたいから、とか言えないんですかね。そういう所が残念なんですけど」
「心にもないことは言えない正直者なの。仕方ないでしょ」
こいつ。それが問題だっつってんの。
正直言いたくない。けれど、もしここで言わなかったら今後ストーキングが激しくなる気がする。ただでさえ、今「さあ、さあ」と私に迫ってきているのだから。顔が綺麗じゃなかったらぶっ飛ばしてやるのに。
「わかりました。言いますから離れてください」
迫り来る顔を両手で押しのけて、私は一つ息を吐いた。
「昨日、翔子とケンカしたんです」
「ケンカ? どうして」
「前に、中学三年の時自転車で事故ったって言ったじゃないですか。それでバレーができなくなったって」
「ええ、ノートにメモしてあるわ」
「記録に残すのはやめてください。で、実はその事故、翔子が提案した二人乗りをしてる最中に起きたんです。それで彼女は私がバレーできなくなったのは自分のせいだと感じて、大好きなバレーを封印しているんです」
「素晴らしい心の闇じゃない。友人を思いやって好きなものを我慢する。胸を締め付けられる良いエピソードだわ」
「それ以上変なことしゃべったらボディに一発入れますよ。それで、私は昨日翔子に、気を遣わなくていいからバレーして、って言ったんですけど。そしたら彼女怒っちゃって。そこから口聞いてくれないんです」
「なるほど。つまり、今あなたは翔子と仲直りしたいけれど、彼女を怒らせた原因がわからなくて困っていると」
「勝手に呼び捨てはやめてください。でもまあ、そんなとこです」
今でも思い出す。右肩を包帯でグルグル巻きにされた私に向かって、翔子が泣きながら謝る場面を。もう彼女の苦しむ姿は見たくない。だから早く解放してあげたいのに。
「それはあなたが悪いわ」
悩む私に向かって、姫川先輩の淡々とした声が心に突き刺さった。
私が悪い? 友達を助けてあげたいと思うことが? どうして? そんな思いが声に出た。
「それはどういうことですか?」
「あなたが翔子のことを大切に思っているのはよくわかる。でも、あなたはそんな彼女の気持ちがまったく見えていない」
「そんなことっ」
「あるわ。今の話、翔子のことばかりであなたの気持ちがまったく吐露されていない。バレーができなくなってあなたはどう思った?」
「どうって……」
あれ、どうしてすぐに言葉が出てこないんだろう。
「彼女があなたに気を遣っているのは、あなた自身がバレーをできなくなったことを気にしているから。それが解決しない限り彼女も解放されない」
「そんなことないです。私はもう気にしてません!」
「本当にそうかしら? 気にしているからこそ無意識に態度に出ていて、翔子は敏感にそれを感じ取っているんじゃないの。だからこそ、あなたの声は届かない」
「っ……」
返す言葉が見つからなかった。それはつまり、心のどこかで図星を突かれたと思っているからかもしれない。
「きちんと自分と向き合いなさい。そして、そこで出た答えごともう一度翔子にぶつかりなさい。本音を語らなければ、向こうも心を開かないわ」
真珠のような瞳が真っ直ぐ私を捉える。そこにはストーキングしていた時の姫川先輩は見当たらなかった。
「先輩って真面目な時もあるんですね」
「あら、私はいつも真面目よ」
心外だ、と言いたげな先輩の顔。それを見て、私は思わず苦笑した。
悔しいけれど、今回ばかりは先輩の意見の方が正しい気がする。確かに、バレーができなくなってから私はそのことをどこかで考えないようにしてきた。いや、逃げていたんだ。もう大丈夫だと。そこに翔子は気付いていた。バカだ、私。そりゃ彼女も怒るよ。
「まだ間に合うでしょうか?」
「無論よ。ただし、あなたがきちんと自分の正直な気持ちを翔子に伝えられたらの話だけどね」
「でも、今まともに声すらかけづらい状況なんですけど」
「大丈夫。私に任せなさい」
私に任せろって、なんでそんな自信満々なんだ。ちょっと怖いんですけど。
「私があなたに翔子と話すきっかけを作ってあげる。その代わり、結果を後で報告しなさい。あなた達なら絶対百合的解決を見せてくれるはずだから」
「なんかすっごい不愉快なんですけど。しかも百合的解決ってなんですか? あ、言わなくていいです。脳が汚染されそうですから」
「ケンカをした二人が仲直りをすることで絆を深める。そして気付くのよ。お互いの心に芽生えた恋心に」
「ちょっと待った。展開早い上に翔子に恋心とかありえませんから」
「それはわからないでしょう。ケンカで離れ離れの時間を過ごすうちに、相手がどれだけ自分にとって必要だったか、そのことに気づき、それが恋心に発展。そして二人は百合になる」
「今すぐそのキモい妄想をやめろ! この百合オタがっ」
今すぐこいつの思考回路を止めないと、私と翔子が穢される。そのポーカーフェイス、ボコボコにしてやる。
そう思い、私が拳を強く握りしめたその時。廊下の向こうで一人の女子生徒が姫川先輩を呼んでいるのが見えた。
「いけない、あの子に貸したノートを返してもらう予定だったわ。あなたはここで待ってて。すぐ戻ってくるから」
「はあ? 私はもう帰りたいんですけど……って聞いてないし」
姫川先輩は私の言葉をまったく聞く耳持たずに、手を振っている女子生徒の元へと歩いていく。そんな先輩の後ろ姿を見送りながら、私は一つため息をついた。
「気にしてる、か」
確かに先輩の言った通り、私には一つ思い当たることがある。
窓の外ではまだ帰宅部の連中がバレーをしていた。その一人が両手を額まで挙げてオーバーの構えをする。しかし、タイミングが悪いのか、ボールは彼女の額に当たって後ろへと弾けていった。
「あー、もうっ。しっかりしろ、私」
怖がってる場合じゃない。今の私の本当の気持ちを、今すぐ翔子に伝えなきゃ。そして早く仲直りしたい。だって彼女は、私にとってとても大切な友達だから。姫川先輩なんか待っていられるか。
そう思い、後ろを振り返った直後だった。
「広瀬さん」
急に呼び止められ、私は思わず空気を飲み込んだ。だって、そこには知らない女子生徒三人が私を仁王立ちで睨んでいたから。
「あの……私に何かご用でしょうか?」
私がそう言っている間にも、周りに続々と女子生徒が立ち塞がっていく。どう考えても愉快な用件ではないようだ。
「私達がどうしてあなたを呼び止めたか。その理由くらいわかるわよね?」
「いやー……」
わかりたくないなぁ。そう思ってる時点で私には心当たりが一つあるんだけれど。
「あなた、百合姫様に馴れ馴れしいのよ。何様のつもり?」
やっぱり。姫川先輩絡みか。人気のある人の周りをウロチョロしてたから、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。だから先輩にストーキングをやめてほしかったというのもあったんだけど。最悪のタイミングでそれが来てしまった。何も今じゃなくてもいいのに。
「しかも、百合姫様がオタクだなんてデマまで吹聴してるらしいじゃない。あの方を貶めて何が楽しいの? この害虫」
「害虫って……。ってか、それは本当のことですよ」
「ウソよ。現に百合姫様は否定されてたわ」
「はあ?」
なにあの人。まさかオタクが世界共通語になりつつある現代で、自分がオタクだってこと隠してんの? べつに恥ずかしいことでもないでしょうに。そんなに自分のイメージが大事か、この優等生お嬢様。
「百合姫様だって迷惑してるわ。これ以上百合姫様に近付かないで。目障りなのよ、あなた」
「うわっ」
二人に突き飛ばされ、私は派手に尻もちをつく。すると、周囲にいた全員が一斉に私をキツイ目で見下ろした。
ちょっと待って。一人に複数は卑怯じゃないですか。ってか、何する気ですか。まさか暴力とかじゃないですよね。もうマジ最悪!
「あなた達、そこで何してるの?」
私に伸びてくる手を止めたのは、一人の女性の声だった。この声には聞き覚えがある。
「百合姫様っ」
やっぱり。生徒の足の隙間から見えたのは、無表情なままの姫川先輩だった。周囲にいた女子生徒達がにわかにざわつき始める。
「これは違うんです! ただ、この女が百合姫様のことをオタクだと悪口を言っていたので注意していただけなんです」
「私がオタク?」
その単語が引っかかったのか、姫川先輩はわずかに眉根を寄せる。なんだその、心外だ、と言いたげな表情は。真実でしょうに。
もしかして助けに来てくれたのかな。なんて私の甘い期待はすぐさま打ち砕かれた。
「それは彼女のウソね。私はオタクではないわ」
「は……はあっ?」
ウソ。今この人なんて言った?
「どうしてそんなウソをつくのか私にはわからないけれど。人をウソで貶めるなんて最低な女ね、あなた」
低い声でそう言うと、冷たい眼差しを私に向ける。それが今まで接してきた姫川先輩とはまるで別人で、私の心は激しく動揺した。
「な、に、言ってるんですか……先輩オタクでしょ? 百合好きで自分の小説のネタのために、毎日私達をストーキングしてたじゃないですか!」
「またそんなデタラメを。私があなたをストーキングする? どれだけあなたはナルシストなの。私があなたみたいな凡人を相手にするわけないじゃない」
「なんでそんなこと言うんですか。そんなに自分のイメージが大切ですか! いいじゃないですか、百合好きなオタクだって。先輩自体が何か変わるわけじゃないんですよ。本当の自分をコソコソ隠して生きていくなんて、先輩にはまったく似合いません。だから、もっと自信持ってくださいよ!」
ちょっと泣きそうになっている自分に驚いた。
姫川先輩にひどいことを言われて傷付いた。それもある。けれど、もっと大元の理由はそれではない。だって、今の私の一番の感情は、悔しい、だから。
「先輩がそんな小さい人間だとは思いませんでした」
「あなたが何を言っているのかはわからないけれど、これ以上私の悪口を言わないで。この最低女」
そこで私の中の何かが切れた。ここまで言ってもわかんないなんて。最低なのはあんたでしょうが!
私はひどいことを言われたくらいで泣くようなそんなか弱い女ではない。その涼しげな顔一発ぶん殴ってやる。そう思って立ち上がった時だった。
「へ?」
私の横を何かが勢いよく駆け抜けていった。風ではない。周囲の取り巻きでもない。ただ一人の女子生徒が、真っ直ぐ姫川先輩めがけて走って行く。そのゆらゆら揺れるポニーテールの後ろ姿には見覚えがあった。
「最低なのはあんただ!」
それは翔子だった。彼女は右手を振り上げると、姫川先輩の左頬を思い切り引っぱたく。バチン、と気持ちが良いくらいの大きな音が廊下に響き渡った。
呆気にとられる私。そしてざわつく周囲の女子生徒達。そんなのおかまいなしに、翔子は姫川先輩に怒りをぶつけていく。
「真希は誰かを貶めるためにウソをつくような人間じゃない。誰かを守るためにウソをつくような優しい子なの。それなのに、何も知らないくせに適当なこと言わないで!」
毅然とした翔子の後ろ姿。まるでバレーのキャプテンをしていた時の頼もしいそれと被る。姫川先輩は赤くなった頬もそのままに真顔のまま突っ立っていた。
「翔子……」
ああ、やっぱり私はこの子と仲直りしたい。真っ直ぐに私のことを信じてくれて、こんな風に後先考えず私を庇ってくれて。こんな素敵な友達、そうそう出会えるわけない。
「人を見下すようなこと言ってくる、あんたの方がサイッテー」
そう吐き捨てると、翔子は私の腕を引っ張って歩き出した。
「行こう、真希」
「え、あ、うん」
私も何か言い返してやりたい。そう思い姫川先輩に視線を向ける。すると、目が合った瞬間先輩は小さく顎を動かした。それはほんの一瞬の出来事で、すぐさま先輩は取り巻き連中に埋もれて見えなくなる。私にはそのジェスチャーが、行け、と言っているように感じた。
翌日の放課後。文芸部の部室に行くと、そこには姫川先輩がいた。パイプ椅子に座って静かに本を読んでいる。タイトルは例の『マリア様にくちづけを』。
「あら、あなただったの。そこに立ってなくて座ったらどう?」
「いえ、大丈夫です」
そう言って、私は先輩の近くまで移動する。
「昨日、無事翔子と仲直りできました。先輩の言ってた通り、翔子は私の無意識に気付いてたみたいで。私の本音をきちんと話したら理解してくれました」
「そう、それは良かったわね。それで? あなたの中の答えはいったい何だったの」
「……それも答えないとダメなんですか?」
「もちろんよ。今回のネタはなかなか面白いから。色々小説に活かせそう」
この人は。本当に小説のことしか考えてないのか。そんな先輩にため息をつきつつ、私は仕方なく口を開いた。
「私、今は本当にバレーができなくなったことに対してはなんとも思ってないんです」
「本当に?」
「そりゃ、最初の頃はなんで私だけこんな目に、って思ってましたよ。人に隠れていっぱい泣いたし……心の中で翔子を責めたこともありました。あんたのせいだって。でも、時間が経つにつれて、怪我したのが私で良かったって思えるようになったんです。翔子が怪我しなくて良かったって」
「じゃあ、何が引っかかっていたの?」
「それは……中学最後の試合の日、翔子にトスを上げてあげられなかった。それが心残りだったんです」
あの頃、私が上げたトスで翔子がアタックを打つのが嬉しかった。だからこそ、もうそれができないのだと思ったら辛かった。無理なら無理で最後だけもう一度上げてあげたかった。
「だから、昨日ボールを借りて、二人で中庭でパスしたんです。軽くなら私の肩も問題ないですから。そしたらなんだかスッキリしてしまって。本当に解放された気分でした」
「なるほど。きっと翔子もそれを感じ取ったでしょうね」
「たぶん。その証拠に、彼女またバレーするって言ってくれました。今日入部届もらってくるって」
「そう。それは良かったわね」
その声が少し穏やかに聞こえたのは、私の気のせいかもしれない。
「先輩、昨日のあれってもしかしてわざとですか?」
「何が?」
「私に最低女と言ったあれです」
「ああ、あれね。もちろんそうよ」
姫川先輩は悪びれる様子もなくさらりとそう答えた。
「あの場合、私が悪役になることであなた達二人の絆が深まると直感したの。そしてそれは見事成功し、あなた達は仲直りした。素晴らしいわ。すごく萌えるじゃない」
「先輩、ちょっと泣いてもいいですか。こんな変人に感謝の言葉を述べようとしていた自分に哀れみを込めて」
「こちらこそお礼を言うわ。ありがとう、良い百合でした」
「薬の宣伝文句みたいなこと言わないでください!」
この人は。人の仲直りのシーンでさえも百合に繋げてしまうのか。いや、もしかしたらわざと物事がそうなるよう仕向けていたのかもしれない。ひょっとして私と翔子を仲直りさせるために一芝居うったのかな、なんて思っていた自分が哀れで恥ずかしい。なんて奴だ、姫川百合という人間は。
それでも、悔しいけれどそれで私達が仲直りしたのは事実。
「その……ありがとうございました。おかげで仲直りできました」
私はひどい人間ではない。お礼くらいちゃんと言える。さて、どんな反応をするかと内心ドキドキしながら姫川先輩を見る。すると、その目は驚きに見開かれていた。
「先輩?」
「ああ、ごめんなさい。まさかお礼を言われるとは思ってもみなかったから。あなたが素直だと怖いわね」
「先輩の中の私のイメージがわかって不愉快です」
人がせっかく素直に謝ったというのになんて失礼な。これじゃお礼の言い損じゃないか。
ちぇー、とふて腐れる私に、姫川先輩はふうっと一つ息を吐く。
「昨日あなたにああ言われて、昔のことを思い出したの」
「昔のこと?」
「ええ。昔好きだった相手に私の趣味がバレて、気持ち悪いと言われた時のことを」
突然私のキャパを超える発言が飛び出し、一瞬呼吸ができなくなった。そんな私を気にする様子もなく先輩は淡々と続ける。
「それ以降その相手には嫌われてしまったから言葉も交わさなかったけれど。確かにあなたの言う通り、私は自分の趣味が周囲にバレて嫌われるのを恐れているのかもしれない」
先輩はいつも通り話しているつもりなのかもしれないけれど、その声には覇気がない。それだけでこの話がどれだけ一大事かということがよくわかる。
今の話を踏まえて、改めて姫川先輩に投げかけてきた言葉の数々を思い出す。すると、自分でもわかるくらい私の顔は青ざめた。
「あ、あのっ、えと……すみませんでした!」
「なぜあなたが謝るの?」
「だって、私今まで先輩に対して気持ち悪いとか、吐き気がするとか、すっごいひどいことばかり言ってましたから。まさか先輩にそんな過去があったなんて知らなくて。知らなかったとはいえ、無神経でした。本当ごめんなさい!」
今まで先輩はいったいどんな気持ちで私の言葉を聞いていたのだろう。翔子のことといい先輩のことといい、私は本当に大バカ者だ。
「あははははははっ」
猛烈に反省している私に向かって、大きな笑い声が襲いかかってきた。
それは姫川先輩のものだった。先輩は可笑しそうにお腹を抱えて笑っている。なに、何が起きたの。先輩の笑い声なんて初めて聞いたからちょっと怖いんですけど。
「先輩、あの……」
「ああ、ごめんなさい。あなたに言われるまでまるで気にしていなかったから。そんな自分が可笑しくて」
そしてまた、くくくっ、と笑う。
「不思議ね。あなたに言われるのは不快ではないわ」
「そんなことってあります?」
「きっと、あなたが本気で私を嫌ってはいないからでしょう。昨日のあなたの言葉がいい証拠よ。だから不快には思わなかった。ただのツッコミ程度にしか感じていなかったのね」
「ただの……」
ツッコミ程度にしか思っていなかったのか、あれを。というか、昨日のあれはなかったことにしてほしい。恥ずかしすぎて爆発してしまいそうだ。
「あなたの気持ちは嬉しいけれど、私はこれからもこのままでいるつもりよ」
「その言い方やめてもらえません? まるで私が告白して振られたみたいに聞こえるんですけど」
「違うの?」
「違うわ!」
その勘違いは心底困る。そう思い反射的にツッコミを入れると、姫川先輩はまたニヤリと笑った。
「冗談よ。でも、同じ文芸部のメンバーとして一緒にいたいとは思う」
「え?」
「私は、これからも自分の趣味を周囲に隠しながら生活する。でもそれはネガティブなことではなくて、私自身が理解してくれる人にだけわかってもらえればいいと思っているから。そんな中で、あなたと話しているのは今までで一番楽しい。だから、あなたにはこれからも私の側で百合の話を聞いていてほしい」
「先輩……」
それは嫌です、心から。
惜しいなあ。最後の一文さえなければ、女性の私でもきっと胸キュン間違いなしなのに。この人はどんだけ残念なんだ。
「それは……」
お断りします、と動きかけた口を私は一旦止めた。そして。
「まあ、いいですよ。今回のことは感謝してますし。それに小説書くのもちょっと面白そうですから」
バレーができなくなってから特にやりたいこともなかったので、これは良い機会だと思う。それに、もうちょっと色んな姫川先輩を知ってみたい。だからもう少し先輩の側にいてあげてもいいかな、なんて今回の一件で思ってしまった。
「そう、それは良かったわ」
そう微笑むと、姫川先輩は小説を机に置いて立ち上がった。そして再びいつもの無表情へと戻る。
「では、まず昨日の事の顛末を話してもらいましょうか。あなた達二人が走って逃げたところから」
「は? どうしてですか?」
「あなた達二人をモデルに小説を書くと言ったでしょう。それに、私自身すごく気になっているの。それは絶対萌える内容のはずよ。だから、さあ話してちょうだい」
「嫌です、話しません、つーか絶対話すかぁ!」
迫り来る姫川先輩から逃げるように私は走り出した。私と翔子二人だけの思い出をこんなキモい百合オタなんかに穢されてたまるか。
しかし、私の逃走は呆気なく失敗した。部室を出てすぐに先輩に右腕を掴まれ、そしてそのままズルズルと部室へと戻されていく。
「先輩! 私と翔子の思い出を穢さないでください!」
「穢すとは失礼ね。きちんと綺麗な百合作品に仕上げてあげるから安心なさい」
「安心できるか! やっぱ前言撤回。私文芸部には入りませんっ」
「それは無理ね。うちの部長は狙った獲物は逃がさないから。あなたはもう詰んでいる」
「何それ怖いっ」
「さあ、新人賞まで時間がないの。あまりワガママを言わないで」
「いやぁ、誰か助けてー!」
そんな私の断末魔は、部室の扉が閉まったことでこの世界から遮断されてしまった。
たぶん、私はこれからこの扉を開ける度に姫川先輩に出会うだろう。そして、百合好きな彼女の話をげっそりしながら聞くことになるんだ。
そう、百合姫様はいつでもこの部室にいる。




