夏の風
夏は嫌いだ。熱いし、焼けるし、虫の動きが活発になるから。
あと、猫も嫌い。子どもの頃、野良猫に引っ掻かれて以来見るのも嫌。
そんな私が、事故に遭い、瀕死の状態の猫を見捨てることができず、半泣きになりながら動物病院へ連れて行ったのが一ヶ月前。
たぶん、首輪が付いていたから飼い猫。そう見当をつけ、可哀想だからと母親が強引に回復するまで家で看病していたある日、その猫がふと姿を消したのが一週間前。
ああ、元の飼い主の所へ帰ったんだなと安堵していたら、今目の前にその猫がいた。
「なんで……」
黒い毛に、ビー玉のような透き通る丸い目。赤い首輪に付いている小さな鈴が、猫の動きに合わせてチリンチリンと可愛らしい音を鳴らしている。間違いない、ヤツはあの時の猫だ。
「ニャンコ、こんな所で何してんの?」
ニャンコとは、私が勝手につけたあだ名だ。こんな所、と言ったのは、ここから我が家までは汽車でも三十分以上はかかるから。その距離を、この猫はどうやって移動してきたんだろう。
ふと周囲を見渡す。私が降り立った駅の周辺は、コンビニはおろかお店すら探すのに骨が折れそうなほど閑散としている。まさにどが付くほどの田舎だった。
「みゃあ」
ニャンコは、私の質問に答えるかのように座ったまま一鳴きする。しかし、逃げる気配はない。
「まさか、恩返しにきたの?」
冗談混じりに言うと、ニャンコはまた「みゃあ」と鳴いた。
バカバカしい。助けた動物からの恩返しなんて、おとぎ話の中だけのご褒美だ。現実世界はもっと厳しい。この猫もたまたまここへ来たんだろう。
私はため息をつくと、ニャンコと一定の距離を保ってしゃがみ込んだ。
「じゃあさ、私と友達になってよ」
これには、ニャンコは返事をしなかった。その代わりに、自分の前足をペロペロ舐め始める。完全無視か。
「ひどいヤツ」
お前も私を見捨てるのか。やれやれと立ち上がろうとしたその時、リュックに付けていた御守りがぽとりと落ちた。
交通安全と書かれた赤い御守り。ニャンコの一件で何故か触発された母が、私に無理矢理持たせたモノだ。ただ、効力が無さそうに感じるのは、妹が悪戯で御守りの裏にイチゴのシールを貼ってしまったから。これじゃあ神様だって拗ねてしまう。
「あっ」
私が落ちた御守りを拾おうとしたら、それより早くニャンコがそれを口にくわえた。そして、そのまま走り去っていく。
「ちょっと待って!」
私も急いで後を追いかけるが、ニャンコの方が断然足が速い。あっという間に差がついて、猫は数メートル先の角を曲がった所で姿が見えなくなった。
「このっ」
べつに御守りなんていらないけど。なくしたら母からどんな小言を言われるかわかったもんじゃない。
そう思い、勢いを緩めることなく左に曲がった、その時だった。
「うわっ」
「いたっ」
曲がった直後に出会ったのは、人。その人に私は激しくぶつかって、暑いコンクリートに尻もちをついた。
「いったぁ」
「ごめん、大丈夫?」
どうやら相手はよろけただけで済んだらしい。心配そうな声で私に手を差し出す。そこでやっと顔を見ることができた。
それは女性だった。陽に透ける少し茶色がかった長い髪に、健康的にうっすら日焼けした肌。デニムのショートパンツに、黄色のTシャツの袖を肩までまくっている。
「だ、大丈夫です」
「そっか、なら良かった」
そう言って、その人はニカッと笑った。その顔は初見でも人懐っこさがうかがえる。
「ありがとうございます」
私はおずおずとその手を握って立ち上がった。
恥ずかしい。こんな子どもがやるような迷惑のかけかたをしてしまうなんて。そう思い俯く私の顔を、彼女はひょいと覗き込んだ。
「どうしたの? なんか急いでるみたいだったけど」
「いや、猫に御守りを持っていかれてしまって。それで追いかけてたんです」
「ありゃりゃ。そりゃ大変だ」
伸びをする要領で額に手を当てると、彼女は「よし」と一つ気合いを入れた。
「じゃあ、私も一緒に探してあげるよ」
「え、いいですよ。そこまでご迷惑をおかけするわけには……」
「いいって、いいって。どうせ暇だったし。散歩がてら一緒に探そう」
そこまで一気に言うと、その人は私の返事も聞かずに「レッツゴー」と拳を挙げて歩き始めてしまった。
強引な人だ。というか、知らない相手と一緒に散歩できるなんて。この人、私と正反対の友達百人できるタイプか。
駅から真っ直ぐ走った通りは、昔は商店街だったのか、車二台がすれ違えるかどうかという道に沿って、左右に家や古い商店なんかが建ち並んでいる。しかし、一歩横に入れば、歩く度に建物の数が減っていった。そのせいか、日陰が少なく直射日光直撃でマジ暑い。
「ねえ、あなたこの辺の人?」
「いえ、東京から隣の市に七月に引っ越してきたばかりです」
「マジで? 東京からこんなど田舎の県に? しかも高校生だよね?」
「高校二年生です」
「うっわ。それで引っ越してすぐ夏休みとかキツくない?」
「そうですね、正直キツいです」
周りはもうグループができていて、尚且つクラスに馴染む前に夏休み突入とか、どんだけ私を孤立させたいんだ、と神様に激しいツッコミを入れたい。
恨めしい気持ちが顔に出ていたのか、彼女はちょっと声のトーンを上げた。
「ね、その敬語やめない? 私達同い年だし」
「えっ?」
「何その反応。私が老けてるって言いたいの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
老けているというより、大人びて見えるという表現の方が正しい。てっきり大学生くらいかと思っていた。彼女は「冗談、冗談」と言ってカラカラ笑った。
「敬語使われるとさ、なんか首の辺りがむず痒くなるんだよね。そんな敬語使われるような人間でもないし。だからお願い、敬語やめて!」
顔の前で全力で両手を合わせる。その迫力に、つい私は負けてしまった。
「う、うん。わかった」
またしても私の負け。もしかして、私が押しに弱いってもうわかったんだろうか。
細い道を左に曲がる。すると、家と家の間から微かに潮の匂いがした。
「この先に海があるんだよ」
「へえ」
彼女はおしゃべりな人だった。歩いている間も、家族のことや今ハマっている飲み物の話など、よくそんなに質問事項が思い浮かぶなと思うくらい口が止まらない。
それでも、不思議と嫌な気分にはならなかった。いつも慣れない人と歩くのは余計な気を遣って疲れるんだけれど。彼女は自分の話だけじゃなく、私のことも聞き出すのが上手いから。そのおかげか、人見知りの私もすっかり彼女のペースにはまってしまった。こんな楽しい散歩は初めてだった。
「へえ、東京って汽車のこと電車って言うんだ」
「うん。朝は満員電車でぎゅうぎゅうだから、そこだけはこっち来て良かったと思う」
「寂しくはない?」
「なんで?」
「だって、東京に友達いるんでしょ? 毎晩連絡とか取り合ってんの?」
「……ううん、私友達いないから」
急に水を差されて、私の心は下を向いてしまった。
こういう時、自分は周りからどういう存在だったのかということがよくわかる。嫌われてはいなかったし、それなりに話もしていた。けれど、そういうクラスメイト達にとって、私はいてもいなくてもどっちでもいい人間だったらしい。その証拠に、ここへ来てから私のスマホは家族からの連絡以外、常にスリープ状態だった。
「ふむ……」
そんな私の顔に翳りが見えたからだろうか。彼女は急に私の手を取って走り出した。
「な、なにっ?」
「いいから、いいから。ついて来て」
彼女はそう言って、私の手をグイグイ引っ張っていく。運動はあまり得意ではなく、徐々に彼女のペースがキツくなり息が上がってきた。
「ちょっと、休憩……」
「あともうちょっとだから頑張って!」
何があともうちょっとなんだ。そう聞く前に、突然私達の視界は開けた。そして車の通っていない一車線の道路を横切り、低い堤防を降りる。すると、目の前に現れたのは、空と同じく抜けるような真っ青な海だった。
「綺麗……」
「でしょー。これ、うちらの自慢」
そう言って、彼女はニシシっと白い歯を見せて笑った。
本当に綺麗だった。都会で流行っている海水浴場は、人が多いせいかどこか茶色く濁っている。でも、ここは違う。打ち寄せる波は白く、水は底の白い砂が見えるほど透き通っている。まるで南国にワープしたみたいだった。
「この辺はこういった自然しか自慢する所がないからさ。でも、私は好きなんだよね」
「私もこっちの方が好き」
「本当? それ結構嬉しいかも」
照れたように笑う彼女の顔が、太陽に照らされて眩しく見えた。
不思議な人だ。ちょっと落ち込んでいた気持ちがどこかに吹き飛んだみたいに、今は何も感じない。ただ、時折私の頬を撫でる柔らかな潮風がとても気持ち良かった。
「うーんっ」
彼女は太陽に届くように背伸びをする。その時、ショートパンツのポケットに赤い何かが収まっているのが見えた。よく見ると、それは御守りのような形をしている。そして、それにとある印を見つけて、思わず声が出そうになった。
「イチゴのシール……っ」
妹が悪戯で貼ったイチゴのシール。つまり、その御守りは私が猫に奪われたモノ。それをなんで彼女が持ってんの。
「ねえ、それって……」
「それ? ……ああ、バレちゃったか」
彼女は御守りを見た後、舌を出して悪戯っぽく笑う。その顔は確信犯だ。
「どうしてあなたがそれを持ってるの?」
そんなにご利益がある有名なモノでもなく、ましてや高価なモノでもない。御守りを探す人間に出会う確率など、この周辺ではほとんどゼロに近い。ならば、もっと早い段階でその御守りは私のモノだと気付いたはずだ。それなのに、何故彼女はそのことを黙って私と散歩なんかしたんだろう。
「どうして私がこれを持ってると思う?」
「どうしてって……」
「実は私、あなたが助けてくれた猫なんだ」
猫? 彼女が? この人は何を言っているんだろう。
「冗談でしょ?」
「冗談じゃないよ。恩返しに来たんだ」
その証拠に、彼女の顔は今までのとは打って変わって真剣だった。一瞬潮風が止み、海水浴客達の声が遠ざかる。
猫が人に化けて恩返し。そんなおとぎ話みたいなことが起こるなんて。
「ウソでしょ……」
そんなこと、そんなこと……あり得ない。
「ちょ、どうしたのっ?」
「え?」
彼女の慌てた声にふと我に返る。そこでやっと、私の頬を一筋の雫が流れていることに気付いた。汗ではない。ちゃんと目からこぼれ落ちたモノ。
「なんで泣くの?」
「だ、だって……こんな幻影見るなんて。いくら友達いなくて寂しいからって、さすがにこれはないよぉ」
私は顔を両手で覆ってしゃがみ込んだ。あまりにも自分が惨めすぎる。こんな夏の幻を見るくらいなら、友達になって、なんてニャンコに言うんじゃなかった。暇だからと遠出なんかするんじゃなかった。
夏の太陽が、ジリジリと私の首筋を焼いていく。どうせなら、このまま溶けて潮風に乗ってどこか遠くへ行ってしまいたい。
「えーと、あのね実は……」
声の位置で、彼女もしゃがみ込んだのがわかった。そして、何か言いかけたところで、突然私の足に毛玉のようなふわふわしたモノが触れた。思わず顔を上げる。そこにいたのは、黒い毛並みの例のニャンコだった。
「うわぁ!」
超至近距離での猫との接触。ビックリして思わず彼女に抱きついてしまった。ニャンコはというと、驚いた様子もなく、まん丸の目を私に向けて「みゃあ」と鳴く。
「なんでニャンコがここに? だって、ニャンコは……」
ゆっくりと視線を彼女に向ける。そして目が合った瞬間、彼女に豪快に笑われた。
「あははははははっ」
「な、なにっ?」
「いや、まさか本当に信じるなんて……ははっ」
「本当にって……あ! もしかしてっ」
「そう、今のはウソ。ごめんね」
そう言って、彼女はペロリと舌を出した。
「信じらんない!」
今日出会ったばかりの人間に、こんなウソをつくなんて。本当に信じた私がバカみたいじゃないか。ひどすぎる。
私が恨めしそうに彼女を睨んでいると、二人の間にニャンコがぬっと割って入ってきた。
「お、コマメ。私を助けてくれるの? 偉いぞー」
彼女は目の前のニャンコをひょいと抱き上げる。そして、そのまま鼻頭にキスをした。
「コマメって……」
「ああ、この子の名前。この子、うちの猫なんだ」
「え……えぇっ?」
衝撃二発目。まさかニャンコが彼女の飼い猫だったなんて。
「なんか御守りくわえてたからさ、それ取ったらあなたとぶつかって、ビックリしたのかこの子どっか行っちゃったから探してたんだ」
「だから、私の御守り持ってたんだ」
「そゆこと」
コマメはご主人様の腕の中、顎下を撫でられてゴロゴロと喉を鳴らしている。
「あなたが事故に遭ったコマメを助けてくれたんでしょ?」
「どうしてそのことを?」
「首輪にね、小さなカプセルが付いてて。開けてみたら手紙が入ってたんだ。この子、事故に遭いましたって」
そういえば、母が飼い主さんが心配しないようにと、経緯を小さなメモ用紙に書いていた気がする。
「ちょっと足に傷が残っちゃったけど、無事で本当に良かった。この子はもう家族同然だからね」
コマメを撫でる彼女の顔がとても優しいモノになる。コマメ自身はまだゴロゴロ甘え中。そんな光景を見ていると、なんだか私まで嬉しくなった。
「良かったね、コマメが無事で」
「本当だよぉ。本当に、本当に助けてくれてありがとね」
「いや、私は別に何も」
「だって、あなた猫嫌いでしょ?」
「なんでわかったの?」
「さっきの反応でだいたいわかるよ。それなのに、この子を助けてくれてありがとう」
彼女はコマメごとお辞儀をしてみせる。コマメはちょっと迷惑そうだった。
「もういいよ。コマメも迷惑そうだし」
「いや、よくない」
私が立ち上がると、彼女もコマメを抱えたまま立ち上がった。
「お礼と言っちゃなんだけどさ。私と友達になってよ」
「は?」
「いや、お礼じゃないな。そんなの抜きにして、私あなたのこと気に入っちゃった。だから友達になってください!」
そう言って、彼女はコマメの右前足ごと私の前に差し出した。同時にコマメも「みゃあ」と鳴く。
それはなんだか不思議な光景だった。思わず私は「ぷっ」と吹き出す。
飾り気のない、彼女らしい言葉。どんな素敵な言葉で彩られたお願いでも、彼女のこの想いのこもったストレートさには敵わないと思う。
私は、差し出された手をギュッと握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女とコマメの肉球から温かさが伝わってくる。べつに付き合う云々の話じゃないのに、なんだかちょっと照れくさかった。だって、こんな面と向かって誰かに友達になりたいだなんて言われたことはなかったから。
「よっしゃあ!」
とびきりの笑顔をして、彼女はコマメを持ち上げてクルクル回る。コマメは「みゃあ!」と抗議の声を上げて、身をよじって砂地に着地した。しかし、逃げることはせず、ただちょこんと横に座る。そんなコマメの頭を彼女はよしよしと撫でた。
「お前はすごいな。本当に私の願いを叶えてくれた」
「願い?」
「そう。コマメを助けてくれた人に会わせて、ってお願いしたの。そしたら今日会わせてくれた」
「ウソ、すごい」
「でしょ」
「そういえば、私も友達になって、ってお願いしたら、あなたと友達になれた」
「本当?」
私達二人のまん丸な目が同時にコマメへと向けられる。当の本人は気にする様子もなく、暢気に欠伸をしていた。そして二人目が合うと、どちらからともなく笑った。
「これこそ、猫の恩返しかもね」
「そうだね」
打ち寄せる波の音が、静かに私達二人と一匹の周りを包み込む。潮の匂いをまとった夏風が、私の心ごと青い海に吹き抜けていった。




