一日遅れのバレンタイン
私のバレンタインは、いつも一日遅れてやってくる。
「桃香、今年のバレンタインもチョコ作るの?」
「あたぼうよ! これ以上ないってくらい最高のチョコ作って、今年こそ怜さんに渡すんだから」
「その決意、聞いたのこれで十回目」
「うっさい!」
冷ややかな私のツッコミに、桃香はぷうっと頬を膨らませる。その光景も見飽きているので、私は反論する代わりにため息をついた。
「バレンタインなんて、ただのお菓子会社の戦略の一つでしょ。今や好きな人だけじゃなく友達にまでチョコ渡したり、自分用に買っていったりするっていうんだから、二月十四日にこだわる必要なくない?」
「相変わらず六花は冷めてるなぁ。それじゃあロマンがないでしょ。バレンタインデーにチョコと一緒に好きな人に告白するなんて、すっごくロマンチックじゃない。それで二人の愛は盛り上がるのよ」
「告白すらしたことないくせによく言うわ」
「うっさい! 見てなさいよ、今年の桃香さんは一味も二味も違うんだから。あとで泣きついてきたって、六花にはチョコあげないもんねーだ」
「はいはい、じゃあその愛のこもったチョコを明後日私が食べることにならないことを祈ってるよ」
「なんでそんな言い方しかできないの? 性格わっるー」
「ほっとけ。んで、いつまでうちでくつろいでるつもりだ? これからチョコ作るんでしょ。さあ、帰った帰った」
「やだ。怜さんに会うまで帰んない。今日は仕事が早く終わるって情報、私の耳には入ってるんだからね」
「いいから帰れ! 人の部屋で主以上にくつろぎおって。これ以上居すわるなら金取るぞ」
「ひっどーい! 親友からお金取るなんてサイッテー」
人のベッドで寝そべりながら堂々と雑誌を読んでいる桃香が、いーっと白い歯を見せて抗議する。とうとう我慢の限界がきて、私は彼女の両頬をむんずと押しつぶした。
「いいか? これ以上そんなクソ生意気なことぬかすんなら、怜ちゃんにあんたの恥ずかしい過去をバラしてやる」
「ふぬっ?」
「たとえば、保育園の時自分がおねしょしたくせに、私を身代わりにした卑怯な話とか?」
悪魔のように耳元で囁くと、桃香の顔からさっと血の気が引いた。
「怜ちゃんはああ見えて曲がったことが嫌いだから、今の話聞いたら、妹のように可愛がってるあの桃香ちゃんが、って幻滅するかもなぁ」
「ふぁめ! へったいにふぁめ!」
「だったら帰るな?」
桃香が全力で首を縦に振る。その様子を見て満足し、私は両頬を解放してあげた。
「ぷはっ。六花の鬼、悪魔!」
「どうせなら魔王様と呼べ」
「六花魔王なんか怜さん勇者に倒されちゃえ!」
「返り討ちにしてくれるわ」
ケケケッと悪魔のように笑う私に、桃香は精一杯のアッカンベーをよこして反撃する。そしてそのまま部屋を出て行ってしまった。
「やり逃げとは、ヘタレな桃香らしいな」
やれやれとため息をつき、そのままベッドへ倒れ込む。埃と一緒に桃香の残り香が部屋にふわりと巻き上がり、思わず布団にしがみついた。
「……桃香の匂いがする」
それだけで無意識に心拍は跳ね上がり、身体中が甘く疼き出す。これがただの病気だったら良かったのにと、今まで何度思ったことだろう。
「今年はちゃんと渡せるかな、本命チョコ」
桃香が私の姉である怜ちゃんのためにバレンタインデーにチョコを作り始めたのは八歳の時。子どもの頃から男の子と間違われるほどカッコよかった姉は、主に女の子から人気があり、桃香もその中の一人だった。
「わたしのほうが家近いし、ほかの子たちよりもあどばるーんがあるもんね!」
「それ、アドバンテージな」
実家がケーキ屋というだけあって、桃香には菓子作りの才能があった。保育園の頃からよく実験台として試食させられていたけれど、小学校に上がってからは私の舌をそこそこ満足させるほどには上達していた。
しかし、他の子達より美味しいチョコが作れるほどの桃香だが、奴は驚くほどヘタレだった。
「怜ちゃんにチョコ渡せた?」
「……渡せなかった」
「はあ? なんで。ご近所さんなんだから、今さら緊張することもないでしょが」
「六花にはオトメゴコロがわからないんだよ。改まって渡そうとすると、なんかこう……とにかく無理ーっ」
「アホらし。あんたがビビってる間に、怜ちゃんは昨日のバレンタインデーでチョコたんまり持って帰ってたぞ。差がついたな。ざまあみろ」
「普通こういう時はともだちをなぐさめるもんでしょ。六花のバカ! へんたい!」
「言葉間違ってるぞ、あぁん?」
「ふえぇー」
桃香の両頬を引っ張ると、まるでお餅のようによく伸びた。離すと少し赤くなっている。そんな涙目の桃香を見ながら私はため息をついた。
「今からでも遅くないから怜ちゃんに渡せば?」
「やだよ。バレンタインデーに渡さなきゃ意味ないもん」
「じゃあ、このチョコどうすんの?」
「六花にあげる」
「は?」
「捨てるのももったいないから六花にあげる。私の愛情たっぷりなんだから、味わって食べなさいよ」
「よく上から目線で言えたな、おい」
「いいから食べて」
強引に勧められ一口頬張る。甘い物があまり得意ではない怜ちゃん用だからか、少しビターだけれど後からふわりと優しい甘みが口いっぱいに広がった。
「……美味しい」
「ほんと?」
「私はもっと甘いのが好きだけど」
「それは知ってるよ。でもこれ怜さん用だからね」
「アホ。甘党の私でも美味しく感じる出来だっつってんの」
「そうなの? なら良かったぁ」
そのホッとしたような、嬉しそうな桃香の笑顔が今でも脳裏に焼き付いている。
その時から、毎年バレンタインデーの翌日には告白し損ねた桃香のチョコを私がもらうようになっていた。
「ただいまー」
玄関のドアが開く音がするのと同時に怜ちゃんの声が入ってきて、ふと我に返る。今日は怜ちゃんが早く帰ってくるという桃香の情報は正しい。だからこそ、二人のツーショットが見たくなくて私は彼女をこの家から追い出したのだ。
リビングへ下りて行くと、怜ちゃんはちょうど冷蔵庫を開けてお茶を取り出しているところだった。
「おかえり」
「ただいま。そっか、六花はもう学校行かなくてもいいのか」
「卒業生で、しかも早々に大学進学が決まった身ですから。今は自由気ままなもんですよ」
「ははっ、羨ましい。みんなは?」
「まだ学校。もう少ししたら帰ってくるんじゃない? 父さんは今日も遅くなるって」
「そっか」
ただ麦茶を飲んでいるだけなのに、まるでCMの一コマみたいに見える。まだ芸能人スイッチが切れていないのだろう。
人前に出れば外見に合わせたかのようにカッコ良く振る舞う怜ちゃん。でも本当は、内気で、臆病で、ネガティブなことを家族全員は知っている。私からしてみたら、なんでこんな人が人気なのかさっぱりわからない。でも。
「……怜ちゃん、ありがとう」
「えっ、何急に」
「いや、怜ちゃんのおかげで私は行きたかった私立の高校に入学できたし、大学にも行くことができるからさ。お礼くらいは言っておこうかと思って」
五年前母が交通事故で亡くなり、七人家族の我が秋山家の家計は一気に苦しくなった。
その時、兄弟トップの怜ちゃんは高校三年生になったばかり。二番目の私ですら中学なりたてで、バイトをできるのが怜ちゃんしかいなかった。それで高校中退して働くと言い出した彼女を思いとどまらせたのは、今の芸能事務所にいるマネージャーの鳴海さんだった。
「怜さんが売れるまで、お子様方の学費はこちらで肩代わりさせていただきます。ですからどうか、彼女をうちの事務所で預からせてください」
半年前から怜ちゃんにしつこくつきまとっていて、その度に断られていた鳴海さん。これを好機とばかりにこんな悪魔のような取り引きを持ちかけてきたのだろう。そんな汚いやり方に正直腹が立った。
「卑怯なやり方ですね。家族想いの姉の気持ちを利用するなんて」
「確かに、私は最低な人間よ。でも、そうまでしても私は怜さんが欲しいの」
「ふざけんな!」
頭にきて、ぶん殴ってやろうと立ち上がる。しかし、そんな私を止めたのは冷静な目をした怜ちゃんだった。
「本当に、私がその事務所に入れば妹弟達の学費を肩代わりしてくださるんですか?」
「怜ちゃん!」
「六花は黙ってて」
「…………っ」
「どうなんですか?」
「約束します。もしこの約束を破ったら、私を殺してくれてかまいません」
鳴海さんの目と怜ちゃんの目がぶつかり合う。しばらくして、怜ちゃんは鳴海さんに向かって頭を下げた。
「わかりました。あなたの事務所に入ります」
「怜ちゃん!」
「ありがとう」
「私は反対だ。怜ちゃんは芸能人に向いてない。絶対苦労するのは目に見えてる!」
「じゃあ、六花は私が高校中退して働いた方が良いって言うの?」
「それは……っ」
「嫌だよね。もちろん、六花が私を心配して怒ってくれてるのはわかってるよ。ありがとう。でも、私は大丈夫だから。それにほら、チビ達が怖がってる」
言われて見ると、私のあまりの剣幕に妹弟達は今にも泣きそうになっていた。ああ、そうか。だから父も怒鳴ったりはしなかったのか。
「……ごめん」
こういう時、怜ちゃんはやっぱり長女なんだなと思う。妹弟のトップとしての責任を持ち、いざという時には頼りになる。
実際、人前で話すのが苦手だからという理由で生徒会長を断り続けるほど内気な怜ちゃんは、最初の頃はかなり苦労していたらしい。それでも家族のためにと嫌な仕事でも頑張ってやり続け、今や事務所に借りていた学費を全額返済。そればかりか、私の大学の入学金すら工面できるほどにまで成長した。そんな姉が大好きだし、密かに尊敬もしている。絶対口に出しては言わないけど。
「六花が……六花が素直にお礼言ってる」
「なによ、悪い?」
「ううん、全然悪くない。むしろ可愛くて大好き!」
「ちょっ、ちょっと! 抱きつかないでよっ」
「お礼を言うのはこっちだよ。六花は、自分の子どもを母校にっていうお母さんの夢を叶えてくれた。それだけじゃなくて、高校入学してからずっと特待生キープしてくれたおかげで、学費免除の恩恵受けて事務所に返すお金も少なくて済んだ。本当、六花は自慢の妹だよ」
そう言って怜ちゃんは微笑むと、私の頭を優しく撫でた。子どもの頃と変わらない、えらいよ、よく頑張ったねと。
「……怜ちゃんズルい」
怜ちゃんがすっごい嫌な奴だったらよかったのに。そしたら恋敵として思いっきり嫌いになれる。でも、これじゃあ好きになる一方で全然憎めないじゃないか。
「六花、どうしたの?」
「ねえ、明日のバレンタインなんだけど……」
「あー、そのことなんだけどさ……」
そこまで言って、怜ちゃんは言いにくそうに目を泳がせた。
何か嫌な予感がする。この感じはそう、大嫌いな鳴海さん絡み。
「何、早く言って」
「明日撮影終わるのが遅くなりそうなんだよね。だから、その……鳴海さん家に泊まろうかと」
「は?」
「いや、べつに深い意味はないんだよ。ただ、夜遅くに女の子一人で帰るのも危ないだろうし、ご家族にも迷惑かかるだろうから、だったらうちに泊まればって、鳴海さんのご好意で」
頬を赤らめ、目を泳がせている怜ちゃん。よくそれで、これなら誤魔化せる、と自信を持てたもんだな、おい。
怜ちゃんの良いところであり悪いところは、素直すぎるところだ。ウソがヘタクソだし、未だに私が二人の関係に気付いていないと思っている。
面白くない気持ちが顔と声に出た。
「……怜ちゃんのエッチ」
「えぇっ? 六花、これはそういうことじゃなくてっ」
「そういうことってどういうこと?」
「いや、それは、その……なんというか……」
「怜ちゃんは、家族より鳴海さんを取るんだね」
「それは……」
しまったと気付いた時にはもう遅かった。怜ちゃんは俯き、とても辛そうな顔をしている。
バカか、私は。そんな言い方したら、家族想いの怜ちゃんが苦しむことくらいわかってたはずなのに。八つ当たるにしても"家族"というワードを引き合いに出してはいけない。これじゃあ、怜ちゃんを芸能界に引きずり込んだ悪魔の取り引きと一緒じゃないか。
「ごめん、今のは言い過ぎた」
「いや、いいんだよ。六花の言う通りだし。私、ひどいお姉ちゃんだよね」
「怜ちゃんがひどいお姉ちゃんなら、世の中の九十九パーセントの姉はクズ以下だよ」
「さすがにそれは言い過ぎじゃあ……」
「そんなことない!」
「六花?」
「怜ちゃんは今まで私達のために色んなこと犠牲にして頑張ってきたでしょ。そのおかげで、私達家族は幸せになれてる。だから今度は怜ちゃんが幸せになる番。どちらかを捨てるとかじゃなくて、家族を握りしめたまま目の前の幸せを掴んでもいいんだよ。それで文句言う奴はうちに一人もいないから。だから、怜ちゃんも絶対幸せにならなきゃダメ」
正直、怜ちゃんを幸せにできる相手が鳴海さんというのは面白くないけれど。でも、悔しいけれど彼女しかいないのだ。私でも、桃香でもない。苦楽を共にし、怜ちゃんを陰ながら支え続けてきた、強い絆で結ばれた鳴海さんにしか。
柄にもなく熱く語ってしまった。恥ずかしい。そんな照れている私を、怜ちゃんは優しく抱きしめてくれた。
「ありがとう。やっぱり、六花は私の自慢の妹だよ」
「当たり前じゃない。なんたって、私は秋山怜の妹なんだから」
「そっか」
「鳴海さん家に泊まるのはいいけど、妊娠して帰ってこないでね」
「なっ、ななな、何言って……っ」
「さて、夕飯までちょっと寝ようかな」
「六花待って! 鳴海さんは女だから妊娠しないよっ……じゃなくて、私達はそういう関係じゃないんだってば!」
「はいはい、そうでしたね」
「ちょっと、六花!」
怜ちゃんが慌てて私を追いかける。しかし、途中で唯一の小学生である一番下の弟が帰ってきたので、追跡は呆気なく妨害された。
「必死に否定しちゃって。あんなのバレバレだっつの」
部屋へ戻り、再びベッドへダイブする。桃香の香りは薄くなっていた。
桃香は、怜ちゃんと鳴海さんの関係に気付いているんだろうか。
怜ちゃんの恋を応援するようなこと言って、私は何がしたいのだろう。それで諦めた桃香がこちらに振り向くとでも思っているんだろうか。
淡い期待と、ほんの少しの罪悪感。
怜ちゃんと鳴海さんの間に、他の誰かが入り込む余地はない。だからきっと、桃香が告白したところで振られるのは目に見えている。それは私にとって良いことのはずなのに。
「桃香の傷付いた姿は見たくないなんて……矛盾してんな」
そう思ってしまうほどに、私は桃香のことを好きなのだろう。
五年前、母の葬式の日。みんな泣いていたのに、私だけ涙が出てこなかった。
悲しくないなんてことはない。呼吸すらままならないほど悲しくて苦しい。
怜ちゃん絡みで人付き合いが面倒になっていた私は、人前では言葉も感情も省エネで過ごしてきた。だからこれはその報いなんじゃないか。お経を聞きながらそんなことばかり考えていたけれど。
「六花のバカ! こんな時くらいカッコつけなくてもいいのっ」
「桃香……」
「悲しいんなら泣いていいの。みっともなく泣いてもいいの。今日で一生分の涙使い果たすくらい泣け。それでも泣けないっていうんなら、私が代わりに泣いてやる!」
そう言って、宣言通り桃香は泣いた。それはもう、子どものように声を上げて激しく。
中学生にもなって、こんなに泣いてみっともない。それでも、桃香のその優しさが嬉しくて。
「バカ桃香、あんたが泣いてどうすんの……っ」
自分の中で何かが弾けた。すると、それまで泣けなかったのが不思議なくらい、私は桃香にしがみついて泣いていた。悲しい、悲しいよという感情を、心から吐き出すかのように。
その時思い知ったのだ。素の私を見せられるのは桃香だけなんだと。彼女は私にとって唯一無二の存在で、他の誰もその代わりにはなれないんだと。だからこそ、大切すぎて失うのが怖いなんて。
「矛盾してんな……っ」
枕に顔を埋める。下の階からは、弟の「明日チョコちょうだい」という怜ちゃんへのおねだりの声が聞こえていた。
「あれ、秋山先輩いらしてたんですか?」
バレンタイン当日。生徒会室で一人本を読んでいた私に、後輩が驚いたという風に声をかけた。
「ごめん、お邪魔して。一応引き継ぎの時に確認はしたんだけど、もしかしたら忘れ物があったらいけないと思って。その確認で」
「それでわざわざ。お疲れ様です。それで、忘れ物はありましたか?」
「いや、無かった」
「でしょうね。なんたって秋山先輩ですから。会長になられてた時もお仕事は完璧でしたし」
「褒めても何も出ないよ」
「お世辞じゃありません! 私は秋山先輩に憧れて生徒会に入ったんですから」
「……そう。ありがとう」
憧れ、ね。私は誰かに憧れを抱かれるような、そんな大層な人間じゃないのに。
ただ怜ちゃんの負担にならないよう、毎日必死になっていただけ。特待生をキープするために、学業はもちろん日常生活にも細心の注意を払って。桃香以外の誰かに隙を見せる暇もなかった。
生徒会長になったのだって、大学の推薦入試に有利に働くだろうと見積もって打算的に動いた結果だ。桃香の言葉を借りるなら、計算高くて腹黒い。
自分の性格に嫌気がさしてため息をつく。そして私は本を閉じると立ち上がった。
「私はもう帰るよ」
「え、みんなに会っていかれないんですか? きっと喜ぶのに」
「私はもう生徒会の人間じゃないから。そんな人間がいつまでもここにいたら、他の生徒に示しがつかないでしょ」
そう適当に理由をつけて生徒会室を立ち去る。今は授業と授業の間の休憩時間だからか、周りの教室はにわかにざわついている。前を通るとほのかにチョコレートの匂いがした。
「忘れ物、ね」
よくもまあそんな子ども騙しみたいなウソをついたもんだ。本音は、桃香が怜ちゃんにチョコを渡すところを見たくなくて、逃げるように用の無い学校に来ただけなのに。
怜ちゃんの今日の仕事は午後から。たぶん、その情報はとっくに桃香の耳にも入っているだろう。だから、チョコを渡すなら午前中のこの時間しかない。
「あいつ、渡せるかな」
自身の教室へ入る。受験真っ只中のクラスメイト達は誰も来ていない。静かに席につくと、ちょうど始業のチャイムが鳴ったところだった。
ここへ来るのもあと少し。卒業したら、私は大学、桃香は専門学校と別々になってしまう。
「怜ちゃんにフラれたら、桃香はどうするんだろう」
私に振り向くはずはない。きっと共学の専門学校で良い男性と巡り会って、付き合って、そして結婚するに違いない。だって、その方が一般的だから。
では、私は? 失うのが怖くて告白もしないで、このままずっと桃香を想い続けてしまうんだろうか。彼女の親友のまま、私ではない誰かと家庭を築いていく様を、そばで見続けていくだけなんだろうか。
「地獄か。桃香のアホ」
嫌気がさして机に突っ伏す。三年生の階は相変わらずしんと静まり返っていた。
いい加減、チョコを渡してほしい。もし今日渡せたら、この卒業を区切りに桃香から離れようと思う。想いを断ち切るのは無理でも、もうこれ以上親友のまま彼女のそばにいるのは耐えられない。
「今日こそ渡せよ、ヘタレ桃香」
そういえば、一度だけバレンタイン当日にチョコをもらったことがあったな。
確かあれは中学二年生の時。夜にわざわざ家まで来て、私にチョコを差し出したのだ。
「今回も渡せなかった……」
そこまでは今までと変わらなかったけれど。その時違ったのは、渡した後で桃香が号泣したこと。
「な、何どうしたっ?」
聞いても桃香は何も答えない。ただ私にしがみついて泣いているだけ。
桃香は私と違ってよく感情が動くタイプだから、泣いているところを見るのはべつに珍しくない。ただ、この時は様子がいつもと違っていて。私は慰める言葉が見つからず、そのまま泣き止むまで彼女を抱きしめていた。
結局泣いた理由は聞けないままだけど。聞いてほしい時は自分から話してくれるので、今もそっとしといている。
怜ちゃんにフラれたら、あの時みたいに泣くのかな。この世の終わりかのように。葬式の日の私みたく。
「バレンタインなんて嫌いだ……」
「私は好きだけどなぁ」
声が落ちてきて、驚いて顔を上げる。そこにいたのは、制服姿で少し息を切らしている桃香だった。
「……あんた、何してんの?」
「それはこっちのセリフよ。なんで学校なんかに来てるわけ? おかげで探しちゃったじゃない」
「勝手に来といてその物言いはなんだ」
「事実よ。怜さんから六花は学校に行ったって聞いて、慌てて着替えて来たんだから」
「怜ちゃんから……って、そういえばチョコは? 渡せたの?」
私の質問に、桃香はすぐには答えない。そして少しの沈黙の後、手にしていたカバンから綺麗にラッピングされた袋を取り出した。私はそれを見て愕然とする。
「怜さんには渡してない」
「なんで……っ」
「それは……」
「なんで渡さないんだよ!」
やり切れない怒りと絶望が胸に湧き上がり、私はつい声を荒げてしまった。
「なんでいつもいつも渡せないんだよ、告白しないんだよ! あんたのそのヘタレのせいで、私がどれだけ悩んでるか、傷付いてるか、お前にわかるかっ」
「なっ、なんで私が怜さんにチョコ渡せないだけで六花が傷付くのよ。あんたには関係ないでしょ!」
「関係ある!」
「……六花?」
「あんたが踏ん切りつけないと、私があんたへの想いを断ち切れないじゃない……っ」
一日遅れでもらう、好きな人からのチョコレート。
正直、このままこの関係が続くのも悪くないんじゃないかと考えたこともある。どうせ叶わない恋ならば、桃香の好きな人にはなれなくても、特別な友人のまま彼女の隣にいるのもアリなんじゃないかと。そしたら、もしかしたらいつか本命がもらえるかもしれないと。
でも、そんな淡い期待を裏切られ続ける毎日は、やっぱり辛い。
好きだから。怜ちゃんよりも、世界中の誰よりも、桃香のことが大好きだから。好きな人には同じ気持ちでいてほしい。どうしようもないこの想いを、共有してほしい。私のことを好きになってもらいたい。
それを否定され続ける毎日は、もう耐えられない。
泣きそうになって、私は顔を見られないよう走り出す。しかし、教室を出る手前で桃香に腕を掴まれた。
「待って! 私の話を聞いて」
「やだ。聞くことなんてない。聞きたくない!」
「いいから、少しだけても私の話を聞いてってば!」
「やだっつってんだろが、このバカ桃香!」
「はあっ? バカはそっちでしょが、このっ」
桃香は私の頭を両手で掴むと、そのままの勢いで思いっきり頭突きをかました。あまりの衝撃に、「がっ」と呻いた後で目蓋の裏に星がキラキラと輝いていく。
『……っつー』
二人同時に額を押さえてうずくまる。どうやら、やった本人も相当痛かったらしい。そういえば、子どもの頃もよくこうしてケンカしていた気がする。
どうやら桃香もそう思ったらしい。目が合うと「ぷっ」と吹き出して笑い出した。
「六花だっさー」
「お前もな」
「昔もよくこうしてケンカしてたね」
「桃香はすぐ暴力に訴えるから。でも――」
『すぐ仲直りしてた』
声がハモり、思わず桃香を見る。その子どもの頃と変わらない無邪気な笑顔に、私は思わず苦笑した。ああ、やっぱ桃香には敵わないなって。
「元生徒会長様に頭突きをかますとはいい度胸だな」
「保育園の時、私のお迎えが先に来ると、一緒に帰る、って駄々こねて先生達困らせてた奴がよく言うよ」
「あれは黒歴史だ。忘れろ」
「嫌よ、絶対忘れない」
ニシシっと笑うと、桃香は先ほど取り出したラッピングされた袋を私に差し出した。
「これは、六花へのチョコレート」
「は? 私に?」
「そう。怜さんでもない、他の誰でもない、六花のためだけに作った本命のチョコレート」
「ウソ……」
「ウソだと思うなら食べてみれば?」
そう挑発的に言われ、袋を開けて中の掌サイズの小箱を取り出す。開けてみると、六個のトリュフチョコが入っていた。その一つを口に頬張る。
「……美味しい」
「ほんと?」
「私好みの甘めのチョコレート」
「イエース!」
このチョコが証明している。これは、私のために作られたものだと。桃香の愛情がたっぷり入った、この世でたった一つの本命チョコ。
「ほんとはもうずっと前から本命だったのに。六花ってば全然気付いてくんないんだもん。この鈍ちん」
「まさか私のために作ってるとは夢にも思わなかったんだよ。だから、甘くなってるのには気付いてたけど、桃香腕落ちたなーと思って」
「ひっどーい! 毎日六花のために腕磨いてるようなものなのに、その言い方はないでしょ」
「わかった、わかった。勘違いしてごめん」
むーっと膨れっ面をして私に抗議する桃香を、私はどうどうとなだめる。そして、手にしているチョコレートをもう一度まじまじと見つめた。
「本当に私のために作ってくれたんだな。でも、いつから?」
いつから桃香の本命チョコは、怜ちゃんから私へスライドしたのだろう。正直、いつから味が変化していったかなんて覚えてない。
私の質問に、桃香は一度フッと微笑んだ。
「中学二年生の時、私六花へチョコ渡した後泣いたでしょ。あの日ね、間接的にだけど私失恋してたんだ」
「失恋?」
「そう。怜さんは鳴海さんのことが好きなんだって、その日初めて気付いた」
「なんだ、知ってたのか」
「うん。あの時はもうほんとショックでさ。もう二度とチョコなんて作らない、こんな気持ちになるくらいならもう二度と恋なんてしないって思った。そんで、ゴミ箱にチョコ捨てようとしたんだけど、その時何故か六花の顔が頭に浮かんできちゃって」
「私の?」
「そう。本能のまま六花に会いにいって、そんで顔みたらなんかホッとして気が緩んじゃって。でも、ただ泣きじゃくる私を、六花は理由も聞かずずっと優しく抱きしめてくれたでしょ。それ、すごく嬉しかったよ」
「……褒めても何も出ないぞ」
「あ、照れてる。可愛い」
「蹴るぞ」
「なんでよ!」
恥ずかしい。こんな私を見せるのはシャクだけど。あの日の私は、何もできなかったわけじゃなかったんだ。少なくとも、桃香を安心して泣かせてあげることができていたんだ。その事実は正直嬉しい。
「泣き終わった後、六花がいつものように私が作ったチョコ食べて、美味しいって言ってくれて。こんな辛いはずなのに、その顔見たら何故か幸せだなって思えて。だから、今度はこの人のためにチョコ作ろうと思ったの。チョコだけじゃなくて、大好きなお菓子でもっともっと喜んでもらいたいって」
「桃香……」
そんな風に想われてたなんて、全然気付かなかった。自分のことばかりで、大好きな桃香のこともちゃんと見る余裕もなくて。本当は、こんなにも気持ちは通じ合っていたのに。
もう一口チョコを頬張る。すると、私の中で桃香の愛情が優しく溶けていった。
「美味しいよ。桃香の作るお菓子は、優しくて、愛情たっぷりで、いつ食べても幸せになれる」
「な、なによ急に。六花が素直に褒めると何か怖いんですけど」
「じゃあ、蔑んでやろうか」
「なんでよ! 絶対やだっ」
桃香は白い歯を見せて、いーっと抗議する。それがあまりにもいつも通りすぎて、思わず笑ってしまった。
私の恋を否定するバレンタインなんて大嫌いだったけど。好きな人からもらう愛のこもったプレゼントが、こんなにも嬉しいものだなんて。
「バレンタインも悪くないな」
「そうでしょ? 見てなさいよ、これから六花のためにじゃんじゃんお菓子作ってやるんだから」
「実験台の間違いだろ」
「そうとも言う。でも、愛情はこめてるから。きっと美味しすぎて六花ぷくぷくに太っちゃうぞー?」
「私は怜ちゃんと同じで、食べても太りにくい体質だから。それに、桃香と違ってちゃんと自制できるんで問題ない」
「なにそれ、嫌味?」
「私のために作っていいって言ってんだよ。むしろ、私以外の人間に愛情こめたらしばく」
「ど、独占欲強すぎなんですけどっ」
「覚悟しとけよ」
顔が赤くなった桃香を見ながらケケケッと笑う。しかし、すぐに何か思い出したのか、桃香が「あっ」と声を上げた。
「そうだ、怜さんにチョコ渡さなきゃ!」
「怜ちゃんに? 本命は私なんだろ?」
「だから義理チョコ! 勘違いされないように、六花に本命渡した後で怜さんにチョコ渡そうって決めてたの」
「お前は変なところで律儀だな」
「いいから行くよ」
「なんで私まで」
「そんなん決まってんでしょ。一緒に帰りたいから!」
こいつは。不意打ちでそんな殺し文句をぶっ込んでくるな。そんなこと言われたら、こっちもその気になるじゃないか。
「待ってろ。今カバン持ってくる」
「早く急いで!」
桃香の言葉は無視して、チョコを丁寧に包み直す。潰れないようカバンに入れると、ふわりとかすかにチョコレートの匂いがした。
「六花急いで! 怜さんが行っちゃう」
「まだ大丈夫だって」
「そんなんわかんないでしょっ」
好きな人からもらう、一日遅れのバレンタインチョコ。
いつか私からもあげてみたい。そしたら、私の好きな人はどんな顔をするだろう。
そんなことを考えながら、私は大好きな桃香の元へと走った。
”怜ちゃん”は、「マネージメント」で出てきた”秋山怜”です。




