ワンルーム
この度、十二歳の姪っ子を引き取ることになった。
「名前は?」
「…………」
「自分の名前くらい言えるでしょ」
「……美雨」
彼女はそうボソリと呟くと、もうしゃべらないと言いたげにそのまま黙ってしまった。
シングルマザーだった姉の一人娘。父を早くに亡くし同じくシングルマザーで私たち二人を育ててくれた母は、病気で他界しもういない。その姉はというと、去年交通事故に遭い、愛娘を一人置いて母に会いにいってしまった。
「可哀想に。これからあの子どうするのかしら?」
「見て。母親の葬式なのに泣きもしないわ。冷たい子ね」
姉の葬式の時、美雨はまったく泣かなかった。口をひき結んで、ただじっと姉の遺影を見つめている。その姿は、私のために自分のしたいことを我慢している時の姉にそっくりだった。
「覚えてるかな? 私はお母さんの妹の透子。好きに呼んでいいから」
「…………」
反応なし。たらい回しにされた親戚達から聞いた話の通り、美雨は極端に口数が少ない。最初はしゃべれないのかと思ったくらいだ。
「困ったな……」
正直言って、子どもは苦手なのに。どう接していいかわからないし、何を考えているのかもわからない。わがままだし、突然癇癪を起こしたりする。そんな怪獣を飼い慣らす気概は、人見知りで陰気な私にはこれっぽちも持ち合わせていなかった。
泣きもしなければ笑いもしない。それが気持ち悪くて、親戚達は彼女を敬遠している。そんな様子を姉の一周忌の時に感じてしまって。私はつい美雨に手を差し伸べてしまった。
「私の所に来る?」
てっきり断られると思っていたけれど。美雨は意外にもコクリと頷いて私の手を握ってくれた。そのあまりの予想外の展開に、私の方が激しく動揺する。
「えっと……はっきり言っとくけど、私まだ社会人二年目で余裕ないから、あんたの相手はできないよ。それでもいいの?」
またコクリと頷く。
ほんとかぁ。後で寂しいとかわがまま言って困らせるんじゃないの。そう怪しんでいたけれど。
美雨と一緒に暮らすようになって一ヶ月。私の予想に反して、帰りが遅く家事すらまともにしない私に対しても、彼女はわがままどころか文句一つ言わなかった。ただ従順に毎日をやり過ごしている。
親戚達が気味悪がるのも頷ける。これじゃあまるで生きた人形みたいだ。
隣で寝ている美雨に視線を向ける。一人暮らしを想定した一DKのワンルームに、彼女個人の部屋など存在するはずもない。こんな風に誰かと一緒に寝るのは姉以来だ。ふと、姉が生きていた時のことを思い出した。
「ねえ、もし私に何かあったら、美雨のことよろしく頼むわね」
姉という立場から、私に頼ることなんてほとんどしてこなかった姉。そんな彼女の最後の頼み。一周忌の時にそれを思い出してつい美雨を引き取ったはいいけれど。
「やっぱ私には無理だよ……」
姉のようになんでも器用にこなせない。社会性も無いし、強い責任感もない。こんな私が、誰かを育てるなんてはじめから無理だったんだ。
もう一度親戚達に相談してみよう。美雨を引き取ってくれないかって。彼女には悪いけど、私には荷が重すぎる。
「ねえ、どこか行きたい所とかないの? 明日私休みだから連れてってあげるけど」
これが最後の優しさのつもりで聞いてみる。てっきり何も答えないだろうと思っていたけれど。意外にも美雨は口を開いた。
「……アパート」
「アパート?」
「お母さんと住んでたアパートに行きたい」
美雨の口から聞いた、初めての望み。公園や遊園地といった子どもらしい所ではなく、母親と暮らした思い出の場所。それを選んだ彼女の顔を見ていると、なんだか切なくて、胸が苦しくなって。私は「わかった」と頷くことしかできなかった。
「アパートはもう引き払ってるから、今は別の誰かが住んでるかもしれない。だから部屋の中までは見ないよ。外見だけね。それでもいい?」
アパートまでの道を歩きながら、美雨はコクリと頷く。幸い、彼女達が住んでいたアパートまではそんなに遠くない。私も姉に誘われて一度だけ泊まりに行ったことがある。だからそう迷うこともなく、午前中には目的地に着くことができた。
「あっ!」
美雨がアパートの二階の部屋を指して声を上げる。
なんだその反応。初めてでビックリなんですけど。そう驚いている私を無視して、美雨は私の手を引いて走り出す。
「ちょっと、いきなりなんなのっ?」
「洗濯物が干してある!」
「はあ?」
見ると、確かに美雨が指さした部屋のベランダには女性物の洗濯物が干してある。しかし、それがどうしたというのだろう。やっぱり、もう別の誰かが入居しているとわかっただけじゃないか。
そう私に反論させる余裕を与えず、美雨は階段を駆け上がり、そして部屋の前で一度呼吸を整える。
「ほら、もう誰かがここに住んでたのわかったでしょ。気が済んだんならもう家に帰るよ」
しかし、この時の美雨は頷かなかった。それどころか、あろうことか部屋のインターホンを鳴らしたのだ。
「ちょっ、こらバカ! 何してんのっ」
何してんだこいつ。今は知らない人が住んでるっていうのに、何インターホン鳴らしてんだよ。もし相手が出てきたらどうすんだ。何て説明すんだよ。私は人見知りで口下手なんだぞ。
言いたい恨み言がぐるぐると頭を回る。そして考えがまとまらないうちに、部屋の扉が開いてしまった。
「はい……って。あの、どちら様ですか?」
出てきたのは、二十代くらいの女性だった。彼女は突然現れた私達二人に驚いている。でも、それ以上に驚いていたのは美雨本人だった。
「いや、その……。そう、この子! この子が勝手にインターホン押しちゃって。すみませんでした」
「え?」
「ほら、あんたも謝る!」
美雨の頭を掴んで無理矢理下げさせる。しかし、彼女は邪魔そうに私の手を振り払うと、とんでもないことに部屋の中へと勝手に入っていった。
「こら、美雨!」
「あ、あのちょっとっ」
「すみません! すぐ捕まえて出て行きますから」
「いや、べつにそんな……っ」
彼女に謝罪を入れ、すぐさま私も中へと入る。築何十年と経った部屋の中は所々ガタがきているようだけれど、それでもパッと見はそれを感じさせない落ち着いた雰囲気だった。
「美雨、あんた人ん家で何してんの!」
「違う! ここは私の家なの。私とお母さんのお家なの!」
「はあ? あんた何言って……」
「お母さん! お母さんどこっ?」
美雨は一生懸命母を呼びながら部屋中を動き回る。台所から居間、風呂場やトイレ、ありとあらゆる扉を開けては「お母さん」と叫ぶ。まるで、死んだはずの母親を探すように。
「あんた、もしかして……」
「お母さーん! お母さーん!」
「美雨、もうやめな」
「お母さーん! お母さん……どこ……っ」
美雨は、居間の真ん中で必死に叫ぶ。それでも母親は現れない。その現実がとうとう彼女の心を押し潰して、美雨は大きな声を上げて泣き始めた。
葬式の時でも泣かなかったのに。その美雨が、今は大粒の涙を流し、姉譲りのその綺麗な顔をぐちょぐちょに濡らしている。
ああ、そうか。やっとわかった、今まで美雨が泣かなかった理由。
美雨は、母親が死んだという現実を受け入れられなかったんだ。それをしてしまうと、もう本当に二度と会えなくなるとわかっていたから。だから、ちょっと離れてるだけ、またきっと戻ってくると信じて待ち続けた。
でも、今日ここへ来て、自分達親子が住んでいたこのアパートへ来て、そこに大好きな母親が居ないという現実に直面した。思い出の詰まったこの場所に、別の誰かが住んでいる。それは美雨にとって、母親の存在の否定に近い。その現実は、小さな胸で受け止めるにはあまりにも残酷過ぎて。
「美雨!」
耐えられなくなって、私は泣きじゃくる美雨をきつく抱きしめた。
「お母さ……居な、いの。ここ、お家、なのに……っ」
「うん」
「お母さん、死んじゃっ、た……っ。死んじゃったぁ……っ」
「……うん」
私達にとって、ここはもう一つのアルバムだ。包丁の音が聞こえる台所、お風呂場から聞こえてくる母娘二人の楽しそうな声、そして三人で川の字で寝た寝室。どこを見ても、どこにいても、優しく微笑む姉との思い出が蘇ってくる。
当たり前だった風景。それが崩れた時、人は初めて喪失感を味わうのかもしれない。今の私達二人のように。
「お母さんのこと、大好きだったんだよね。そのお母さんが死んで、辛いよね、悲しいよね」
美雨は泣きながらコクリと頷く。言葉にすると、何故だか私の頬にも涙がこぼれ落ちた。
「私も、すごく悲しい。美雨のお母さんが死んで、すごく、すごく悲しいよ……」
私と違い優秀だった姉。彼女と自分とを比べて卑屈になり、少し苦手意識があったけれど。
それでも、姉だけはいつも私の味方でいてくれた。こんなダメな妹にも、優しさを分け与えてくれていた。そんな姉が本当は大好きだったのに。どうして今まで忘れていたんだろう。
「お姉ちゃん、大好きだよ……っ」
でも、もう大丈夫。たった今美雨が私に思い出させてくれたから。あなたのことが大好きだって。頑張り屋で、他人想いの優しい人だったって、これからは胸を張って言えるから。
だから安心して。あなたが残したこの宝物は、絶対私が守る。いっぱい泣いた分だけ、ううん、それ以上に笑えるように幸せにしてあげるから。
だから今日だけ、せめて今だけは思いっきり泣かせて。あなたを失ったことをめいっぱい悲しませて。それくらい大好きだったんだから、これくらい許してよ。ねえ、いいでしょ、お姉ちゃん……。
泣きながら、美雨を抱きしめる腕に力を込める。部屋のどこかで、姉が微笑んでいるような気がした。
ひとしきり泣いて落ち着いた後。私と美雨は新たな住人の女性に必死に頭を下げた。
見ず知らずの他人二人が、急に部屋の真ん中で泣き始めたのだ。その時の動揺と戸惑いは計り知れない。普通なら不法侵入だと頭をカンカンにして訴えてくるだろう。
それでも、彼女はすごく良い人で、私と美雨が謝っても「お気になさらず」と笑ってくれた。それどころか、美雨にまた遊びに来ていいとまで言ってくれた。
「これ、私の連絡先。来たくなったらいつでも連絡して」
美雨は、彼女から差し出されたメモを凝視し、一旦私の顔を見た後、再び視線をメモに戻す。どうやら、本当に受け取っていいのか戸惑っているらしい。
「来ていいって言ってくれてるんだから、素直に受け取りなよ。嫌なら私がもらうけど?」
「ダメ!」
怒った顔でメモをひったくると、美雨はそのまま私の後ろに隠れる。そしてひょっこり顔だけ出すと、小さな声で「ありがとう……」と呟いた。
「なんだ、可愛いとこあんじゃん」
照れてる美雨が可愛くて思わず笑う。すると、太ももの辺りを思いっきり抓られた。こいつ、やっぱり可愛くない。
私達二人のやりとりを見てクスクス笑う女性に見送られながら、私達二人はアパートを後にした。
昼ご飯の時間はとうに過ぎている。もうお腹が減って死にそうだ。それでも、心の中は今日の天気のように晴れやかだった。
「あー、疲れた、腹減ったぁ……。もう昼飯は何でもいいよね? どっか適当な店に入ろっか」
「透子」
突然名前を呼ばれ、私の足は止まる。美雨から名前を呼ばれたのはこれが初めてだった。
「その……今日はありがとう」
頬を赤く染めつつ恥ずかしそうに視線を逸らしながら、美雨はボソリと呟く。相槌や必要最低限の言葉以外で聞いた、彼女自身の言葉。人形なんかではなく、年相応の人間らしいその反応。何故だろう、それが無性に嬉しくて。
「どういたしまして」
そう返すと、私は美雨の頭を優しく撫でた。確かに子どもは面倒くさくて苦手だけれど。こういう可愛い部分を見せられると、不思議と愛しさが増してくる。
「それとね、あと一箇所だけ行きたい所があるんだけど」
「どこよ?」
「お母さんのお墓。まだお墓参り行けてなかったから」
思わず美雨を凝視する。彼女はというと、落ち着いた様子でその透き通った瞳を私に向けていた。
その目が訴えている。私はもう大丈夫、ちゃんと全部受け止めてみせるよ、だから心配しないで、と。
そうか、美雨はやっと一歩を踏み出したんだ。過去にしがみつくんじゃなく、ちゃんと前を見て未来に進むために。この悲しみを乗り越えたいと、そう思えるようになったんだ。
だったら、私が彼女のためにできることは決まっている。
「いいよ。私も一緒に墓参りする」
「本当? ありがとう、透子」
その時、姉が死んでから初めて美雨が笑った。それがどこか姉の面影と重なってしまって。思わず胸が熱くなった。私は慌てて視線を逸らす。
「行くのはいいけど、それは腹ごしらえした後ね。朝食べてないから、もう死にそう……」
「それは自業自得でしょ。朝寝坊する透子が悪い」
「休日に睡眠を貪って何が悪い。社会人の疲労舐めんなよ。つーか、自分だけちゃっかり朝食摂ってるとかズルくない?」
「私の保護者は、家事すらまともにできない大人なので。自分のことは自分でしようかと」
「……あんた、しゃべるとすっげー生意気なのね。内容がお姉ちゃんの小言と似てる」
「それはどうも」
むむむっとお互い睨み合う。しかし、途中で可笑しくなって同時に笑った。
「じゃあ、行こっか」
「うん」
どちらからともなく手を繋ぐ。この時初めて、美雨と家族になれた気がした。




