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百合三昧(短編集)  作者: 渡辺純々
26/42

あなたの一番

風音(かざね)!」

 一周四百メートルのトラックのゴール手前。私の親友が右足を押さえながら倒れ込んだ。その顔は痛みに歪んでいる。無情にも、そんな彼女を後続の選手達が次々に追い抜いていった。

「風音……」

 彼女は肩にかかった襷を握りしめ、必死に立ち上がろうとする。しかし、足が言うことを聞かないのか、身体は再び地面へと戻ってしまう。そのうちに監督や担架がやってきて、彼女はトラックの外へと運ばれる。遠くからでも、彼女が泣いているのがわかった。

「私、陸上やめる」

 後日、風音が私にそう告げてきた。その寂しげな笑顔を見て、私の胸が張り裂けそうになる。風音がどれだけ走ることが好きか、一番近くにいる私は痛いくらい知っていたから。耐えられなくなって、私は思わず彼女を抱きしめた。

「陸上やめても、私は風音の友達だからね」

奈々瀬(ななせ)ちゃん……っ」

 怪我をした大会の後、一度も泣かなかった風音が、今やっと声をあげて泣いた。私にしがみついて、何度も、何度も。そんな彼女の涙を身体で受け止めながら、私はさらにキツく彼女を抱きしめた。

 この子は私が守る。この先も、ずっと、ずっと。そんなことを思いながら。


「奈々瀬ちゃん、聞いてるー?」

 放課後、机に突っ伏して寝ていた私に風音が声をかけてきた。私はその格好のまま、片手をヒラヒラさせて肯定を示す。

「聞いてるよー……」

「じゃあ、今言ったこと復唱してみて」

「私、奈々瀬ちゃんにジュース奢ってあげる」

「全然違うよ! そんなこと言ってないし」

「ウソだぁ。勇者の剣片手に、堂々と胸張って言ってたじゃん。私うっかり感動しちゃった」

「……夢と現実をごっちゃにしないで」

 風音の呆れたというため息が私の頭に落ちる。そして彼女は、私の顔をなんとか持ち上げて、嫌がる私を無理矢理起こした。そして、私の両頬をその可愛い両手で挟み込む。

「明日は松岡(まつおか)君の誕生日だから、部活終わった後、私を待たずに一人で帰ってね。そう言ったの」

「つまり、明日は土曜日で部活は午前中までだから、午後から彼氏と誕生日デートするのでさっさと帰れ、ってことね」

「そ、そんなこと言ってないよ!」

「違うの?」

「違……わないけど」

 私の核心に、風音は顔を真っ赤にしてモジモジし始める。それを見て、また机に突っ伏したい衝動にかられた。もう何度目かの戯言を胸の中で吐く。なんだこれ、今日は世界が終わる日か。

「わかった、もうわかったから。さっさと部活行きな」

「奈々瀬ちゃんだって、今日もバレー部練習あるんでしょ」

「あるけど、陸上部よりかは練習開始が遅いから。まだ寝てていいの」

「よーくーなーい。二年生だからって、後輩だけに準備させちゃダメ」

 風音はそう言うと、落ちかけていた私の顔を再び持ち上げた。そして、まだ文句を言おうと顔を覗き込む。しかし、その前に心底だるそうな私の顔を見て何かに気付いた。

「奈々瀬ちゃん、ちょっと痩せた? 顔色も良くないし、もしかして具合悪いの?」

 先ほどとは一転して、心配そうな声音になる。普段走ること以外は鈍チンなくせに。たまに相手をよく見ている時があるから困りものだ。しかも、それが私に対して発現する確率が高いという、この空気の読めなさ加減。そういうのを感じ取ると、正直しんどい。

「べつに。いつも通りだよ」

 私は風音の手を退けて立ち上がった。そして、机に掛けてあるカバンを手に取る。

「どこ行くの?」

「部活。風音が行けって言ったんでしょ」

「それはそうだけど……」

「風音も早く行きな。でないと、松岡にあんたの小さい頃の恥ずかしいエピソードばらすよ」

「それだけは絶対にダメ! 奈々瀬ちゃんのいじわるっ」

「ははは、なんとでも言うがいい」

 片手をヒラヒラさせる私に、風音はいーっと白い歯を見せながら走り去っていく。私はそれを見送りながら、重い身体を引きずって体育館目指し歩き始めた。

「誕生日デートね」

 あんなに恥ずかしそうに頬染めちゃって。ちょっと前までは、楽しそうに笑うことさえできなかったくせに。

 中学二年の駅伝大会で、アンカーを任されていた風音は、ゴール直前で足を怪我してリタイアした。部員は皆気にしなくていいと言って風音を励ましたけれど、責任感の強い彼女は自分を責めて陸上をやめた。あの時の彼女の涙は、今も私の腕の中に残っている。

「奈々瀬、顔色悪いけど大丈夫?」

「先輩、気分でも悪いんですか?」

 体育館に着いて、準備し終えた私に部員達が心配そうに声をかけてくる。私は片手を挙げて「大丈夫でーす」と気怠げに答えた。自分的には身体がだるいだけなんだけど、そんなに体調が悪そうに見えるんだろうか。これだけ色んな人から言われると、なんだかそんな気がしてくるから不思議だ。

「脱水症?」

「まさか。それだけは絶対に嫌」

 中三の夏、部員達に無理矢理連れてこられた陸上の大会で、風音は松岡を見つけた。脱水症を起こし、ふらふらになりながらもゴールを目指す彼の姿に、風音は心打たれたらしい。同じ高校で彼を見つけた彼女は、もう二度とやらないと宣言していた陸上を再び始めた。彼と一緒に走るために。

 そして高二になってから、つい一週間前くらいに二人は付き合うようになった。風音から告白したと彼女自身から聞いた。たぶん、私の体調が悪くなりだしたのはそこからだと思う。

「もしかして、このまま死んじゃったりして」

 それもありかもしれない。そう思ったら笑いが出た。今は何もかもが面白くない。つまらなくて、イライラしすぎて吐き気がする。こんな性格じゃなかったはずのに。

「お疲れ様でしたー」

 部活が終わり、下校する生徒達の波に乗る。すると、少し前に松岡と風音が楽しそうに歩いている姿が見えた。私は思わず舌打ちする。

 今までは、風音の隣は私だったのに。彼女の笑顔を取り戻すのは、親友である私の役目のはずだったのに。それを全部、ぽっと出の松岡が持っていってしまった。

「どうして……」

 どうして私じゃダメなんだろう。誰よりも長い時間風音のそばにいたのに。彼女が楽しい時も、辛い時も、陸上をやめると言った時も、いつも私は彼女の隣にいたはずなのに。彼女が少しでも笑えるように、ピエロのようにふざけたことばかり言って励ましていたのに。ずっと、彼女を支えていたのは自分だと思っていたのに。

 それなのに、どうして選ばれたのは私じゃなく、風音のことを何も知らない松岡なんだろう。なんであいつが風音の一番なんだよ。今までは私が風音の一番だったのに。なんであんなヤツにその座を奪われるんだよ。なんで、なんで!

「はあ……殺したい」

 それは松岡のことじゃない。こんな醜い嫉妬しかできない自分自身をだ。親友の恋を、幸せを、心から祝福できないなんて。そんなお前こそ、風音の隣にいる資格なんてない。どこかへ風に乗って消えてしまえ。きっとそれが、風音のためになるはずだから。

 そんな思いを込めて、私はカバンをギュッと握りしめた。


 土曜日は雲一つない晴天で、デートにはもってこいの日だった。

 きっと、風音は松岡とのデートを楽しみにしている。それは朝の通学時の彼女の顔を見れば一目瞭然だった。たぶん、私が事故に遭ってもそっちを選びかねない浮かれっぷりだ。

「はあ……」

 今日という一日が早く終わればいいのに。というか、もう世界が終わればいいのに。風音が私を一番に選ばない未来しかないのなら、もう明日なんていらない。私という人間自体、もう必要ない。どこか遠くへ捨ててしまいたい。そんなことを考えながら、バレー部の練習をしていた時だった。

「あ、れ……?」

 急にコートがグニャリと歪んだ。かと思うと、身体中に力が入らなくなって、私は重力のままコートの床に倒れこむ。駆けつけて来る部員達の動きがスローモーションに見え、私を呼ぶ声が水の中にいる時のようにぐぐもっていてよく聞き取れない。

 息が、胸が、苦しい。本当に死ぬのかもしれない。そんなことを思いながら、重くなったまぶたをゆっくり閉じる。最後に浮かんだのは、風音の楽しそうな笑顔だった。


 目を開けると、目の前に白い天井が広がっていた。どことなく薬品の匂いがして、ベッドの横には点滴がぶら下がっている。そこでようやく、自分が病院で寝ているいことに気づいた。

「あ、起きた! 奈々瀬ちゃん、大丈夫っ?」

 キンキンとうるさい声に、思わず眉間にシワを寄せる。その声の主は、今日誕生日デートをしているはずの風音だった。

「……なんで風音が? 今日は、松岡と誕生日デートのはずでしょ」

「松岡君には事情話して、今日はキャンセルしてもらった。バレー部の友達から奈々瀬ちゃんが倒れたって聞いて、心配でこっち優先してきちゃったの」

「あ、これ夢か」

「夢じゃないよ! 現実だよ」

「ウソだあ。風音が彼氏より私を選ぶはずがないもん」

「なんでよっ」

 そう言って、風音は遠慮なく私の頬を横に引っ張った。

「いででででででっ! 風音痛いっ」

「ほら、夢じゃないでしょ」

「わかった、わかったから離して」

「ダーメ」

 風音は何が気に食わないのか、抗議するようにぷうっと頬を膨らませる。

「お医者さんが言ってたよ、奈々瀬ちゃん貧血と栄養失調だって。無理なダイエットは禁物って、目を覚ましたらキツく言っといてって頼まれた」

「私、ダイエットなんかしてないけど」

「ウソ。だったら、なんで栄養失調なんかになるの? ご飯食べたのいつ?」

「えーと、昨日……いや、一昨日?」

「一昨日っ?」

 いや、もしかしたらもっと前かもしれない。風音に言われてやっと気付いた。風音が松岡と付き合うことになってから、まともに食事を摂っていなかったということに。どうやら、風音と松岡の一件は、私の中で相当ショックだったらしい。

 驚きに、風音の手が私の頬から離れる。私は自分自身に確かめるように、天井を見つめつつボソリと呟いた。

「そっか、私食べるの忘れてたんだ」

「忘れてたんだ、じゃないよ! 死ぬ気?」

「そうだったのかも」

 思わずポロリと言葉がこぼれ落ちる。しまった、と気付いた時には、風音のこめかみがピクピク動き始めていた。

「この、バカ!」

「うわ、風音が怒った」

「怒りたくもなるよ! 死にたくなるくらい辛いことがあるんだったら、なんで私に相談してくれないの。私……そんなに頼りない?」

「ちょっ、風音?」

 風音の目からポロポロと涙がこぼれ落ちていく。何がなんだかわからない。慌てたのは私だった。

「なんで風音が泣くの」

「だって……悔しくて」

「はあ?」

「私、辛い時、奈々瀬ちゃん、支えてくれた、のに……うっ、うっ……。私、何も、返せて、ない……うぅっ」

「風音……」

 風音の純粋な気持ちが結晶となって流れ落ちていく。触れることすら躊躇うほどの美しさ。息をするのも忘れてしまうほどの、熱い感情。私は抗うことができず、無意識にその涙を人差し指で拭った。そして、それをそのまま口に運ぶ。

「な、奈々瀬ちゃんっ?」

「うん、風音の味がする」

「私の味?」

「うん、すごく優しい味」

 温かくて、なんだか思わず微笑んでしまいたくなるような、そんな優しさ。昔から変わらない、私の大好きな風音の心。そう思えるのは、風音が私のことで泣いてくれているとわかっているから。不謹慎にも、その事実は私の頬をほころばせた。私はゆっくりと身体を起こして、風音と同じ目線をとる。

「ごめんね、心配かけて。べつに風音が頼りないから相談しなかったわけじゃないよ。ただ、風音に対してのことだから、直接本人に言えなかっただけ」

「私、何か奈々瀬ちゃんの気に障るようなことした?」

「した」

「それは何? 教えて」

「……松岡と付き合い始めた」

 躊躇いながらも私がそう白状すると、風音は驚いたという風に目を見開いた。

「今までは、風音の一番は私だったのに。それを松岡に奪われて、すごく悔しかった。悲しかった。それで……すごく不安になった」

「不安?」

「一番じゃなくなった私から、いつか風音が離れていくんじゃないかって」

 言葉にしてはじめて、自分が何に怯えているのかがわかった。

 私は、風音の心が自分から離れていくのが嫌だったんだ。今まで私に向けられていた笑顔も、感情も、全部松岡に取られるような気がして。もう風音が私の方を振り向いてくれないんじゃないかって、それが怖かったんだ。私はこんなにも風音を必要としてるのに、って。

「一番じゃなくなってから、毎日がつまらなくなった。だから、そんな明日が続いていくんなら、もういいやって思って」

「奈々瀬ちゃん、私……」

「あーあ、なんでデートすっぽかしてこっち来ちゃうかなぁ? なんでそんな空気の読めないことすんの? そんなことされたらさ、諦めつかなくなるじゃん」

 私が倒れても、たとえ事故に遭って瀕死の状態だったとしても、松岡とのデートを風音が優先してくれたなら、もう完全に勝ち目がないと諦めがつくのに。それなのに、松岡じゃなく私を優先して見舞いにくるなんて。そんなことされたら、まだ私は一番になれるんじゃないかと期待してしまうじゃないか。それがどんなに残酷なことか、風音にはわからないんだろうか。

 しばし無言が続いた。途中、看護師さんが点滴の様子を見に来たけれど、私達の雰囲気を察したのか、何も言わずに立ち去ってしまった。

 どうしよう、この重たい空気。自分が引き起こしたとはいえ、こんなの長く耐えられない。

 実はドッキリでした、と言ってふざけてみようか。そんなことを考えていた時、やっと風音から口を開いた。

「奈々瀬ちゃんの中の一番って、総合優勝しかないの?」

「え?」

「私、誰かを順位付けて見たことなんてないよ」

「ウソ。だったら、松岡と私が瀕死の重傷を負ったとして、風音ならどっちのお見舞いに行く?」

「両方行く」

「物理的に無理でしょ」

「それでも、両方行く。どっちかを切り捨てるなんて考えはしない」

 迷いなく、風音はそう言い切った。まるで、それ以上の答えは、彼女の中に存在しないかのように。

「松岡君も大事だけど、奈々瀬ちゃんも大事。だって、奈々瀬ちゃんは私の一番大切な友達だから」

「一番、大切な……?」

「そう。気付いてた? 私がまた陸上やろうって思えたのは、奈々瀬ちゃんのおかげなんだよ」

「へっ、私? 松岡じゃなくて?」

「うん」

 間抜けな顔をして自分の顔を指している私を見て、風音が可笑しそうにクスクス笑った。

「奈々瀬ちゃん、私が陸上やめて辛い時、ずっとそばにいてくれたでしょ。陸上のことは何も聞かず、私が笑って過ごせるようにふざけたフリなんかもしてくれて。ただ普通に接してくれてた。あの時はそれがすごく嬉しくて、とても居心地良かったんだ。そんな奈々瀬ちゃんの気持ちに、私はずっと支えられてたんだよ」

「本当に、私は風音を支えてあげられてた?」

「もちろん。確かにまた走るきっかけをくれたのは松岡君かもしれないけど、最後の一歩を踏み出す勇気をくれたのは、奈々瀬ちゃんだよ。ずっと支えてくれてた奈々瀬ちゃんに、何か恩返しがしたくて。それは何かなって考えた時に、それはもう一度私が走ることかなって思った。もう大丈夫だよ、だから心配しないでって。そう奈々瀬ちゃんに伝えたかったの」

「風音……っ」

 ああ、どうしよう。嬉しくて泣きそう。ずっと、私は風音を支えてあげられなかったと思っていた。彼女の力になれなかったって。だから、風音は松岡を選んだんだと、ずっとそう思っていた。

 でも、そうじゃなかった。私の気持ちはちゃんと風音に届いていた。私は風音の笑顔を守ることができていた。

 私は、風音の一番大切な友達。その事実だけで、醜い嫉妬まみれだった私の心が、徐々に涙で洗い流されていく。風音の笑顔を見ていて、ふとそんな気がした。

「うわぁー、風音が泣かせたぁ」

「よしよし、お姉さんが慰めてあげよう」

「貧乳はやだー」

「なんでよ! ワガママ言うな」

 そう言って、風音は私を優しく抱きしめた。柔らかくて、温かい風音の身体。それがなんだか無性に安心できて、私は遠慮なく彼女の胸の中で泣いた。そんな私の頭を、風音は愛おしそうによしよしと撫でる。完全に前とは立場が逆転していた。でも、悪い気はしない。

「奈々瀬ちゃんがそんなに私のこと大好きだったなんて知らなかった」

「うん、好き。大好き」

「お、珍しく素直」

「風音、大好きだよ。だからね……」

 そこまで言って、涙を拭い終わった私は、油断している風音の左頬にキスをした。

「とりあえず、これで勘弁しといてあげる」

 そしてそのまま、親指で風音のつやつやした唇をそっとなぞる。

「本当は、ファーストキスを奪いたかったんだけどね。仕方ないから、この唇は松岡との時のために取っといてあげる」

 風音は、何が起こったのかわからないとでもいいたげに目を丸くして固まっている。そして、左頬に手を当てると、またしばらくぼけーっと私を見つめた。面白いので、試しにウインクしてみる。すると、やっと事態を飲み込めたのか、風音はカッとその顔を真っ赤に染めた。

「え……えぇっ?」

「唇を奪わなかった私の理性に感謝するがいい」

「な、奈々瀬ちゃんっ?」

「あー、なんか安心したらお腹空いてきた。風音ー、何か買ってきてよ。奢りで」

「やだよ! 自業自得なんだから、自分のお金で買いなさい」

「親友の一大事にお金を出してくれないなんて。ケーチ、ケチケチ大魔神」

「なにおうっ」

 そう言って、お互い睨めっこする。しかし、すぐさま可笑しくなって二人同時に吹き出した。こんなに楽しく笑ったのは久しぶりかもしれない。

 まだ胸の奥がチクチク痛むけど。完全に諦めがついたわけでもないけれど。でも、これで勘弁しといてあげよう。だって、私は風音の一番大切な友達。もうその事実だけで、今の私にはキス以上のご褒美だから。


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