先輩は私のことが好きすぎる(2)
「先輩、お風呂ありがとうございました」
私はタオルを首にかけたまま、先輩の部屋へ戻ってきた。机に座って作業していた先輩がその手を止める。
「湯加減とか、シャワーの操作とか、大丈夫でしたか?」
「ええ、問題なかったです」
「それは良かったのです。でも、貴子殿は私の後で本当に良かったのですか?」
「はい、もちろん。先輩には私がお風呂に入ってる間に、ある程度ペン入れを進めておいてほしかったので」
「なるほど」
この四ヶ月、先輩のお手伝いをしているとはいえ、素人の私にできることは限られている。だから効率良くいかないと。そう思っての提案だった。
先輩の机の上を覗く。ペン入れ中の原稿が一枚置いてあった。
「これ、もう少しで終わるので、座って待っていてください」
「わかりました」
先輩にそう言われ、机の真後ろに置いてある正方形の座卓へ移動する。そして、いつもの座布団へ座った。先輩の家でお手伝いをする時、私は大概ここで作業をしている。もうそこにはある程度必要な道具が揃っていた。
「漫画、漫画っと……」
手持ち無沙汰なので、いつもの癖で本棚へと視線を向ける。手が空いたらそこにある漫画を勝手に読んでもいいというルールだ。ざっと見て、新しい仲間が何冊か増えていた。
「できたのです!」
私が漫画に手を伸ばしたその時、先輩が原稿を手にこちらを振り返った。
「すみません、指定してあるトーン貼りをお願いします」
「はーい。了解です」
原稿には、所々鉛筆で番号が書いてある。私はその番号のトーンを探しに立ち上がった。トーン棚は先輩の机の隣だ。
「えーと、十五番はっと……」
「貴子殿、すみませんでした」
「え、何ですかいきなり」
先輩がなんの前触れもなく謝ってきたので、私は思わずトーンを探す手を止めた。先輩は申し訳なさそうな顔をしている。
「その、私の親が張り切りすぎてて面倒くさかったですよね。迷惑かけてごめんなさいなのです」
「ああ、そのことですか」
たぶん、先輩が謝っているのは主に夕食の時のことだろう。
ご両親と先輩と私とで夕食を囲んだ時、娘の友達をもてなすのが初めてだからか、箸が進まないくらいの質問攻めだった。母親とは手伝いに来ていた時に何度か会ったことがあったのでそうでもなかったけれど、父親とはお互い初めましてだったので会話もぎこちなかったかもしれない。たぶん、先輩は父親似だ。それにしても、夕食のメニューが、しゃぶしゃぶに舟盛りに鯛の尾頭付きにケーキとは、いくらなんでも張り切りすぎだろ。
「べつに迷惑だなんて思ってないですよ。ただ、お二人とも先輩のことが大好きなんだなということはよく伝わりました」
「それは……否定できないのです」
「先輩は一人っ子ですか?」
「いえ、歳の離れた兄が一人。今は結婚して県内ですが家をかまえてます」
「へー、意外。でも、今家に一人で長女なら離したくはないでしょうね、ご両親」
「そうですね。兄が家を出る時も父と母はすごく寂しがっていたので、私くらいはずっとそばにいてあげたいとは思っています」
「先輩は家族想いなんですね」
「はい、みんな大好きです」
迷いのない顔で先輩は笑う。こんな風に笑う先輩を見るのは初めてだったから、なんだかこっちまで微笑ましくなってしまった。
「はっ、いけない。手を止めてしまってすみませんでした」
「いえ、こちらこそ」
そうして自分達の持ち場へ戻る。そこからしばらくはお互い無言だった。静かな部屋に、ペンのカリカリという音と、カッターのシャっという鋭い音が響く。
実はこの時間、そんなに嫌いではない。何も考えず、ただ無心に原稿に向かう。すると、現実世界の嫌なこと良かったこと、それらすべてのしがらみを捨てた私という個人だけが残される。そんな自分に出会えるこの空間は、意外にも私には心地良かった。
そうして時間が過ぎ、一枚、また一枚と原稿は完成していく。
「先輩、指定されたこのキャラのベタなんですけど……」
この部屋以外の家の中がシンと静まり返った深夜、わからない所があったので先輩に声をかける。しかし、一向に返事が返ってこない。
「先輩?」
まさかと思いそばまで行く。しかし、先輩は寝ていなかった。それどころか、一枚の原稿と真剣な顔で睨めっこしている。そう、先輩は集中しているのだ。
手伝いをしていて何度も見たことがあるこの光景。まるで魂が現実世界から離れ、物語の世界を彷徨っているかのような、鬼気迫る表情とただならぬ雰囲気。普段の先輩からはまるで想像ができない、先輩の別の顔。これが漫画家としての遠野凪。私の集中力とはわけが違う。いつもこの姿を目の当たりにすると、全身に鳥肌が立って動けなくなる。
「ふう、終わった」
先輩のこの一言で空気が一変、いつもの空気が辺りを漂い始める。
「貴子殿、どうしました?」
「あ、すみません。ここなんですけど……」
こんな先輩を見ていると、たまにわけもわからず不安になる。私には無い何かを先輩は持っている。それがわからなくてそう思うのかもしれないと、仮説の一つを立ててはいるけれど。それが何なのかはいまだわからない。
時間はどんどん過ぎ、その間も先輩と私は作業を続ける。最初に力尽きたのは私だった。
「ん……」
ゆっくり目を開けると、眩しい朝日が目に刺さってきて、私は顔をしかめた。座卓に突っ伏していた顔を上げる。その時毛布がスルリと身体から落ちた。それをボーッと眺めていたら、やっと私の脳みそは覚醒した。
「わっ、すみません! 私寝てましたっ」
「いいのですよ。無理は禁物です。休める時に休んでください」
「すみません……」
先輩はこちらを振り返ることもせず、原稿と睨めっこしながら手を動かしている。その背中は、徹夜には慣れてますと言いたげだった。
もしかして、締め切り間近になると先輩はいつもこうなんだろうか。私は泊まってまで作業を手伝うのはこれが初めてだからよくわからないけれど、改めて考えてみると、目の下にクマができている先輩を見るのは今回が初めてではなかった。私は締め切りを守れと脅すことしかしていないのに。
「原稿……」
情けなさが起きたての身にしみる。でも、今は落ち込んでいる場合じゃない。とりあえず原稿を完成させないと。幸いにも、原稿にヨダレは垂れていなかった。
今回は異例としても、毎回毎回こんな大変な思いまでして漫画描いて。先輩は辛くないんだろうか。なんで続けられるんだろうか。
『できた……っ』
黙々と作業を続けて何十時間。ついに、最後の一枚が完成した。
「やっと終わりましたね。しかも、まだ朝の七時過ぎです。英梨さんとの約束の時間は十時でしたよね?」
「は、はいっ」
二人して完成した十枚の原稿をマジマジと見つめる。完成した原稿を見るのは初めてではなかったけれど、こうして自分が最後まで関わってできたモノを見るのは今日が初めてだった。寝不足と疲れもあってか、なんだか感動して泣きそうだ。
「んー……」
一枚一枚最終確認をしていた先輩の手がふと止まる。それは一番最後のページ、主人公と相手役の子とのキスシーンのところだった。
「どうしたんですか?」
「いや、このシーンなんですが。この二人の性格からして、告白してすぐキスするかなって」
「あー、まあそう言われたらそうかもしれないですけど。でも、そこまで違和感ないですし、キスした方が読者は喜ぶんじゃないですか?」
「キスさせておけば喜ぶだろうという安易な考えは危険なのです。読者はそんなに甘くないのです。そのキャラの心情と言動が一致していなければ、ただ違和感として残るだけなのです」
「悪かったですね、安易な人間で」
先輩の言葉にカチンときてつい口調がきつくなる。でも、すぐにそれは間違いだったと反省した。先輩の横顔は真剣で、嫌味などという軽率なことを口にするような思考は、今の先輩の中には存在していない。あるのは、この漫画をどうすればもっと面白くできるかという、その一点のみ。
先輩はしばらく原稿と無言で話し合う。そして、とんでもない決断を下した。
「描き直しましょう」
「え?」
「このページだけ、描き直しましょう」
「先輩正気ですかっ?」
「はい」
「ちょっと待ってください! 今から描き直したら間に合いませんよ」
「間に合わせます」
即答だった。その顔には迷いがない。すぐさま真っ白な原稿に手を伸ばそうとしていた先輩の手を、私は思わず掴んで止めた。
「どうして……どうしてそこまでするんですか。このままでも十分面白いでしょ。締め切り過ぎてまで直す必要あるんですか?」
なんだろう。手に冷や汗が滲んでいる。べつにお手伝いの分際である私が止める筋合いはないのに。それでも、私の背後にいる黒い影が不安をかき立てた。
先輩は怒ることはせず、静かに私の手を離す。そして、純粋な瞳を私に向けた。
「必要はあります。私が納得していないからです。そんな作品を出すのは、読者の皆様に対して失礼なのです」
「そんなに読者は大事ですか?」
「はい、私には」
そこまで言って、先輩は原稿をそっと撫でた。
「漫画家になる前の私は、生きる意味がまるでわかりませんでした。友達もいない、漫画もどこの出版社に持ち込んでも拾ってもらえない。誰にも必要とされていない私は、生きている意味がないのではと思っていました」
「…………」
「そんな時英梨さんに拾ってもらって、賞を取って漫画家になれて連載が始まって。初めてのファンレターを受け取った時、私は嬉しくて泣いてしまいました。ああ、私は少なくともこの一人には必要とされていると」
「必要と……」
「そうです。それ以降、私はずっと読者の皆様に生かされている。その感謝の気持ちを伝える手段は、自分の納得のいく最高の作品を作ることだと、私は思っているのです。だから私は描き直します」
言葉が出てこなかった。初めて先輩を怖いと思ったから。
漫画にかける情熱と、読者に対する誠意。そして、漫画家としての重責とプライド。先輩はそれらすべてを背負って毎回漫画を描いている。私と一つしか違わない、この小さな先輩が。
「……わかりました」
そういうのが精一杯だった。私は力なく自席へと戻る。
背後にいる黒い影の正体。それが今やっとわかった気がする。
それは、焦燥感。今まで近くに感じていた先輩の存在が、今はどこか遠くに感じる。私がどれだけ手を伸ばしても届かない、はるか先を先輩は走っているんだと。そう思ったら急に怖くなった。
お手伝いなんて笑わせる。私は何もできていないじゃないか。先輩と肩を並べるどころか、その姿すら捉えることができていない。そんな私が、先輩のそばにいていいのだろうか。
ふと呼ばれたような気がして、漫画が置いてある本棚を見る。手にしたのは、私と美紀の話をネタにした短編が載っている単行本だった。思わず開くと、その時の思い出がふわりと蘇る。慣れてない私のベタ塗り、トーン貼り。下書きの線消しでさえ、今でもありありと思い出せる。あの頃は何も考えずにできていたのに。
「え……」
気付けば、私は泣いていた。なんでだろう、今ものすごく悲しい。べつに先輩とケンカしたわけでも、必要ないと言われたわけでもないのに。それでも、この感覚に似た感情を私はよく知っていた。
ああ、そうか。私は先輩のことが好きなんだ。だから、それまで近いと思っていた先輩を遠くに感じて怖がっている。不安に感じている。先輩がこのまま私のそばを離れていくんじゃないかと。親友の美紀の時のように。
「こんなタイミングで……」
先輩は私の涙に気付かない。ただ机に座り、一心不乱に原稿に鉛筆を走らせている。今の私には、この時間が永遠に続いてしまうのではないかと思われた。
「できたのです……っ」
先輩が歓喜の声を上げて原稿を持ち上げる。時計を見れば十時ちょっと前。今までの最短記録更新だ。英梨さんから少し遅れると先輩のスマホに連絡があったみたいだから、もう少しすればここに原稿を取りに来るだろう。
「貴子殿、完成したのです……わわっ」
「先輩!」
椅子から立ち上がると、二歩目で先輩は足をもつれさせてバランスを崩す。私は反射的に先輩を捕まえた。そのまま二人床に尻もちをつく。
「大丈夫ですか?」
「すみません、さすがにちょっと疲れたみたいなのです」
「無茶しすぎですよ」
「えへへっ、そうですね」
そう力なく笑うと、先輩は一度姿勢を正した。
「貴子殿、ありがとうございました」
「え?」
「今回だけでなく、いつも漫画のお手伝いをしてくださってありがとうございますなのです」
屈託のない顔で先輩はお礼を言う。それが今の私には耐えられなかった。
「お礼なんて言われるようなことしてません。私、全然先輩の力になってない」
「へ? そんなことないのですよ」
「いいですよ、そんな慰めいりません」
「いや、慰めなどではなく、事実なのです。今回私が無茶できたのは、貴子殿がそばにいてくれたからなのですよ」
「え?」
「今回だけじゃなく、いつも貴子殿がそばにいてくれるから、私は漫画を描くことができているのです。何故だかわかりますか?」
私は首を横に振る。先輩はクスリと笑った。
「貴子殿に出会うまでの私は、漫画を描くのが怖かったのです。もちろん、好きで始めたことですから楽しいという気持ちもありましたが。締め切りに追われたり、面白いモノを提供するという重圧に、いつも押しつぶされそうだったのです」
「そうだったんですか」
「はい。でも、貴子殿が一緒に漫画制作を手伝ってくれるようになってから、心が軽くなりました。貴子殿がいれば間に合う、絶対面白いモノが描ける。だって、一緒に戦っているんだからと」
「一緒に戦って……?」
「そうなのです。だから、今は漫画を描くのがすごく楽しいのです。こう思えるようになったのは、全部貴子殿のおかげなのです。感謝してもしきれません。だから、せめてお礼を言わせてください。ありがとうございます」
先輩は嬉しそうに微笑む。私は胸が苦しくなって、思わずそれを吐き出した。
「本当に……本当に私は先輩の役に立ってますか? そばにいるだけでも、ちゃんと先輩の力になれてますか?」
そうであってほしいと心から思った。もしそうなら、押しつぶされそうなこの不安から少しでも抜け出せそうだから。
すがるような私の表情に何かを感じ取ったのだろう。先輩は驚いたという風に目を見開いた後、泣きそうな子どもを安心させるように優しく私を抱きしめた。
「はい。貴子殿は、いつも私の力になってくれています。役に立ってくれています。貴子殿がいなければ、今の私は存在していません。それくらい、私は貴子殿が大好きなのですよ」
その言葉を聞いて、胸の奥がぐっと熱くなった。この人を離したくない。ずっと私のそばに置いておきたい。この人にもっと必要とされたい。もっと私を好きになってほしい。
「あの、先輩!」
反射的に出てきた想いを伝えようと先輩の両肩を掴む。しかし、開きかけた口は途中で止まってしまった。
「先輩?」
先輩は目を閉じて、スースーと気持ち良さそうに寝息を立てている。肩を揺らしても全然起きる気配がない。完全爆睡だった。
「ウソぉ……」
なんてタイミングの悪い人なんだろう。でも、せっかく徹夜してずっと気を張ってて、原稿が完成してやっと安心できたんだ。それなら、もうちょっとこのまま寝かせてあげよう。それに、先輩の寝顔可愛いし。
「キスしても起きなさそうだなー」
「貴子殿……」
「はひっ」
びっくりしすぎて、心臓が飛び出すんじゃないかと思った。恐る恐る先輩を覗くと、その目は閉じたままだ。どうやら寝言らしい。
「貴子殿……好き……むにゃ」
「……先輩ズルい」
私は頭を抱えて苦笑した。この人、どんだけ私のことが好きなんだ。いや、もっと好きになってほしいと思う自分もどうかしているけれど。もしかしたら、私が先輩のことを好きになったのは、先輩の粘り勝ちだったりして。この四ヶ月の素直な気持ち攻撃の。
「まあ、それだけじゃないけどね」
先輩の漫画に対する姿勢とか、落ち込んでる私を心配してくれる優しさとか、たぶん色んな要素が関係しているんじゃないかと自己分析はしている。でも、人を好きになるなんてきっと理屈じゃない。ただ好き。それだけで十分だと思う。
「不思議。少し前まで美紀のことで頭がいっぱいだったのに」
まさか、たった四ヶ月で他の誰かを好きになるなんて思わなかった。たとえ美紀に好きな人ができたとしても、私はずっと彼女を想い続けてしまう。そんな風に思っていたのに。
ただ、先輩との関係は美紀の時とは違って、お互いが強く必要とし合ってるのが、正直心地良くてちょっぴり誇らしい。今まで誰かにそこまで強く必要とされたことがなかったから。
先輩は私の膝枕で気持ち良さそうに眠っている。私はそんな先輩の頭を優しく撫でた。
やっぱり、告白はまだ先にしよう。私の中で、美紀への気持ちが完全になくなるまで。それが先輩への誠意だと思うから。
「ちゃんと待っててくださいね」
たぶん、先輩なら待っててくれるだろう。それまでに、私は色々考えなければならない。
「先輩の力になる方法……」
今までのようなお手伝いだけではダメだ。全然先輩に追いつけない。もっと確実に、他の誰よりも必要とされて、肩を並べて歩いていけるような、そんな存在になるためにはどうしたらいい?
そんなことを考えていると、突然机の上に置いてある先輩のスマホが鳴動した。もしかしたら、英梨さんからかもしれない。もうちょっと遅れるとか。
スマホの隣に置いてある、茶封筒に入った原稿を見る。そこで私はハッと気付いた。そうだ、この手があるじゃないか。
「決めた、私の進む道」
英梨さんが来たら、連絡先を教えてもらおう。そしていつか、ちゃんと先輩にも聞いてもらうんだ。今完成したばかりの、この私の将来の夢を。




