そして、いつかきっと(2)
「どういうことか説明してください」
私の部屋の定位置の座布団に座り、腕組みをした貴子殿は私にそう言った。その声と表情は怒っている。
「いえ、それは、その……」
ゴニョゴニョと口を濁す私に、貴子殿のこめかみがピクピク反応する。そして、ついに彼女は目の前の座卓を思いきり叩いた。私は思わず「ひっ」と悲鳴を上げる。
「いいですか? あのたくさんの生徒が行き交う中、私はギャン泣きする先輩に、わけもわからず抱きつかれたんですよ。あの時の恥ずかしさと周りの視線の痛さ、先輩にわかりますかっ?」
「それは……申し訳ないのです」
「声が小さい!」
「ごめんなさいなのです!」
あの時の場面を想像してみて、もし自分が逆の立場だったら、私は恥ずかしさから貴子殿を突き飛ばして逃げていたかもしれない。そう考えると、私が落ち着くまでそのままでいてくれたばかりか、ボロ雑巾のような私と一緒に電車に乗って家まで送ってくれた貴子殿は、本当に人間が良くできていると思う。まあ、帰りの道中、私が離れまいとずっと貴子殿の腕にしがみついていたから、逃げようにも逃げられなかっただけかもしれないけれど。
肩を強張らせ恐縮する私を見て、貴子殿は深いため息をついた。
「それで。なんで泣いてたんですか? 英梨さんに何か言われました?」
「何か言われたかと聞かれれば言われたのですが。だからといって、英梨さんが悪いというわけではなく」
「なんなんですか、そのまどろっこしい言い方。言いたくないなら無理にとは言いませんが、悩んで泣くくらいなら話してみてください」
貴子殿は腕組みを解いて、打って変わって優しい声でそう言う。そういう前と変わらない貴子殿の優しさに、私は場違いにもホッと安堵してしまった。
「ごめんなさい」
「いや、今謝るところじゃないですから」
「違うのです。そうじゃなくて。夜の旧校舎で初めて貴子殿と言葉を交わしたあの日、私は振られた貴子殿にこう言いました。世界には何十億という人がいるのに、その中のたった一人に想いが届かなかったくらいで死ぬのはバカらしいと」
「ああ、確かそんなこと言ってましたね」
「でも、今回貴子殿とケンカして英梨さんに同じようなことを言われた時、そうじゃないって思ったのです。たとえ世界中に人間が何人存在していようとも、私が一緒にいたいと思うのは、そばにいてほしいと思うのは貴子殿だけだと。私にとって、貴子殿の代わりは他に誰もいないのだと。それくらい、私は貴子殿のことが好きなのです」
「先輩、それって……」
「きっと、あの時の貴子殿も美紀さんに対してそう思っていたはずなのに。私は何も考えず不謹慎なことを言いました。なので、ごめんなさい」
あの時は咄嗟のことで、深く考えず思ったことを口にした。でも、貴子殿からしてみたら、何を言ってるんだと頭にくる内容だったかもしれない。それでも、何も言わずに私の相手をしてくれた貴子殿は、本当に優しい人だと思う。
私の懺悔に、しかし貴子殿は困惑した表情を見せた。
「あのー、先輩? 今さらりと流しましたけど。私のこと、その……好きって言いました?」
「へ?」
「そのくらい、私は貴子殿のことが好きだって」
貴子殿にそう指摘され、私は先ほどの会話を頭の中で巻き戻してみた。だいたい、ごめんなさい、の辺りから。そうして場面を進めていってやっと気付く。あ、確かにそんなことを言っているぞ、私。
「えぇっ? そんな、わわわ私は貴子殿のことが、すすす好きなのですかっ?」
「いや、私に聞かれても……」
貴子殿は頬を赤らめて困ったという風に眉根を寄せる。
盲点だった。今までの貴子殿に対する感情を総合すれば、百合漫画によくあるイコール好きに繋がるじゃないか。それなのに、何故今まで気付かなかった自分。
「まあ、早い段階で先輩の気持ちには気付いてましたけど。まさか無自覚だったとは」
そう言って、突然現れた貴子殿に対する感情に混乱する私を眺めつつ、貴子殿は静かに姿勢を正した。
「でも、ごめんなさい」
「え?」
「今はそういうの考えられないので。保留にさせてください」
「そう、ですか……」
貴子殿への気持ちに気付いた瞬間ごめんなさいとは。まるでジェットコースターに乗っている気分だ。気持ちがしおしおと沈んでいく。しかし、ふとあることが引っかかった。
「ん? 保留?」
保留ってなんだ。どういう意味? その言葉に眉根を寄せる私を見て、貴子殿が仕方ないと説明をしてくれた。
「ほら、私今受験生じゃないですか。だから、誰かと付き合ったりしてる時間も余裕もないですし」
「なるほど」
「それに。今はもう美紀に対して恋愛感情は抱いてないんですけど。それでも、まだやっぱりどこかに未練が残ってるんです」
「それは仕方ないのです」
私なんかより遥かに長く美紀さんのことを想っていたのだ。その気持ちが簡単に消えるとは思えない。頷く私を見て、貴子殿はふっと笑った。
「だから、卒業を一つの区切りにしようかと思って。美紀は県内の大学志望なので、私達は初めて離れ離れになる。それを機に、美紀への気持ちにも完全に決着つけようと思ってるんです」
「すごい……貴子殿は勇者なのです」
「そんなことないですよ。むしろヘタレすぎて時間かかってるだけです」
そこまで言って、貴子殿は私の目を真っ直ぐ捉えた。
「だから先輩、その告白の返事は、私の卒業まで待っててもらえませんか?」
「だから保留?」
貴子殿は真面目な顔で頷く。いや、緊張しているのかもしれない。何を言われるだろうかと。そんな顔しなくても、私の答えはもう決まっているのに。
「もちろん、待つのです。貴子殿の気持ちがきちんと整理されて、返事をしてもいいと、そう思えるようになる日まで。私はいくらでも待つのです」
貴子殿は、きっと約束を守ってくれる。だから、私はそれを信じて待てばいい。たとえその間にまた悩んでも、今日みたいに泣くことがあっても。だって、それでも私は貴子殿のことが好きだから。
「ありがとうございます」
そのホッとした貴子殿の表情が、なんだか可愛く見える。これも恋の魔法のせいだろうか。
「貴子殿は大人ですね。それに比べて私は、離れたくないだのと泣き喚いて、貴子殿に迷惑までかけて。本当に情けない」
「まさかとは思いますけど、今日先輩が泣いてた理由って、私と離れたくなかったからですか?」
「ぎくっ」
しまった。図星を突かれてつい反応してしまった。もうそれが答えになっている。恐る恐る貴子殿を見ると、遠慮なく両手で頭を抱えていた。
「あ、あのぉ、貴子殿?」
「あーもう! なんなんですか先輩はっ」
「へ?」
「前から思ってましたけど、先輩は私のことが好きすぎるんです!」
「え……えぇっ?」
「しかも照れることなく、会えて嬉しい、とか、離れたくない、とか素直な気持ちをストレートに言ってきて。その度になんで私の方が照れなきゃいけないんですか! おかしいでしょっ?」
「は、はいっ! って、え? え?」
何故こんなに貴子殿が怒っているのか、私にはいまいちよくわからない。それでも、今の雰囲気でこれを言ったら絶対怒られるだろうけれど、顔を耳まで真っ赤にした貴子殿は、ちょっと可愛いなと思った。
「貴子殿は私のことが嫌いなのですか?」
「そんなわけないでしょ! もしそうなら、あんな辱めを受けた相手を家まで送ったりはしません」
「なるほど。なら良かったのです」
「よくなーい!」
ああ、もうどうしたら貴子殿の機嫌が直るのだろう。こんなに乱れている貴子殿は初めて見るので、対処法がよくわからない。
「なんだかよくわからないのですが。貴子殿を混乱させてしまってごめんなさい。そんなに嫌なら、この性格を改善するのです。貴子殿への好意も抑えるのです。だからどうか、嫌いにならないでください」
とりあえず、私には今思っていることを包み隠さず言うことしかできない。またケンカしてすれ違うのはもう嫌だから、そうならない方法があるのなら全力で取り組みたい。これは本心だった。
私があまりにも真剣に言うものだから、貴子殿は寸の間その動きを止めた。徐々に彼女の瞳に冷静さが戻っていく。
「……べつに改善しなくていいです。ありのままの先輩でいてください。先輩の素直な気持ち、正直嬉しいですから。ただちょっと恥ずかしいだけで。それに、そんなことで嫌いになったりしませんよ」
「そうなのですか?」
「そうなんです。それに、私への好意も抑えなくてけっこうです。……ぶっちゃけ、その方が安心しますから」
「安心?」
最後の方の言葉は思わず聞き漏らしてしまいそうなほど小さかった。私の追尾を振り切るように、貴子殿がわざとらしく咳払いをする。
「とにかく。先輩は今まで通りでオッケーです。わかりましたか?」
「はい、わかりました」
よくわからないけれど、貴子殿が私のことを嫌いじゃないみたいで良かった。
「あれ? 嫌いじゃないなら、どうして他県の大学を受験するのですか?」
「だーかーらー、先輩のことが嫌いになったからここを離れるんじゃないんですってば」
不思議そうな顔をする私に、貴子殿は深いため息をついた。
「私が受験する大学、英梨さんの母校なんです」
「なんと。もしや、貴子殿は英梨さんのことが好きなのですか?」
「違います。どちらかというと苦手です」
貴子殿は、間髪入れずに無感情にバッサリと言い切った。前からなんとなく感じていたけれど、やはりあまりよく思っていなかったらしい。
「そういうことじゃなくて。そこの大学の卒業生、けっこう出版社に勤めてる人が多いみたいなんです。だから私も受けようかと思って」
「出版社? なんで貴子殿が……」
そこまで言って、私はあることに気付いた。貴子殿もそれを感じ取ったらしく、言葉の続きを引き継ぐ。
「私、出版社の編集者になりたいんです。それで、先輩と一緒に漫画を作りたい。これが私の今の夢です」
はっきりと、力強い声だった。私を見る瞳は、迷いがなく透き通っている。思わず心が震えた。
「確かに、今みたいに制作のお手伝いしててもいいんでしょうけど。でも、正直私絵が得意じゃないし、そういうのは絵の上手なアシスタントさんがやった方が先輩の負担にもならないと思うんです。だったら、私は別の方法で先輩のお手伝いをしようかと」
「それが担当編集者?」
「そうです。先輩と一緒に面白い漫画作って、それをもっと色んな人に読んでもらえるようにお手伝いしたい。そんな風に私は先輩を支えたいんです」
「貴子殿……」
なんと大バカ者なんだろう、私は。自分で勝手に誤解して、貴子殿を困らせて。私は自分のことしか考えていなかった。それなのに、貴子殿は私のことまで考えて将来を決めていたなんて。
「どうしましょう、貴子殿。身に余る光栄なのです。嬉しすぎて泣きそうなのです。でも……その反面怖いのです」
「怖い?」
「私は、貴子殿にそこまで思ってもらえるような人間ではないのです。そんな貴子殿の将来に関わってしまって、責任重大すぎて怖いのです」
もし、私が貴子殿の期待に応えられなかった時、彼女がついに愛想をつかして私から離れていくのではないか。それが怖い。
「重いですか? 私のこの夢」
「そうじゃないのです。ただ、自分に自信がないのです。そんな自分が情けない」
どうして二つ返事で、一緒に頑張ろう、と言えないのだろう。こんな自分が本当に嫌になる。こんな自分では、貴子殿の夢を実現させる資格がない。
貴子殿の目を見るのが怖くて下を向く。すると、突然貴子殿が立ち上がった。そして私のすぐ隣へ座る。
「美紀から電話で付き合うことを聞かされたあの日、本当に死んでもいいと思ったんです。彼女が私に振り向いてくれない世界なら、いない方が楽だって」
「貴子殿……」
「でも、そんな時先輩に泣いてもいいって言われて、自分でも驚くほど心が軽くなったんです。その後も先輩は私のそばにいてくれて、美紀のこととか何も聞かず普通に接してくれて。先輩の存在のおかげで、その優しさのおかげで、私はどれだけ救われたことか」
「そうなのですか?」
「そうなんです。私が今美紀と普通に笑い合えているのは、全部先輩のおかげなんです。だから、ありがとうございます」
「そんな、私はそんな大それた人間ではないのです」
「大それた人間なんですよ、先輩は。恥ずかしくて言ったことないですけど、先輩の漫画制作に対する姿勢、実は尊敬してるんです。ギリギリまで読者のことを第一に考えて描けるなんて、本当にすごいなって」
「ひゃっ」
恥ずかしくて思わず変な声が出た。だって、人にここまで褒められたことなんて一度もなかったから。
「そんな先輩とだから、私は一緒に漫画を作りたいって思ったんです。だからお願いします。どうかこの私の夢を、一緒に追いかけてください」
そう言って、貴子殿は深々と頭を下げた。
一緒に夢を追いかける。それはまるで魔法の言葉みたいだった。どちらがどう、とかではなく、二人一緒に同じ方向に向かって進む。言っている内容は同じはずなのに、貴子殿のその言葉はストレートに私の胸に入ってきた。
「どうしましょう、貴子殿」
「何がです?」
「今の貴子殿の言葉を聞いてから、ワクワクが止まらないのです。あんなにネガティブだったのに、今は貴子殿と一緒に漫画を作るのが楽しみで楽しみでしょうがないのです」
今までは、自分のために漫画を描いてきた。もちろん、読者のことも考えてはいるけれど、漫画を描くのは好きだったし、なにより社会に出て普通に働ける自信がなかったから、在宅で仕事のできる漫画家を選んだ。そんな感じだから、目標とかも何もなかった。
でも。今やっと目標ができた。貴子殿と一緒に漫画を作るという、とても素敵な目標が。
「貴子殿は編集者を目指して、そして私は貴子殿が担当になるまで漫画家でい続けるために、お互い切磋琢磨して目標を達成させる。なんだか、二人の強い絆を感じるのです。今までより描くのが楽しくなりそうなのです」
「先輩、目が輝いてますね」
「はい!」
「じゃあ、一緒に追いかけてくれますか?」
「もちろんなのです!」
私が拳を握りしめて頷くと、貴子殿はふっと笑った。
「先輩って、意外とポジティブなんですね」
「えぇっ?」
「まあでも、その夢も私が無事大学に行けたらの話ですけど」
「貴子殿なら大丈夫なのです。私が保証するのです」
「その根拠は?」
「こんなネガティブな私を、面倒くさがりながらも見捨てずに付き合ってくれる根気とガッツがあるからなのです」
「ぶっ、なんなんですかその理由」
貴子殿は可笑しそうにクスクス笑った。けっこう本気で言ったつもりだったけれど、まあ貴子殿の笑顔が見れたのでよしとする。
「じゃあ、私も先輩に負けないように頑張らないと」
そう言って立ち上がろうとした貴子殿の袖口を、私は無意識に摘んだ。
「先輩?」
「あ、いや、これはその……なんだか急に寂しくなって」
「寂しい?」
「せっかく二人の目標ができたのに、貴子殿が大学へ行ったら離れ離れになるんだなと思ったらつい」
ああ、自分のバカ。貴子殿と一緒に頑張ると決めたばかりなのに。もうネガティブになってどうする。これじゃあ、貴子殿が安心して大学に行けないじゃないか。
貴子殿は呆れただろうか。そう思い恐る恐る視線を移す。すると、貴子殿は何か言いにくそうに目を逸らし、頬をポリポリと掻いていた。
「あのー、そのことなんですけど……」
「やはり、私のお手伝いをやめますか?」
「いえ、そうじゃなくて。……先輩、私と一緒に暮らしませんか?」
「へ?」
「私とルームシェアする気ありません? もちろん大学の近くで。そしたら離れ離れになることもないですし、家賃も安くすみますし、私は今まで通り先輩の漫画制作のお手伝いができますし。一石二鳥だと思うんですけど」
「ルームシェア……」
「もちろん、先輩が家族想いなことも知ってますし、実家の方が家事とかしなくていい分漫画制作に集中できるとは思うんですけど」
それでも来ないか、と貴子殿は無言で訴えている。勇気を出して提案してくれたことは、その表情と赤く染まった両頬でよく伝わった。
貴子殿と一緒に暮らす。ルームシェアという形で。離れることなく、毎日貴子殿と顔を合わすことができる。話をすることができる。その存在を確認することができる。ずっと一緒に。
「……すごいです」
「え?」
「すごいのです! 貴子殿は天才なのです!」
「は、天才?」
「なんで今まで気付かなかったんでしょう。貴子殿が離れていくのなら、私が追いかければいいだけのことなのに」
盲点だった。自分がこの家から離れることなんて、微塵も考えたことがなかったから。でも、私の職業はペンと紙さえあれば場所を選ばない。そう、高校を卒業し漫画家という職を手に入れた私は、どこへでも飛んでいける。それくらい自由なのだ。貴子殿はそれを気付かせてくれた。
「えーと、それでどうします?」
貴子殿が困ったような表情で聞いてくる。確かに、ちゃんとした答えはまだ言っていない。
私は貴子殿の方へ座り直した。
「確かに家族は大事です。でも、それよりも貴子殿と離れ離れになることの方が辛いのです。だから、私は貴子殿について行きます。ずっとそばにいます。それが私の幸せなのです」
そう言って、私は貴子殿の手を握った。
この手があれば、私は大丈夫。離さないようにちゃんと握っておこう。もし離れそうになったら、そうならないようにちゃんと話し合おう。今日のこの時みたいに。それで、ずっと一緒にいよう。この大好きな人と。
「本当先輩って卑怯ですよね」
ボソリとそう呟くと、貴子殿は空いている片手で顔を覆った。
「やっぱその性格変えてもらおうかな。でないと、私の理性が……」
「理性?」
最後の方の言葉はよく聞き取れなかった。何を言おうとしたのか聞こうと口を開く前に、貴子殿が慌てて誤魔化しにかかった。
「な、なんでもないですっ。それより、後編のネームはできたんですか? 今日英梨さんと打ち合わせしてきたんですよね?」
「ぎくっ」
私のその反応で、二人の動きが同時に止まる。先ほどまでの暖かい空気が一変、クーラー以上の冷気が部屋に吹き下す。
「まさか、できてないなんてことはないですよね? 先輩、締め切りがいつかわかってます?」
「も、もちろんわかっているのです。だから、大丈夫なのです」
「じゃあ、ネームノート見せてください」
「それは、その……ああ、そうそう! 喫茶店に置き忘れてきてしまって……」
「ウソですね。命の次に大事にしてるネームノートを、先輩がそんな簡単に置き忘れてくるはずがありませんから」
恐ろしい。ウソが完全にバレている。蛇に睨まれたカエルの気持ちは、こんな感じなんだろうか。貴子殿の顔からどんどん熱が冷めていく。
「さあ、ノート出してください」
これはもうダメだ。ここでノートを出さなかったら、私はきっと殺される。そんな殺気が貴子殿に漂っていた。
恐怖に耐えかねて、私は真っ白なネームノートを貴子殿に渡した。ノートを握りしめる貴子殿の力が徐々に強くなる。
「前に、私無しでも締め切り守れたって褒めてあげたばかりなのに……っ」
「いや、今回は貴子殿とケンカしていて、それどころじゃなかったといいますか……」
「言い訳無用!」
バシンっ、と貴子殿はネームノートを座卓に叩きつけた。その音の激しさに、私は思わず「ひっ」と肩をすくませる。
「今日、私泊まります。そんで、私も一緒にネーム考えます」
「え? いや、しかし貴子殿、受験勉強は?」
「受験勉強に息抜きは必要です。一日くらい問題ないです。それよりも先輩の方がヤバイって早く自覚してください」
「も、申し訳ないのです……っ」
英梨さんが言っていた。貴子殿と友達になってから、私は締め切りを踏み倒さなくなったと。それは英梨さんよりも激しい、貴子殿のこの追い込みのおかげだと思う。たぶん、いやきっと、貴子殿は優秀な編集者になれるだろう。
「じゃあ、私は一旦帰って荷物取ってきますから。あ、逃げないでくださいね」
「はい……」
そう釘を刺し、貴子殿は部屋のドアまで行く。しかし、部屋を出る前に一度こちらを振り返った。
「それと……ルームシェアの件、同意してくれてありがとうございます」
そうポツリとこぼすと、貴子殿はそそくさと部屋を出て行った。その照れたような顔が、キュッと私の胸を締め付ける。
「貴子殿は可愛いのです」
あれが私の好きな人。真面目で怒ると怖いけれど。照れ屋で、面倒見が良くて、そして優しい、私の大好きな人。
「はっ! すごい……今ネームを思いついたのですっ」
行き詰まっていた後編のネーム。離れ離れになる先輩と後輩の今後。それまでバッドエンドしか考えられなかったけれど、今思いついたのはその逆。さっそく戻ってきた貴子殿に話してみよう。
「貴子殿は何て言うでしょう。楽しみなのです」
きっと貴子殿は律儀な人だから、卒業して気持ちの整理がついたら、必ず告白の返事をくれるだろう。
そして、いつかきっと私達二人は同じ屋根の下、仲良く引っ越し蕎麦を食べるのだ。




