魔法使いのスランプ
「はーい、もうすぐ七夕なので願い事書いてー」
部活終わり、部室の中で背丈より少し高めの笹を片手に、私は入ってきた二人にそう声をかけた。その隣には両腕のあちこちに絆創膏を貼った有希が立っている。二人ともキャプテンである私を見た後、有希に視線を移し、そして険しい顔を向けた。
「キャプテン、今度は何したんですか?」
「何って?」
「有希先輩を何に巻き込んだんですか?」
入ってきたのは、一年生の瀬里奈と秋穂だった。彼女達は我がソフトテニス部のエースで、先輩であろうがズバズバ意見を言う怖いもの知らず。だが、私はその二人のたくましさを買っていた。
「何も巻き込んでないし。ただ、七夕用の笹を取りに一緒に山に入っただけだけど?」
平然とそう答えると、二人の顔が一層険しくなった。
「それを巻き込むってゆーんですよ。行きたいなら一人で行けばいいじゃないですか」
「だって、有希に行くって聞いたら、行くって答えたから一緒に行っただけじゃん。何が悪いの?」
「有希先輩は優しいから断れなかっただけです。そこら辺空気読んであげてくださいよ」
「そうなの?」
有希に視線を向ける。すると、彼女は首を横に振った。
「大丈夫、私が行きたくて一緒に行っただけだから」
「ほら。本人もそう言ってるし。何も問題ないじゃない」
しかし、二人の眉間のシワは取れない。私はそれを無視して、有希に折り紙で作った短冊を配るよう目で合図した。
「はい、じゃあ今から短冊配るから、願い事書いて。書き終わったらこの笹にくくりつけてねー。あんたらが最後だから」
『えー』
「書かなかったら、外周十周ね」
『えーっ』
外周とは学校の外回りの道のことで、一周約二キロはある。毎回部活のはじめに一周するのが決まりだが、声を出して走るのでそれなりにキツい。しかも、私なら絶対させるだろうとわかっている二人は、ブーイングしつつも有希から短冊をひったくるように取って、一生懸命願い事を考え始めた。他の部員達も同じような反応をしていたので、その様子が面白い。
「七夕なんて、子どもの時以来だなー」
「なんで高校生にもなって七夕なんか……」
「季節を感じる行事はやるでしょ、普通。去年もやったし」
そういうと、瀬里奈と秋穂は納得していないような表情で顔を見合わせる。有希に視線を向けると、「人それぞれだから」と苦笑された。
そういうものなんだろうか。私はこういう行事ごとは好きな方だから、つい周りを巻き込んでやってしまう。その方が楽しいから。周りの迷惑関係なく。
「着替え終わってからでもいいですか? その間に考えるので」
秋穂の提案に、私は「どうぞ」と答える。すると、瀬里奈も一緒に着替え始めた。
「有希、私達も着替えよっか」
「そうですね」
私達も体操服を脱ぐ。部室は外にあり、空調設備なんて上等なモノは整備されていないから、上着を脱いだだけではかなり暑い。それでも、汗拭きシートで身体を拭くと、それなりに涼しく感じた。
「前から気になってたんですけど。有希先輩のそれ、どしたんですか?」
瀬里奈が、有希の右腕の上半分から肩までにあるアザを指さす。
「ああ、これ? これは火傷の痕」
有希は特に気にする様子もなく平然と答える。二人は何か思い出すかのように寸の間固まって、そして何かに思い当たり私を見た。
「もしかして、その火傷ってロケット花火をラケットで打ち返した時のですか?」
「そうだよ」
『うわ、最悪っ』
私が肯定すると、二人はまるで嫌なものでも見るかのように同時に顔を歪めた。
「あんたマジ反省しろ」
「してるよ。だから、この前だって山で洞窟見つけたけど、我慢して入らず帰ってきたんだから」
「それは当たり前のことです」
秋穂の冷めた言葉に瀬里奈が頷く。瀬里奈がタメ口になるということは、どうやら彼女の感情は高ぶっているらしい。そのまま瀬里奈は有希を見た。
「有希先輩も、このアホにちゃんと言った方がいいって。危ない目に遭わすなって」
「そうですよ。なんでも付き合ってたら身がもちませんよ」
二人にそう忠告を受けた有希は、白いカッターシャツを着ながら「ありがとう」と言った。
「でもね、私は自分の意思でキャプテンと一緒に行きたいから行くの。この火傷も私の不注意が原因だから。だからキャプテンは悪くないんだよ」
そう二人に優しく説明する。その後でこちらへと視線を向けた。まるで私に言い聞かせるかのように。私は顔を逸らすことしかできなかった。
「有希先輩、人が良すぎ。優しいというか、従順というか」
「旦那の後を三歩下がってついていくタイプですよね。日本人男性が好きなタイプ」
「あー、わかる。有希先輩日焼けしてても美人だから、けっこうモテるんじゃない?」
「モテるよ、有希は」
私があっさり答えると、瀬里奈と秋穂は「やっぱり!」と声のトーンを上げた。それを見て有希が慌てだす。
「そんなことないって!」
「いや、謙遜しなくてもいいじゃん。中学の時なんか片手じゃ足りないくらい告白されて振ってるし。高校入ってからもその記録は更新中。つい先週も同じクラスの男子に告白されて振ってるし」
『おぉ!』
「いっちゃん!」
有希が顔を赤らめて抗議する。二人きり以外の時は周囲を気にして上下関係を守っている有希だが、今の私の暴露にはさすがに素に戻ったらしい。真面目な有希も好きだけど、こういう時の有希は可愛くて大好きだ。
「あれ? でも全部振ってるってことは、付き合ったことないの?」
瀬里奈のタメ口に、有希は抗議することもなく赤い顔のままコクリと頷く。すかさず秋穂が興味津々な目で質問してきた。この年頃の女性は恋愛話が大好きだ。
「なんで付き合わないんですか?」
「なんでって……。どの人もそういう風には見られなかったから」
「えー? とりあえず付き合ってみて、合わなかったら振ればいいじゃん」
「それは相手に失礼だから。それに、私そんなに器用じゃないし」
「有希先輩は真面目ですね」
「有希は真面目だよ。私と違って」
私がそう言うと、二人は迷いなく同時に頷いた。おいコラ、一年。少しは私に気を遣え。
そんな私の心の声など聞こえない二人は、スカートに履き替えながらもおしゃべりを続ける。
「そんなこと言ってたらさあ、有希先輩結婚できないよ?」
「そうですよ。結婚できなかったら、一生キャプテンのお守りですよ?」
「お守りって……」
「あ、もしかしてキャプテンが邪魔してるんじゃないでしょうね? 有希先輩に彼氏ができたら、一緒に連れ回せなくなるから」
「君達は私をなんだと思ってるんだい? 邪魔なんて、そんなことするわけないでしょ。有希には幸せになってほしいし」
これは本心だった。色々と連れ回したり、私の行動の尻拭いをさせてしまったり、その度に有希には申し訳ないと思っている。だからこそ、彼女には私よりも幸せになってもらって、ああ良かったと言える人生を送ってほしい。私はいつもそう願っている。
「じゃあ、短冊にそう書きなよ」
「私はもう書いたし。ほら」
そう言って、笹を動かして私が書いた短冊を見せる。すると、秋穂が何かに気付いた。
「何、この絵」
文字のビックリマークの後に描かれた絵を怪訝そうな顔で指さす。瀬里奈も思わず覗き込んできた。
「犬? 猫? ウサギ?」
「カンガルーだけど」
『カンガルーっ?』
本当にビックリしているらしく、眉間にシワを寄せた二つの顔が私を睨んでいる。
「心外だなー。どこからどう見てもカンガルーでしょ」
「いや、これ別の生き物だから」
「なんなら未確認生物ですから」
「なにおう!」
頬を膨らませて抗議する私を、二人は痛い人間を見るかのような冷めた目で見つめる。ただ、有希一人だけがこっそり笑っていた。
「まあ、この絵はどうでもいいや。願い事、願い事っと……」
今度こそ、秋穂が書かれた文字を読み上げる。
「中国大会団体戦優勝?」
「そう。今年はあんたら二人が入ったからできると思ってるんだよねー、中国大会での団体戦優勝!」
『いや、ありえないし』
拳を突き上げる私に向かって、二人の冷めたツッコミが突き刺さった。
「そんなんわかんないでしょ? 現に県大会では団体戦で三位に入って、悲願の中国大会出場を勝ち取ったんだから」
「県大会と中国大会ではレベルが違うでしょが。やっと初めて中国大会行けるって喜んでるようなチームが優勝だなんてありえない。ツチノコ発見するくらいありえない」
「そうですよ。もっと現実見てください」
「ありゃりゃ。超攻撃型で強気のあんたらがそんなに弱気だなんてね。意外にヘタレだったんだ。あー、キャプテンがっかり」
『はあっ?』
私が大げさに肩を落とすと、二人のこめかみ辺りがピクピク動いた。
「誰がヘタレだ、このバカキャプテン! いいか、この瀬里奈様にかかれば中国大会どころかインターハイ優勝だ、コラー!」
「県大会の個人戦で私達に勝ったからって、あまり調子に乗らないでくださいね。私達を甘く見てたら足元すくわれますよ? 中国大会では絶対勝ちますからね!」
「おお、おお。負け犬はよく吠える」
『負け犬じゃない!』
まるで食ってかかるかのような勢いで二人同時に吠える。本当に先輩後輩関係なく、遠慮なく負けず嫌いを押し出してくるな。でも、やっぱりそんな二人が好ましい。
「いいね、いいね。その調子で試合頑張ってよ。今年で私も最後だからさ、キャプテンに良い夢見せて」
今の私はどんな顔をしていたんだろう。さっきまで倒す勢いで怒っていた二人が、急に困ったような表情をしだした。
「……あんたのために頑張んじゃねーよ」
「そうです。キャプテンが引退しようがしまいが、私達には関係ありませんから」
そう言って、着替えの終わった二人は体操服を片付け始める。その後で筆箱を取り出すと、短冊にペンを走らせた。そして書き終わった短冊を笹にくくりつけると、リュックを背負って扉へと移動する。二人は外に出る間際にこちらを振り返った。
「でも、試合には絶対勝つから」
「優勝旗を手にするとこ、ちゃんとシミュレーションしといてくださいよ」
暮れかけの外の明かりだけでは、二人の表情は上手く読み取れない。それでも、その声から真剣さは伝わってきた。私の胸がグッと熱くなる。
「期待してるよ、痴話ゲンカップル」
『だから、カップルじゃない!』
驚きのシンクロ率で、瀬里奈と秋穂は部室を出て行った。それを見て、有希が私に近付いてくる。そして二人の短冊を見た。
「二人とも”中国大会団体戦優勝!”だって」
「そっか。本当に今年の一年は頼もしいね」
「二人とも色々言ってるけど、本当はいっちゃんのこと大好きなんだよ」
「知ってる。あー、引退したくなーい。あの二人をもっとシゴいてイジって遊びたーい」
私の本音に、有希はクスクスと笑う。学校指定の制服を着ると、やっぱり美人だなと思った。
「また有希とも離れ離れになるのか。退屈だなあ」
「こればっかりは仕方ないよ」
学生である以上、一歳差であれば卒業と入学は別々になってしまう。中学・高校とも有希が来るまでの一年間は退屈で死にそうだった。だって、誰も私の相手をしてくれなかったから。
「帰ろっか」
「そだね」
しんみりした空気と願い事の詰まった笹を部室に残して鍵をかける。有希とはご近所さんだから、帰り道はいつも一緒だ。汽車の時間まではまだまだ時間があるので、二人ゆっくりと歩く。
「そういえば、有希は短冊に何て書いたの?」
「ソフトテニスがもっと上手くなりますように、って」
「うわ、真面目。せっかくなんだから世界征服とか書きなよ」
「それを言うならいっちゃんだって。昔は冒険家になるって書いてたじゃない」
「あれはもうやめた」
「ウソだね」
思わず振り向く。すると、有希は微笑んでいた。でも、長い時間一緒にいたからわかる。これは怒っている時のそれだ。
「洞窟行きたかったのに我慢したんでしょ?」
「それは……」
「私のせいだよね。私が火傷してから、いっちゃんは無茶しなくなった」
どうしてだろう、そんなことないって言えなかった。たぶん、有希はもう確信している。だから、これ以上ウソをついても何の意味もない。彼女をただ怒らせるだけだ。有希が本気で怒ると怖い。
「確かに有希の言う通り、火傷の一件以来、私は自分をセーブするようになった」
「どうして?」
私は一度口をつぐんだ。田舎なので大通りといっても行き交う車は少なく、通学路となっている一本脇の道を歩けば、所々立っている外灯だけで辺りは薄暗くなっていた。
有希はただ静かに私の答えを待っている。私は自分の感情を確かめるように、ゆっくり口を開いた。
「怖いんだよ、私」
「怖い?」
「そう。有希を失うのが怖い」
有希の呼吸が一瞬止まったのがわかった。
「前はさ、私は有希を守れると思ってたんだ。自分のしたことで有希を巻き込んでも、私が責任持って有希だけは守れるって。でも、そうじゃなかった」
交差点にさしかかり、赤信号のため二人歩みを止める。車が一台通り過ぎていった。
「有希が火傷した時、私何もできなかった」
「そんなことないよ。いっちゃんは砂や海水使ってちゃんと消火してくれたじゃない」
「でも、その後私動けなかった。痛がる有希を見て、頭が真っ白になって、救急車呼ぶこともできなかった。もしあの時、たまたま犬の散歩してる人がいなかったら……っ」
夜の学校に忍び込んで怒られたのも、山で遭難して怖い思いをしたのも、今までは二人一緒だった。でも、これは違う。有希だけが火傷を負ってしまった。痛い思いをしてしまった。私が引き起こしたことなのに。そんなの許されるはずがない。
「今回は腕だけで良かったけど。もしこれが全身だったら? 命に関わる危機だったら? 有希が嫌気がさして私から離れていったら? そんなの嫌だ……有希がいない世界なんて耐えられない!」
有希が入学してくるまでの、あの退屈で死にそうな地獄の日々。あんなのが死ぬまで続くのかと思ったら、恐怖で身が震える。山で洞窟を見つけても、行きたいという好奇心とともに、有希の身に何かあったらどうしようという不安の方が勝ってしまって行けなかった。そのくらい、私は有希に依存している。そのことが身にしみてわかってしまった。
信号が青に変わる。しかし、二人とも動かない。車も来ない。人もいない。まるで、たった二人だけ世界に取り残されたみたいだった。
「ねえ、いっちゃん。一つ聞いていい?」
有希の一言で世界が動き出す。私は頷いた。
「どうしていつも私を誘ってたの? いっちゃんなら一人でも動けるよね?」
「それは……」
私は答えを探すかのよに視線を漂わせた。信号は点滅し、再び赤に戻ってしまった。
「それは、有希と共有したかったから」
「共有?」
「そう。楽しかったことも、苦しかったことも、感動したことも、全部有希と一緒に共有したかった。だから、いつもそばに有希がいてほしかったんだ」
言葉にしてみると、なんとワガママなことだろうと思う。こんな私の子どものワガママのために、今まで散々有希を振り回していたなんて。なんだか恥ずかしさとともに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
有希はどんな顔をしているだろう。そう思って恐る恐る顔を向ける。すると、有希は笑っていた。
「そっか。なら良かった」
そう言って、青になった信号を渡り始める。私も思わずつられて歩き始めた。
あの笑顔は怒ってない。本当に嬉しい時のモノだ。いったい、今有希は何を考えているんだろう。良かった、ってどういう意味だ。
聞きたいことは頭に浮かぶのに、なかなか言葉にして出せない。そんな私を見て楽しんでいるのか、有希はふふふっと笑った。
「ねえ、いっちゃん。山で遭難した時のこと覚えてる?」
「そりゃ、真っ暗闇の山で何も持たず一晩明かしたあの恐怖はまだ覚えてるよ」
「恐怖、か」
「え、有希は怖くなかったの?」
「怖かったよ。でもね、あの日見た海に沈んでいく夕日の方が、私には鮮明に印象に残ってるの」
「あー、確か火事かってくらい真っ赤だったよね、空も夕日も」
「そう。私、今まであんな綺麗な夕日見たことなくて。それ見て、初めて胸が震えるくらい感動したの。ああ、世の中にはこんな綺麗な世界があるんだって」
「私も、あの時だけは怖いのも忘れてただ見入ってたな」
「たぶん、私一人だけだったら見つけられなかった。山にすら入ることもできなかった。でも、私にはいっちゃんがいる」
「私?」
「そう。いっちゃんは、いつでも私を素敵な世界へ連れて行ってくれる魔法使いなんだよ」
「魔法使い? 私が?」
「そう。私に勇気という魔法をかけて、私の知らない未知の世界を教えてくれる、私だけの魔法使い」
「それはまた、有希らしい表現だね」
私のその指摘に、有希は「でしょ」と照れくさそうに笑った。
「でも、また有希を危ない目に遭わすかもしれないじゃん」
「私ももう子どもじゃないんだよ。自分の身は自分で守れる」
「そうだけど……」
「いつも試合の前に言ってるでしょ? 後ろの守りは私に任せて、いっちゃんは前だけ見ててって。それでいい、ううん、それがいいんだよ、私達」
そこまで言うと、有希は私に右手を差し出した。
「だから、これからも私を素敵な世界へ連れて行ってください。私だけの魔法使いさん」
「有希……」
参った。ちょっと前まで私の後ろを不安そうについてきていたあの有希が、いつの間にかこんなにたくましく成長していたなんて。美人だとか人が良いとか優しいとか、彼女を飾る言葉はたくさんあるけれど、その奥の芯の部分はたぶん私よりも強い。
こんな素敵な人が、私のそばにいる奇跡。有希の言葉はちょっと違う。たぶん、私を魔法使いにさせているのは、この素敵な幼なじみだ。
「有希!」
有希の右手を押しのけるように、私は勢いよく彼女の両肩を掴んだ。そして叫ぶ。
「結婚しないで!」
「へ?」
「結婚しないで、私と一緒に一生無茶しよう。色んなとこ出かけて、色んなモノ見て、いっぱいいっぱい感動しよう! そんでおばあちゃんになったら、一緒に老人ホーム入ってのんびり過ごそう?」
突然の申し出に、有希は目をまん丸くしてパチパチと瞬きをする。
途方もないワガママだということは自分でもわかっている。でも、言わずにはいられなかった。
瀬里奈や秋穂が言っていたように、有希が結婚してしまったら今みたいに連れ回せなくなる。彼女の中の一番が私ではなくなる。そんなのは絶対に嫌だ。だったら、今のうちに私が彼女の隣を予約しといてやる。ざまあみろ、有希に近寄ってくる未来のハイエナども。
「ふっ……」
有希が顔を伏せた。まずい、やっぱりワガママが過ぎたか。そう心配する私をよそに、有希はお腹を抱えて笑いだした。
「ふっ、あはははははは! いっちゃん、らし……ふははっ」
「ちょ、ちょっと! なんで笑うのさ。けっこう真剣に言ったつもりなんだけど!」
解せない。今の言葉のどこに笑うところがあったんだか。
やっと出会った通行人のおばあちゃんが、私達を見て微笑ましそうな眼差しを向ける。楽しそうでいいわね、といいたげな顔だけど、今笑っているのは有希だけだ。私は楽しくない。
私が不愉快だと抗議の目を向けていると、やっと笑い終わった有希が「ごめんね」と言って片手でポーズをとった。
「ありえない。人の真剣な想いを笑い飛ばすなんて」
「ごめんね。だって、いっちゃんらしいなあっと思ったらつい」
「ついっ?」
なんだか泣けてきた。私の真面目は、こんな風に笑われる程度のものなのか。まあ、日頃の行いがそうさせているんだろうけれど。
ガックリと肩を落とす私を見て、有希が「まあまあ」と優しく私の背中をさすった。
「だって、結婚しないで、って普通言う? 言わないでしょ。だから面白くって」
「はいはい、どうせ私は変わってますよ」
「そんなに拗ねないの」
「拗ねてませーん。それで、返事は?」
私が拗ねた顔で聞くと、有希はちょっと困ったというように眉をハの字にした。
「今は返事できないかな。だって、いっちゃんはいつか誰かと結婚したくなるかもしれないし」
「え、私結婚しないよ」
「しないよって……なんで?」
「だって、有希以上に大好きになれそうな人なんて想像できないし。つーか、いないし。この先もいないだろうし。うん、絶対ありえない」
「え?」
「ん?」
本心で言ったことに間違いない。間違いないけれど、ふと客観的な視点が私の中にわいてきた。
今の言葉も、さっきの結婚しないで発言も、よくよく考えたらプロポーズみたいじゃないか。テレビドラマで主人公が相手役に愛を告げる時のような。あれ、ちょっと待てよ。いや、まさか……。
「いっちゃん」
「な、何?」
一人混乱する私に、有希が声をかける。緩やかな夏風に、彼女の長い髪がさらりと揺れた。
「笑っちゃったから説得力ないかもしれないけど。結婚しないで、いっちゃんと一緒に老人ホーム入るのもいいかもね」
そう言って、照れたように有希は微笑む。それを見て、私の胸が一つ高鳴った。
あ、あれ。なんだこれ。なんだこれぇ!
「いっちゃん?」
動揺する私を、有希が不思議そうに覗き込む。その綺麗な顔のどアップに、私は思わず「ひっ」と仰け反った。心臓が早鐘のように鳴っていて耳にうるさい。なんだか身体も熱くなってきた。これはまさか……。
「有希ぃ」
「どうしたの?」
「もしかしたら、私、私……病気かもしんない」
「えぇっ?」
「だって、動悸が激しいし、胸が苦しいし、身体が熱いし……きっと何かの病気だよ」
「いっちゃん、熱あるの?」
それは不意打ちだった。小さい頃と同じように、有希が前髪をあげて私の額に自身の額をくっつける。その瞬間、顔が火がついたようにカッと熱くなった。
「うひゃあっ」
私はそう奇声を上げると、その場にいられなくなって、駅に向かって思いっきりダッシュした。
「いっちゃん!」
わけがわからないであろう有希も、私の後について走ってくる。どうせ今逃げたって同じ方面の汽車に乗るんだから意味はないのに。それでも、有希と目が合うだけでわけのわからない恥ずかしさが込み上げてきて、まともに顔を見れる自信がなかった。
「ヤバイ、私死ぬのかも!」
「えぇっ?」
もうダメだ。きっとこれは重い病気で、一生治らない不治の病に違いない。せっかく有希が結婚しないで私のそばにいてくれると言ってくれたのに。
そう有希のことを考えただけで、再び胸が苦しくなる。
「あー、もう! なんなんだよ、これぇ!」
さすがの魔法使いも、原因不明の病気を治すことはできない。
私がこの重い病気の名前を知ることになるのは、もう少し後の話。




