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全てのカラスは黒い

作者: 水野 真二

いつも通りの博士と助手の哲学談義です。


 早朝の研究室には明かりが灯っていた。広々とした室内には黒い板を貼り付けた長い実験机が置かれ、その端にはアンドロイドの助手が一人陣取って黙々と作業を進めていた。


 ほどなく廊下を床を叩く靴の音が聞こえてきた。アンドロイドは作業の手を止め部屋の入り口に視線を向けた。そしてタイミングを見計らい、入ってきた博士に挨拶した。

「お早うございます。こんな時間からどうされたのですか」

「やあ、おはよう。作業の進捗が気になってね。おちおち寝てもいられなかったんだ」

 博士は足早に近づき、助手の背中越しにディスプレイを覗き込んだ。

「おお、かなり進んでいるじゃないか。助かるよ」

 これなら一週間後の突合には十分間に合うなと満足げに頷き、博士はモーニングティーを飲むべくいそいそとポットにお湯を注ぎ始めた。

「それなのですが、実は一つ問題がありまして」

 どの茶葉を使うか迷う博士の手を止めたのは、助手のそんな歯切れの悪い発言だった。問題とは、と問う博士に助手は申し訳無さそうにこう言った。

「また哲学のことで解決できない悩みができてしまいました。このことを考えまいとしているのですがどうにも気になってしまい、私の演算処理能力は時間平均で8.4%ほど低下しています」

 博士は呻いた。この助手はまた良くない病を発病してしまったようだ。この研究室に連れ戻してからこれで五回目だ。

「なんとかできないものかね」

 そうは言ってみたものの、このアンドロイドの助手は一度考え始めたら納得するまで気にする性質であることは博士も重々承知していた。大きくため息をつくと、言ってみなさいと博士の方から促した。



「博士は『ヘンペルのカラス』という言葉をご存知ですか」

 助手に問われて博士は首を振った。

「ヘンペルのカラスとは、ドイツの哲学者カール・ヘンペルが提唱した問題です。この問題により帰納法が問題を抱えていると喚起されるそうです」

 そうなのかと博士は気のない返事をした。手持ちぶたさだったのでお茶の用意を続けながら聞くことにした。

「ヘンペルのカラスの話はこうです。『全てのカラスは黒い』という命題の対偶を取ると『全ての黒くないものはカラスではない』となります。対偶は同値ですので、これはつまり世界中の黒くないものを全て調べてその中にカラスがいなければ、『全てのカラスは黒い』という命題が真であることの証明になります。ここまではよろしいですか」

 博士は頷いて、そういえばどこかで聞いたことがあるよと返しながら茶葉を選んだ。まだ気温も低いこの時期ならミルクティーが良いかとアッサムにした。

「問題なのはこの話の解釈です。どうも人間はこの話を直感に反すると判断するようです。一羽もカラスを調べることなく全てのカラスが黒いことが証明できるのはおかしい、と考える人がいるようなのです。私にはこれが理解できません」

 ちなみに実際には白変種やアルビノといった白いカラスは実在しますと助手は付け加えた。カラスはあくまで例えで、問題の本質はそこではないと強調した。ティーポットにお湯を入れ終えた博士は腕を組みしばし頭を捻った。なんとも面倒な話だ。理論が理解できないとか穴がないかといった話ではなく、人間の感覚が理解できないとこのアンドロイドは言っているのだ。アンドロイドらしい疑問だとは思うがしかし、博士もこの疑問に対する回答を持ち合わせてはいなかった。

「すまんが君の説明を聞く限り、私もおかしいとは思わんよ。世の中の全ての黒じゃないものを調べたのなら残るのは黒いものだけだ。黒じゃないものにカラスが混じっていないのであれば、黒いカラスがいるかカラス自体がいないかのどちらかしかありえない。命題はちゃんと証明されるはずだ」

 博士は上向きに両手を開いて肩を竦めた。お手上げといった様子だ。やはり博士もそうお考えになりますよねと、助手も肩を落とした。

 砂糖が切れていたので甘みの少ないアッサムティーの香りを楽しみつつ、二人はしばし無言で過ごした。



「そういえば帰納法がどうとか言っていなかったかい」

 うな垂れる助手を見て、博士はなんとか話を再開しようと試みた。ここで終わってしまってはアドロイドのパフォーマンスは改善されないままだ。それは困る。

「博士は帰納法をご存知ですか」

「さすがにそのくらいはわかるよ。君はときどき、私が工学博士であることを忘れてしまうようだね」

 博士は口を尖がらせた。

「一羽目のカラスは黒かった。二羽目のカラスも黒かった。これを続けていくと、多分全てのカラスは黒かろうって結論になるってことだろう。そもそも帰納法自体を私は好かんよ。例外一つでひっくり返る」

 博士は持論を展開した。

「博士の仰るそれは枚挙的帰納法ですね。ですが博士であれば数学的帰納法もご存知ではありませんか。ミドルスクールで習うはずです」

 冗談ともつかない助手の言葉に博士は眉をしかめつつ、もちろん知ってるさと返した。最近の助手はかなり人間の思考パターンに近づいており、皮肉やジョークも解するようになっていた。ともすれば、そうした傾向から今回の件に引っかかりを覚えたのであろうか。

「数学的帰納法はP(1)が成り立つことを示し、次いで任意の自然数kに対してP(k)が 真であれば P(k+1)も真であることを示せば、任意の自然数nに対してP(n)が成り立つというものだ。ただこれは自然数の構造に依存した演繹だろう。帰納法と名前はついているが帰納法じゃない」

 博士の言葉に助手は頷いた。

「ですので、ヘンペルのカラスで問題となる帰納法とは、博士が最初に仰ったほうの帰納法です。博士が帰納法をお好きでないことは窺いましたが、物事を帰納法で捉えたりはなさいませんか。人間は感覚的に理解できると説明されています」

 助手にそう言われて博士は唸った。

「確かに好みでないとは言ったが、私だって人間だ。物事は大抵帰納法で判断するよ。例えばそうだな、いま飲んでいるこのミルクティーだが私はこのお茶を飲む前に大体の味の予想をしている。それは過去に飲んできたミルクティーの、そしてアッサムティーの味から類推している。実際には白いカラスがいるように、アッサム地方の茶畑で突然変異が起こり私がティーポットに入れた茶葉がピンポイントで激辛になる可能性だってゼロではない。それでも私はこのミルクティーがだいたいこんな味であろうことは予想できていた。そして予想通り一日の始まりを飾るのに相応しい味だった。砂糖を切らしていたのは予想外だったが」

 そこまで言って博士はどう続けたものかとしばし沈黙した。押し黙る博士に助手が問いかけた。ようやく我に返った博士はなるほどわかったと呟いた。



「なにかわかったのですか」

 助手が食いついてきた。博士は我が意を得たりと内心ほくそ笑んだが顔に出すのは堪えた。

「カラスの話で君に違和感を覚えさせるための方法だよ」

 博士の言葉に助手は目を輝かせ続きをせっついた。博士は咳払いをして話始めた。

「帰納法は何度も発生すればするほど確からしくなっていく考え方だ。私が茶葉の味を予想するのに二、三杯飲んだだけのときよりも千杯飲んだあとのほうがより味をしっかりと予想できるようになるのは帰納法によるところだ。先ほど言った通りあくまで経験則でしかない。ただ、人間は毎度同じことが起きると次もなんとなくそうであろうと考えがちだ。地震が発生することは予想できても明日以降、二日おきに地震が起きるとは考えない。きっと過去と同じくある程度のスパンを開けて起こるものだと考える。絶対的にそうではないが、より多くなればなるほどそうであろうという考え方だが、君もこの考え方は理解できるだろう」

 助手は頷いた。

「ではこういう命題はどうだい。『アンドロイドであれば、ヘンペルのカラスの話を聞いて違和感を覚える』 この命題は偽だ。少なくとも君が違和感を覚えていないのだから」

 助手は大きく頷いた。期待の視線を受けつつ博士は満足そうに続けた。

「ではこの命題の対偶を取ってみよう。『ヘンペルのカラスの話を聞いて違和感を覚えないのであれば、アンドロイドでない』となる。そして私は人間だが違和感を覚えなかった。だからこの命題は帰納法で言えば私の一存で一歩真へと近づいたことになる。私のような意見の人間が増えれば増えるほど、アンドロイドは違和感を覚えるという命題が真へ近づく、つまり違和感を覚えることになる。これはつまり、違和感を覚えない私や他の人間達の数が増えれば増えるほど、アンドロイドの君が違和感を覚えられるという確証に近づくということだ。だから君は、なるべく私のように違和感を覚えない人間を増やすよう、さっきの理路整然とした話を広めてゆけば良い。そうすれば君の目的は達せられる」

 どうだといわんばかりに博士は胸を張った。しかし助手は博士を睨んで言い返した。

「期待した私が馬鹿でした。そんな訳ないじゃないですか。なんで他人の考えが僕に影響するんですか。僕の思考回路をメンテする人でもなければなんら関係ありませんよ」

 大分口が悪くなったなと苦笑しつつも博士はこう返した。

「ほら、違和感があるだろ」



 博士の奮闘もむなしく、その日の助手の作業進捗は前日比マイナス8.34%だった。

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