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馴れ初め・四月 その一

執筆したのは少し前になりますが、こういったものも書いてみたかったのです。いかがでしょうか。

 その夜、あたしは自分の部屋からずっと空を眺めていた。

 何故って……蒼い夜空に浮かぶ月がとっても綺麗だったから。いつもなら月になんて興味も湧かないけど、何故かその日は月を眺めていたい気分だった。

 仄かに青白い月が放つ柔らかい光は、今のあたしの心を優しく包んでくれるような気がして、夜はまだ肌寒いというのに窓を開け放ち飽きる事無く月を鑑賞していた。

 床に座ってベッドに背を預ける。この姿勢だと、視線の丁度いい場所にまん丸のお月様が入ってくる。

 このまま……夜が明けて、月が見えなくなると同時にあたしも消え失せてしまえるなら、どんなに楽だろう。

 でも、代わり映えのしない日常を送り、それに飽きつつあるとはいえ、あたしにはまだ生きていたい理由があった。そもそも自ら命を絶つ勇気なんかないし、そこまでして死にたいとは思わない。でも、誰かがあたしの命を一方的に奪おうとするならそれはそれでいい、なんて、死病に侵された人が聞いたらなんという贅沢を言うのかと叱られるだろう。

 とにかく、あたしは14歳で自分の人生に飽き飽きしていた。


 その体勢のまま、何時間くらい月を見ていたんだろう……月の位置の移動がはっきりと分かるくらいだから、結構な間だ。

 ふと気付くと、月の右上に大きな白い光の珠が浮かび上がっている。……あれって金星だっけ?火星だっけ?

 ……しかし今のあたしにはどうでもいいことだ。

 いい加減寝ようと思ってベッドに手を掛け立ち上がろうとしたその時。再び、月に何気なく目をやると……金星だか火星だかが大きくなっている、ような気がする。

 気のせい、だよね。

 数秒間目を逸らしてから、再び月を見る。

 ……気のせいなんかじゃない。明らかに、大きくなってるっ!?

(ウソでしょ……)

 信じたくはないけど、現に星はぐんぐんあたしの方に向かって大きくなってきている。もう眼は離せない。現実感のない恐怖に縛られていたみたい。

 星は、

 野球のボール大に、

 バレーボール大に、

 バスケットボール大に。

 明らかにこっちに向かってきているのに、音の一つもしないのが希薄な現実感の原因だ。でもこれは現実らしい。一つ分かったのは、人間は現実感の無い現実に直面すると、パニックのあまり行動らしきものを一切取れなくなる事だ。

 目の前にまで白い星が迫ってきたと思えるところで、あたしはやっと人間らしい反応を取った。

 ……つまり、顔を両手で覆うこと。あたしが咄嗟に出来る事なんて、それだけ。

 あ、あともう一つあった。

「きゃああああああっ!」

 思い切り叫ぶこと。

 目を閉じ、予想できる衝撃に身を固くして、光の奔流があたしの身体を駆け抜けていって、そして……


 何も起こらなかった。


 自分の身体の無事を確かめてから室内を見回す。しかし、部屋は月を眺めていたのと同じまま。隕石が部屋の中に飛び込んだのでもないし、某国のミサイルが着弾したわけでもない。何も変わらず、そのまま。少しは眠くなっていたから、夢……だったのかな。そう思い込むのが一番合理的なような気がした。

 安堵した瞬間に猛烈に眠くなり、折角のお月見を中断された怒りもどこへやら。とっととベッドに潜り込んで目を閉じる。

 ……ちらっと時計を見ると、既に午前の四時だった。それを見て溜息を一つ。朝起きるのが辛いかな……と観念して、布団を頭からすっぽり被った。

 ……ああ、お月見なんてしてるんじゃなかった。

 散々楽しんでおいてから言うのも何だけど。

「……ちゃん」

 ん。

「ま……ちゃん」

 んん。

「舞依子ちゃん、そろそろ起きないと遅刻するわよ」

 朝から耳障りな声。その声はドアの外からあたしを苛む。

「ちゃんと起きてる」

「きちんと目が覚めてる声には聞こえないけど……」

「分かったから、今行くから!」

「じゃ、じゃあとにかく早く降りてきてね」

 布団から頭を出したまま耳をそばだてると……どうやら、声の主は本当に階下に去っていったらしい。はあ、と朝から溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げると言うが、もし本当だったら最近の溜息の数からしてとっくに薄幸少女に転落している。よってその言い伝えは単なる迷信であることを自分の身でもって証明したのだ、幸せが逃げるのが恐くてロクに溜息もつけない人が居たら謝礼でも欲しいところだ。


……


 意味もないのに学校を遅刻欠席するわけにも行かないので、早く着替えてしまおう。……本当に生きるのに飽きているなら登校する気にすら起きないのだろうが、その点あたしは中途半端に真面目と言うか何というか……少なくとも、あたしの無断欠席の報を聞かせて悲しませたくない人間が居ることは確かだから、取りあえず学校には行っている。


 半ばヤケ気味にパジャマを脱いで素っ気ない下着姿になる。そして……姿見に映る自分を見つめた。

 黒い、背中まであるストレートヘアが自慢と言えば自慢だ。これは死んだお母さんの形見のようなものらしい。感謝しなくっちゃ。

 身長、155センチ。そこそこ。悩むほどじゃない。

 顔、……そこそこ。自信のある方じゃないけど、悪くもないかな。ツリ目が周りから『キツい』と思われているようだけど。『目は口ほどにものを言い』と言うからには、他人から見ればキツいところは確実にあるんだろう。

 全体的なスタイル。……細い方。無駄な肉も必要な肉も付いていない……悲しいかな。足は長いと思う。

 局地的なスタイル。……しょ、将来有望という言葉がこれほど有り難いと思える瞬間はないかな。

 そして……鏡に映らない魂はというと。

 あまり褒められたものではない。客観的に見ても。それがあたしという人間だ。


 あたしの名は村雨舞依子。市立の和泉中学に通っている13歳。今から袖を通すのは、その中学校の制服だ。一年間着慣れただけあって、入学当初に余っていた袖はほぼ寸法通りに収まっている。


 成長したのは……あたしの身体だけだったの?

 あまりの不甲斐なさに自分で横っ面を張り飛ばしたくなってきた。





 着替え終えて階段を下りる。息苦しいが仕方がない。

 階段を下りた後、左に曲がって数歩、そこが村雨家の食卓。食卓ではお父さんが既に朝食を食べ終えていて、新聞を読みながら珈琲をすすっていた。

「おはよう、舞依子」

「おはよう、お父さん」

 あたしより先に家を出て、会社から帰ってくるのは夜遅くになることもしばしば。だけど、あたしたちのために働いてくれる父には感謝している。髪を平たく撫で付けメガネを掛けたその顔は、パッと見仕事にしか能のないサラリーマンに見えるけど、実際は自衛隊員。そして家族思いで優しいマイホームパパだ。いや、だった、というべきかな、十年くらい前までは。

「今日は良く眠れたかい?」

 椅子を引いて座ったあたしに、お父さんは優しく尋ねてくる。

「ううん……ちょっと変な夢を見みちゃって……寝不足気味」

「はは、そうか。身体は大事にするんだよ」

「お父さんこそ」

 一件、仲睦まじい父娘おやこの会話に見えるだろう。だけど、それはどことなくぎこちない。それは……この食卓、村雨家のキッチンに居るもう一人の人物を意図的に会話から遠ざけるよう話をしているからだと思う。

「舞依子ちゃん、女の子に寝不足は禁物よ。肌に悪いわ」

「お父さん、今日も帰りは遅いの?」

「ん?お、おお。まあ9時頃にはなるかな」

 『その人』の事を全く無視しているのに、『その人』はおろかお父さんまでも何も言わない。それが何だか腹立たしかった。明らかにあたしは間違ったことをしているのに。何故叱ってくれないんだろう。

 あたしが無言でトースターにパンを入れていると、テーブルの上に『あるもの』が盛りつけられたお皿がごとりと置かれた。

「舞依子ちゃん、卵は一つだけでいいのよね」

 うんともいいえとも言わずに、ただその『あるもの』を見つめる。卵だと言っているのに『あるもの』としか表現できないのは……それが目玉焼きの原型を留めていないからだ。

「どうしたの?舞依子ちゃん……」

 ……『その人』、和己かずみさんは、自分の作ったものにいささかの疑問も抱いていないらしく、ただ首を傾げるばかり。出されたものが普通の目玉焼きなら素直に食べないこともないけど、あたしの目の前にあるこれは……単なる黒こげの、“元”卵焼きだ。

「ひょっとして……お腹が痛いとか?」

 必死にあたしの身体を心配してくれるのは、せめて母親役をきちんと演じようとしているからなのか、それとも……

 和己さんは、取りあえずあたしのお母さんということになる。何故取りあえずかというと……義理の母だからに他ならない。

 本当の母親は、あたしがごく小さい頃に病で亡くなった。病名は……よく知らない。その時は幼かったし、今もわざわざ悲しい思いをしてまでお父さんに聞こうとは思わなかったから。

 お父さんは、母が亡くなったころから身を粉にしてという表現が似合うほどに猛然と働き出した。あたしを経済的に救おうとする意図は分かっていたし、嬉しかったからあたしはそれを応援した。お父さんの帰りが遅く心細い日も、暗いリビングでじっと耐えた。

 でも、あたしの本心は……違った。

 仕事なんてどうでも良いから、あたしの傍にいて欲しい……

 言えなかった。ただぼんやりと考えていたのは……父も、母を忘れる為にわざと働きに働いていたのかも知れない……ということ。それを考え出したら……とても言えない。


 父の帰りを待つ心細さもさほど感じなくなるほど成長した頃。そんな生活は一変した。


『舞依子、お父さん……結婚しようかと思うんだ』


 寝耳に水。


 あまりに突然のその言葉。どうして今更再婚なんてするの?と考えて、結局お父さんも寂しかったのだというごく当たり前の結論に達した。だから、祝福したいと思ったのだ。……せめて心の中だけでは。

「舞依子ちゃん、早く食べないと遅刻するわよ?」

 ……この、目玉焼きの形をした消し炭をさっさと平らげられる人間が居たら、そいつは早晩ガンで死ぬだろう。そもそも、なぜ目玉焼きくらいマトモにつくれないのだ。建前上の理由ははっきりしている。それは、和己さんがばりばりの……いわゆるキャリアウーマン一筋の人生を送っていて、家事の類はからっきしダメだったからだ。

 でも……目玉焼きだよ?そんなものの出来不出来なんて、家事の腕前どうこうの問題じゃないと思うんだけど……ともかく、和己さんはからっきし。彼女がやってくるまで家事の一切はあたしが取り仕切っていた。だから全てそのままあたしが引き継げば良かったのだが、和己さんは……

『家事は主婦の仕事よ』

 と古臭い価値観を心の物置から(多分)引張り出してきて、そして頭ごなしにそれを押しつけたのだ。きっと……母親らしい姿を見せることで、あたしに認めてもらいたい気持ちが多々あった事も確かだったんだろう。

 だけど……あたしにはそれが鼻について……これがもっと自然な感じで、しかも板に付いていたら徐々に心を開くことも叶ったかも知れないのに。

 つまり、『お父さんにはあたしがついている』っていうこと。ファザコンとでも何とでも言えばいい。とにかく、日常に土足で上がり込んでくるような和己さんが嫌いだった。

 ……そして同時に、そんな和己さんを許せないあたし自身の矮小さにもほとほと嫌気が差していた。それが分かっていても、どうしようもないほどに意固地になっていて……ほんっとにあたしという人間はダメだ。

「もういい。行ってきます」

 いたたまれずに席を立つ。

「舞依子、朝はきちんと食べないと力が出ないぞ」

「そうよ、せめて牛乳だけでも……」

「要らない!遅刻しちゃうからっ」

 牛乳一杯飲むくらいでは大して時間は掛からないが、とにかく……お父さんと和己さんの新婚(一応)の雰囲気を壊したくなかった。どうせ、あたしが居ない方が清々するに決まっているのだ。……お父さんはそんなこと思っていないだろうから、勝手にそう思い込んで、自分を追い込んでいるだけなんだけれど。

 ローファーを履いて玄関を出ると……眩しいくらいの朝日。寝不足には辛い。あたしゃ吸血鬼かっていうの。

 ……でも、家で針のムシロの上に座っているよりはよっぽど良かった。外は……こんなにも清々しいのだから。

 通学路を彩る、満開の桜。

 真新しいランドセルを背負った新入生。

 どれもこれもが、これからの季節に希望を抱いて輝いているように見える。


 今は春。

 そして、今日から新学年のスタート。

 あたしも二年生になったけど……希望なんて抱けない。学校は面白くもないし授業も退屈なだけ。一応勉強はそれなりにしているけど、何の役に立つのかという疑念は晴らせない。小学生の頃はもう少し授業も面白かったよう気がするんだけどな……

 早くも散り始めた淡い桃色の花びらがアスファルトを覆う、桜の並木道をゆっくりと歩く。急いで家を出てきてしまったから、時間に余裕があった。

 ……桜は綺麗なんだよね……

 また大きな溜息を一つ付く。溜息をついて物事が解決するならどれほど楽なことか……とにかく、つまらない。つまらないからと言って、他の子のように無茶な行動に出たりはしない。グレるとか、火遊びするとか……あたしはそれが全く愚かな行為であることを知っているし、傷を舐め合うような連中と付き合っても何の解決にならない事を良~く分かってもいる。

 つまり……あたしは自分でこの状況を脱却しなければならないんだ。でも……部活動でスポーツに打ち込む気も、入学序盤の体験入部で前時代的な仕打ちを見せられ既に失せている。かといって、自分には何の特技も希望もない。『夢はお父さんのお嫁さんっ!』と言っていられる時代がどれだけ幸せだったか。

 でも……そんなあたしにも、ささやかな楽しみの一つや二つくらいはある。……無ければ今頃どうなっていたか、何をしていたか分からない。

「マイちゃ~ん」

 その楽しみの内の一つが元気に走りながらやって来た。あたしの中で数少ない心の拠り所というのを自覚しているかのように、元気づけるようにやって来てくれるので嬉しくなってしまう。

「マイちゃ~ん」

 ふふっ、本当に元気が良いな。見ていて朗らかな気分になるわね。あんなに手を振っちゃって……ちゃんと足元を見ないと転んじゃうわよ。

「マイちゃ~ん」

 ……ど、どうでもいいけど、あの子って随分と遠くから走ってくるのね……この桜並木はあたしが立っているところから端まで500メートルはある真っ直ぐな道。それを、道の向こうから駆け足で……しかもそんな距離からあたしを見付けるなんて……目が良い。

「はあ、はあ……やっと追いついた」

 その子は肩で息をして、膝に手をついて呼吸を整えている。

「もう……声を掛けてくれれば止まっていたのに」

「ううん……マイちゃんを見たら、急に走りたくなっちゃって……」

「ふふっ、どんな関連があるの?」

「だって、マイちゃんとお話をするのってと~っても楽しいんだもんっ」

 顔を上げ、眩しいばかりの笑顔で嬉しいことを言ってくれるこの子は、

 周防梨魅すおうりみ

 一年生の、それも入学式のすぐ後からあたしの大親友をやってくれている、やたらに人懐っこい性格の子だ。

 ……あたしは外見のせいで性格もキツいと思われがち(実際にそうだろうけど)。だから、入学式の後も兎角距離を置かれがちだったのだけど、そんなあたしにも気さくに話しかけてくれる梨魅がクッション役となって、しだいにクラスのみんなとも打ち解けることが出来た。お陰で、梨魅が普段使っている『マイちゃん』という呼び名はクラス全体の女子に浸透している。

 あたしは彼女に大変感謝してもし足りない。梨魅にとっては、人と仲良くなることなどごく当たり前だったのかも知れないけど……とにかく、今のあたしの存在は梨魅抜きには語れない。

「あーしたち、今年も同じクラスになれると良いねっ」

『あーし』。

 梨魅の言う『あたし』って意味。どちらかというと舌足らずで、そして言葉をきっちり区切らずに発音するせいかどうしてもそう聞こえてしまう。でも、梨魅のそんなところも愛らしくてたまらない。思わずぬいぐるみのように抱き締めてやりたくなってしまう。

「そう言えば、転入生が来るって知ってる?」

 学校の近くまで歩いた後、思い出したように梨魅が言った。顔を合わせた直後に話題にしなかったのは、少しでも興味のない素振りをするため?梨魅に限ってそんなことはないか。

「そりゃ……春だもの。全校で転入生の一人や二人いても……」

「それが、二年生らしいの。昨日、ウチの制服を来た見慣れない子が職員室で先生方とお話をしてたのを見た人が居るんだって」

「そうか……梨魅は生徒会だったわね」

「うん。又聞きなんだけど……その子のリボンが黄色だったから、二年生に間違いないんだってさ」

 和泉中学の女子制服は、公立の割にはおしゃれなデザインのセーラー。誰の好みでこんなデザインになったのかを考えると少々落ち着かないが、生徒からの評判は上々だ。

 胸元のボウタイの色で学年が区別できるようになっていて、一年生は赤、二年生は黄、三年生は青。まるで信号機みたい……というのは、和泉いずみの制服を悪く言う人の常套句。だけど、あたし自身も割と気に入っている。

「ふーん……でも、同じクラスになるかどうかは分からないわね、確率6分の1、だもの」

「それはあーしたちにも言えるんだよね……」

 しんみりと梨魅。……うう、確かに梨魅と別れるなんて考えただけでも恐ろしい。もちろん、他にも友達と呼べる子は居るけれど、梨魅級の親友なんて……

「まあしょうがないわね、こればっかりは」

「そうだねっ」

 おどけて誤魔化すしか……出来ない。もしクラスが違ったら……その時はその時だ。

 一抹の不安を抱えながら、あたしと梨魅は間近に迫ってきた校門を潜った。

「……」

「……」

 昇降口前に張り出されたクラス分け表。そこに書かれている名前を大勢の生徒が真剣な眼差しで見つめている。真剣に見つめようがおちゃらけて見ようが内容に何ら変わりはないのだけど。

「あ、あ、あったよマイちゃん!あーしたちの名前!」

「合格発表じゃないんだから……そりゃどこかにはあるでしょう」

「そうじゃなくて!ほら、見て!」

 そう言われて、興奮して震えている梨魅の指先が指し示しているものを見た。

「何よ……あ」

 クラス分け、二年三組。

 真ん中よりやや上の方に梨魅の名前があって、かなり下の方に……

 村雨舞依子、と。

「良かったね、あーしたち、また同じクラスだよっ!」

「うん、そうね」

 この期に及んで、あたしは一体何を大人ぶっているのだろう。本当なら小躍りして喜びたいところなのに。でも、少しは表に出てしまっているかも知れない。何故なら、自分でも頬がニヤけていたのが分かったから。

 それはそうと、あたしにはもう一つだけ懸念事項があった。それはこのクラス分け表で確認できる。

 お願い神様。あたしにささやかな幸せを下さい……こんな勝手なお願いをされた神様はさぞお困りだろうが、かなり真面目にお願いしたつもりだ。

 祈る気持ちで自分のクラスの名簿を見る……


 ……やったぁ。


 拳を固く握りしめるだけに留める事が出来た。踊る心を自制することが難しい。

 普段はクールでならしているあたしの変化に気がついたのか、梨魅は

(良かったね)

 と、そっと耳打ちしてくれた。梨魅には予め伝えてある。

(ありがと)

 何しろ懸念事項が二つも良い方向に解消したのだ。これで何とか……今年はそれにすがってやっていけそう、それ位、あたしにとって大きいクラス替えではあった。


「どうしたの?マイちゃん」


 嬉しさか、それとも寝不足か、いつの間にかその場に立ち尽くす格好になっていた。なんだか頭がぼーっとしている。

「う、ううん、なんでもない」

 慌てて取り繕うけど……心の喜びとは裏腹に、どうも身体がだるい。やっぱり朝食は無理にでも押し込んでいくべきだったか……と後悔しそうになって冷静にそれを否定する。あのような炭の塊を胃に押し込み、しかも栄養に変換出来る人間が居たら、その一芸で富を築けるだろう。

「どうしたの?マイちゃん。苦虫を噛み潰したような顔をしちゃって」

「クラシカルな例えね……でも、実際に苦い想像してたのよ」

「?????」


 頭頂部に『?』マークを浮かべたままの梨魅を引き連れ真新しい教室へ。新しいと言っても教室が新しく作り直されたという意味では勿論なく、その中の空気が真新しいという意味だ。これからこのクラスでいったいどんな想い出が作られていくのか……でもそれはきっと、大部分は退屈で平坦な日常の上に築かれた、ほんの少しの……注意して観察しなければ分からないほどの起伏なのだろうけど。

 みんなは取りあえず出席番号順に座っているので、あたしも黒板に張り出されていた席順の通りに座る。すぐに梨魅がやって来て、

「マイちゃん、彼はどこかな……?」

 と、好奇心に満ちた大きな瞳をくりくり動かして聞いてきた。教室中をこっそり見回してみる。

「……どこだろ……あ、今来たところみたい」

 ちょうど教室に入ってきたのは、背の高めの男の子。春だというのに浅黒く日焼けしていて、刈り込まれた短髪がその肌に映えていた。ブレザーも広い肩幅にとっても似合っている。

「本当に良かったね、マイちゃん」

「本当にありがとっ」

 にこにこ……いや、にやにやしながら手を握り合う13歳の謎の乙女が二人。……いいじゃないの、少しくらいはしゃいだって。それだけ『同じクラス』というものにはチャンスというかアドバンテージがあって……誰に何を弁解しようとしているんだろうあたしは。

 彼は、出席番号順により窓側の最後列に自分の荷物を置いた後、馴染みの男子の元へ歩み寄る。そして、いつものように屈託のない笑顔で、白い歯を輝かせて楽しそうにお喋りをするのだ。


 彼の名は、

 朏光政みかづきみつまさくん。

 一応……あたしの想い人。こんなあたしでも好きな人は居る。彼はどちらかというと目立つ方じゃない。ともすれば、ちょっとワル系の男の子の方に目が行きがちなあたし達の年頃だけど、彼にはワルなところは全く見られない。いつもにこにこしていて笑顔を絶やさず、頼まれ事にはイヤと言えず、ただ野球にひたすら打ち込んでいるんだ。

 前述の通り、一年の時に同じクラスだった女子からは恋愛対象としては不足だったようで、『ちょっと子供っぽい』というのが評判の定説だったようだ。あたしにしてみれば、彼の魅力を分からない、ただ外見だけで判断してしまう彼女たちこそ子供としか見えない。 ……そして、そんな彼女らを許せないあたしもまた子供だ。


 初老……といっても差し支えのない年齢なのに平教師で、しかも担任になったらしい大倉先生がやって来てクラスメイトを体育館の始業式へと急かす。お定まりの訓辞を聞くのは辟易するけど……仕方がない。それより、今日は立ちっぱなしだとあたしの体調の方がヤバい。全校集会で倒れるなんて、そんな恥ずかしい目立ち方なんてしたくない。

 したくないのだが。



「ちょっと……村雨さん、大丈夫?顔が真っ青だけど……」

 始業式もまだ始まったばかりだというのに。

 

 前に立っている子があたしの状態を見かねて言った。確かに……今、自覚できるほど身体がふらふらしている。校長の訓辞など頭に入ってこない。あ、それは体調に因らないか。

 朝食抜きに寝不足、それに今日は元々……『女の子ならだれでも調子が悪くなる週間』だ。本来なら、あたしは初日以外は軽い方なのだが……これだけ悪条件が重なってしまうと流石に辛い。

「だいじょ……ぶ」

「とてもそうは見えないけど……」

「平気、だって……ば」

 強がろうとした瞬間、

(あ……本気でヤバい)

 しっかり踏みとどまっていたつもりの脚がたたらを踏む。急激に意識が失われていき……しかし踏みとどまった。こんなところで目立ちたくないという強い想いでなんとか踏ん張ったようなものだ。それにしても危なかった……

 だけど、この下腹部の重さ……それ自体は経験がないことも無いけど、今日のはちょっと異常だ。こんなに重いのは初めてかも。

 少なくとも今日一日は体調に不安を抱えていなければいけないのかと思うと……お腹だけではなく気まで重くなってきてしまった。これでは、折角クラス分けの歓喜が台無しだ。


 本当に、誰か何とかして欲しい……


 教室に戻ると、そこは相変わらずの無法地帯。一年の時の顔なじみを巻き込み、早くも派閥のようなものを作っている子も多数。新学期からそんなことをしたら、クラスの流れについて行けなくなる子も沢山出てくるんじゃないかと思うんだけど……そこは上手くしたもので、梨魅が間に入ってやってくれるだろう。その時は、私も一肌脱いであげようか……と考えていたら。

「おい、大倉が来た!しかも、転入生引き連れて!」

 と、どっかの男子が思いっきり興奮した声で教室に躍り込んできた。男子がこれほど興奮するということは……転入生は女子で、そこそこ可愛い子なんだろう。

「おーい、みんな席に着けよー」

 と、あたしたちの担任になったのと同じくらいの唐突さで大倉が入ってきた。渋々、といった感じでクラスメイト達がそれぞれ出席番号順に割り当てられた席へと戻ってゆく。

「あー、既に聞いているかも知れんが……」

 大倉は、教室の引き戸の外をちらちらと見やっている。どのタイミングで登場させようか迷っているのか……どう工夫を凝らしたところで大した違いが出るわけでもないだろうに。

「転入生を我がクラスで預かることになった。もったいぶっても仕方がないから……さ、入ってきなさい」

 この瞬間を演出したくて、わざわざ扉を閉めて転入生を外に待たせたのか。そんなに凝らなくても、前の方の男子が浮ついていることから察して、一部分の生徒にはすでにちらちらその姿が見えてしまっているようだけど。

 そして引き戸が開き、

(……!!)

 果たして彼女はやって来た。

(凄……)

 教室にその子がやや俯きがちに入ってきた瞬間。あたし達の心は一瞬にして彼女に奪われてしまった。いや、時間まで支配されていると言っても過言ではない。だって、女子の転入生と聞いて色めき立ってい教室中が、時が凍り付いたかと思うように静まりかえったのだから。

「……??」

 その子も、周囲のあまりの反応に戸惑ってしまっているのか頭に『?』マークを浮かべたままで固まっている。一見すれば滑稽な風景だろうが、その空気を作っているのはあくまで転入生の子だ。本人に自覚はまるで無いんだろうけど。

 ……しかし、

うおおおおおおお!

 という、誰のものかも分からない雄叫びでその静寂は破られた。でも、叫びたい気持ちは分かる。

 本当に凄い。

 何がって?

 ……自分でも分からない。同性からこれだけ引力を感じるなんて異常かも知れないと思ったけど……

「すっげえええええ!可愛いっ!」

「こんな子がいるのかっ!おお、なんてこった!」

 普段なら女子連中の鋭いツッコミが入るような、やや下卑た歓喜の雄叫び。でも、今は等の女子連中は押し黙ったまま。男子が騒ぐ理由に一言の反論が無いからこその沈黙だ。

 そう、転入生は凄まじく美しかった。可愛い、綺麗……13,4歳の少女がおおよそ受ける事が可能な全ての美に関する誉め言葉が当てはまる、とにかく完璧な容姿の女の子だった。

「ほら、自己紹介を」

「は、はい」

 その転入生は何とか気を取り直して、後を譲った大倉の後を受けて黒板の前に立つ。

「……んっと」

 ごほん、と可愛らしくもわざとらしく咳払いをした。人前に立つことに慣れていないのか、どうも動きがぎこちない。

 散々俯いたり教室中をちらりと見たり散々視線を泳がせた後で、

「皆さん初めましてっ!」

 と、少しだけ声を裏返らせ、しかし大きな声で言った。本人にとっては相当思い切った行動だったんだろう。転入の際には最初が肝心……と思ったのかどうかは知らないが、その初々しさでも男子のみならず教室中を虜にしてしまった。

「私、たかま……いえ、加藤真理って言います。まだこの土地に来たばかりなので色々とご迷惑をお掛けするかも知れませんが、これから一年間よろしくお願いしますっ!」

 言い終えて、深々とお辞儀をした。一応は好感触、だろうか。少なくとも男子にとっては。

 顔を上げた転入生……加藤さん。頬が紅潮し、瞳も潤みがち。やっぱり彼女にとって相当頑張った挨拶だったらしい。まあ、顔立ちからしてそれほど活発な子には見えない。

 しかし……一段高いところからあたし達を必死に見つめているその姿は、見れば見るほど惹き込まれていくかのよう。魅力という名の引力が産まれながらにして備わっている感じ。でも、見た限りでは本人にはそれが分かっていない。可愛いのにそれを自覚していないなんてどれほど罪作りな人間なんだろう。いや、自覚していたらしていたでまた憎たらしいのだけど。

 まず身体のつくりが小柄。

 目尻が優しく下がった大きな二重の瞳。

 淡い栗色の、毛先がややクセ気味なストレートロング。

 整った目鼻立ち。

 あたしもそんなに悪くはないと思うけど、彼女を前にしたら惨めになるくらい。

 とにかく、その個々の身体パーツがお互いを引き立て合い高め合っていた。

 しかし例え心を奪われたとしても、おどおどとしていて男好きのしそうな『女の子らしさ』を彼女が演出している可能性も捨てきれない。……要するに、素直に認めてあげられないほどあたしも腐っているということだ。加藤さんに罪はない。

「それじゃあ加藤の席は……えーと、村雨の隣りだな」

 ちょ、ちょっと……普通、席順なんて転入生の分も予め取っておいているものなんじゃないの?それを今急に……といっても、教師側にも事情というものがあるだろうし、それを盾にして全てを強引に押し切られてしまうに違いない。

 加藤さんが周囲の注目を小さい身体に一身に集めながら、あたしの方に歩み寄ってくる。 この子、街を歩かせたら事故があちこちで起こるんじゃないかな。何故って、自転車に乗っている男性が全員振り返ったまま前を見ずに事故りそうなくらい可愛い顔だから。

 でも、その顔に若干……いや、極度の緊張が浮かんでいた。あの自己紹介がかなり思い切った行動だったと見たけど、『かなり』どころではなかったようだ。

 それより、どうしてウチのクラスは女子の方が多いんだろう……男子が13人、女子が16人。お陰で女の子同士で机を並べることになってしまったじゃない。朏くんの背中を間近に見られるこの席順自体は気に入っているけど。

「……」

「……」

 加藤さんが緊張したままの面持ちで右隣の席に座る。わっ、こっちを向いた。……間近で見ると、本当に綺麗な顔をしている。まつげが長くびっしりと生えていて、まるで日本人の顔をした西洋人形の様だ……って、我ながら意味が分からない例えだ。

「あの」

「は、はいぃっ??」

 あたしの奇妙な返事に目を丸くしながらも―そんな表情でも画になる―

「初めましてっ」

 加藤さんは短く言葉を続けた。

「はあ……こちらこそ」

 拍子抜けした。もっと色んな事を聞かれるのかと思ったけど……そこまで積極的ではないらしい。それとも、クラス全員の自己紹介が終わっていない事に気付いているのだろうか。

 案の定、その後は自己紹介。

 みんながありきたりな言葉で趣味やら特技やら……自分の趣味や特技を言う人の方が少数派だったけど……を紹介した後、加藤さんの番がやってきた。

 大人しそうな彼女にとって、再び人前に出ることがどれだけ大変なのかは知る由もないけれど……とにかく頬を少しだけ染めて、

「加藤……真理です。趣味は……趣味と言えるかは分かりませんが、お姉ちゃんの手伝いをすることです。特技は……特には……取りあえず、お姉ちゃんにお料理を教わっています」

 さっき自己紹介したばかりだもんね。でも……お料理、か。何となく親近感が湧かないこともない。お嬢様風な外見からは予想できなかった。お嬢様風イコール家庭的ではないからね。

 加藤さんは、私の隣りに歩いてくる間も注目を引いていた。つまり、この教室に入ってきてからずーっと視線を独り占めしている。……要するに、私もその中の一人なんだけど。こういう視線に慣れていなさそうな加藤さんには、ちょっと可哀想かな……

 でも。

 私には人の心配をしているヒマなど無かったのだ。それを思い知らされるのはもう少し後の事だけど。

第一話はその三まで続きます~。

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