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サワヤカ

 早朝の都心から離れた所に位置するこのホームは風も冷たく、電車を待つ人々の吐く息も白い。それでも結構な数の人々が無言で整然と並んでいる。

 幸太も通勤するためのビジネスカジュアルに身を包み、列に紛れ込んでいた。


 退職届を提出した際、相当引き止められつつもどうにか受理された幸太は、退職までの間を残っている有給休暇を消化しつつ、引き継ぎと残務整理をこなして過ごしていたのであった。

 短い間ではあったが仕事をこなしているとそれなりに責任も負うわけであり、それから解放されたような気分になるのは悪くはなかった。もっともいつになるか正確には分からないが、これから異世界に旅立つわけで、そちらの不安も若干ではあるが心の中に潜んでいるようではあったが。まあ、差し引きすると気分は大分良く、つまりは数日ぶりの出社の朝は微妙にテンションが高かったのである。


 朝食もお替りまでして、普段は飲まない野菜ジュースと牛乳をぐいっとやって家を後にしたのだ。


 魔術を使うには、精霊力を開放しなくてはならない幸太は、その副作用である先祖の姿に変わってしまう。変わってしまえば普段の生活にも支障が出てしまうことを面倒に思い、魔術の使用を控えている。最初は面白がって色々試していたが、社会人で会社人な幸太は流石に魔術を使い続けるわけにはいかなかったわけである。おかげで今日も元の姿で電車に乗ることができたのであった。


 ……快速電車の中は満員である。乗車率200パーセントは超えていそうだ。車内は人の熱で蒸し暑く着膨れしてお互い圧迫し合うので息苦しい。これに完全に慣れるなんてことはこの先もないだろうなと思う。周囲を見渡すと、小さく折りたたんだ新聞を器用に読んでる者、立ったまま眉間にしわを寄せて目を閉じる者、座っている人たちの半分は目を閉じて……これは眠っているのであろう。この通勤がなければ一人当たりの生産性はどれだけ上がるんだろうか。


 幸太はどうにかつり革を持つことに成功し、つり革を持つ左手に鞄をひっかけ、右手でスマートフォンをいじりだす。最近暇つぶしに除いているweb小説を読む。さらりと読めるそれは通勤電車の大事な友となりつつある。家で読むとかなりの時間泥棒ぶりを発揮するそれは、電車で読むと苦痛から目を逸らしてくれるのだ。


(……ん?)


 それに気が付いたのは、TSした主人公が自慢の料理(チーズハンバーグ、フライドポテト添えだ)を魔王に食べさせ、「う……旨王……」と唸らせているシーンで「ふふっ」と来そうな笑いをかみ殺していた時であった。


 目の前のこちらに背を向けている女性がなにやらもぞもぞと動いている。女性専用車両に乗りそこなったのか寝坊でもしたのだろうか。


 自分も今日は起きるの大変だったなぁ、と休み明けのぼんやりした頭で、先日までのことを思い出す。一言でいえば「ぐうたら」なのだが、幸太本人からすると実に充実した日々であったのだ。


 アニメグッズを商う店舗にて、DVDコーナーをじっくりと観察したし、店員との会話も弾んだ。その後のチーズハンバーグ400gランチも素晴らしかったし、食後のコーヒーも満足した。漫画喫茶では迂闊にも睡眠をとってしまったが、有名TS漫画を読みふけり、妙に感情移入してしまったし、帰りの酒場では数年ぶりに再会した中学の同級生と、会わなかった間の魔法少女アニメに関する熱い議論交わし、ちょいと一杯のつもりが酒飲みマインド拡大の原則に則り大盤振る舞いとなり、深夜に及ぶまで充実した日を送ったのである。


 おかげで今朝はテンションの割には寝不足だし、なんかアルコールがまだ体内に居座っている気がする。


 ともあれ、目の前の女性だ。自分と同じく通勤中であろう。頭ひとつ分背が低く、肩にかかるかどうかといったところのミディアムボブはふんわりと大人の女性といった感じで幸太的にはすごくよい。真後ろに位置する幸太はこの混雑する社内でも紳士らしくわずかに体を開けて間をとっていたのがこの女性の不幸であったようだ。


「あっ……」小声であったが、思わず出た声に幸太とその女性の間で蠢いていた手は窮屈そうにしている乗客の間をするすると引っ込んでいった。

 唖然と手を見送ってしまった幸太は、前を向きなおすと、ちらりとこちらに顔を向けた女性と目が合った。ぎょっとする幸太。なんとなれば目の前の女性は今まで痴漢にあってたようであるし、真後ろでのほほんとスマホに興じていた自分はいつの間にか容疑者第一号だ。


 幸太は焦った。どうする、どうしよう? ま、魔術でなんか出来ないか? いや、まさか痴漢を見つける魔術なんてないし。あれ、ちょっとこれまずくないか。まずいよね。目と頭をぐるぐるさせながら、どうにかこの場を切り抜ける方法を考えていると、目の前の女性が口を開いた。


「あの……」


「うっ……」


 もう魔術でどうこうしてしまおうか、と半ば自棄になりそうな心持になりながらどうにか「……今の……」とかすれた声がようやく出てきたところで、「すみません、ありがとうございました」と予想外のお言葉をいただいたのであった。

 この女性、いつも幸太と同じ電車に乗っているらしく、幸太は預かり知らぬところではあったが、(一方的にではあるが)顔見知りであったのだという。


「へぇ、そうだったんだ」

「はい、ですからちょっと安心しました」


 と、ぎこちないながらもにっこり微笑んだ。


 その後も沿線の話を中心に会話は弾み、乗車駅がひと駅違うというその女性の駅周辺の話を興味深く聞いている。隣の駅というのは存外よくわからないものなんだなぁ、としみじみ頷き聞いていた幸太は体に僅かな違和感を感じた。


……グル……。


「?」

「?」


 ん? と首をかしげる幸太。目の前の女性も幸太の様子に首を傾げ、「なにか……?」と気遣ってくれるが、幸太は体の変化に気が付かなかった。


 気が付かない振りをした。


「あ、なんでもないっす」


「よかった、それで駅裏のカフェが……×△▼」


……グルルル……


(???)


 緊張も解けたのか穏やかに笑いながら話し続ける彼女とは裏腹に、幸太の体調は急降下していた。


(トイレ(大)行きたくなっちゃった!)


「#$%!”+*@でね、ED=~|¥なの」


 正直会話は全然耳に入らないし、ぶっちゃけなんか鬱陶しいとまで感じてくる。まことに自分勝手ではあるが。今は全力で相槌を打つので精いっぱいだ。


(あっ、あっ、あっ、あっ!)


 括約筋に身体強化をかけたい。肛門に魔術障壁を張ったらどうか? とくだらない、しかし切実な思考で埋め尽くされる。腹周辺に静寂の術式かけたい。周囲の人間が全員敵に見えてくる。


「まもなく赤羽~」


 しかしご存知の通り、便意には波というものがある。幸太の便意にも波は存在した。


 すぅ~~っと、凶悪な便意が引いていくのである。


「でね、その雑貨屋さんにも小さいカフェがあってね……」

「へぇ、そんなところにもあるんだね」


 受けごたえも余裕である。


(一時は途中で降りようと思ったけど、これなら大丈夫だ。会社まで持ちそうだな)


「ドアが閉まりまーす」


 普段の調子に戻った幸太はにこやかに会話を続ける。


「あそこの本屋の横の通りにも色々面白そうなお店があるみたいだね」

「そうなの! その通りは▼><?+{‘~=)#$%&……」


 きゅー。


(またきた!)


 便意とは波であった。幸太のそれも波であり、並みの便意であったのであるから、一波ごとに人並みに鋭さを増していくのであった。


(あががががが)


 この汗は効きすぎた暖房のせいだろうか、それとも冷や汗であろうか。全ての意識がある一点に集中する。集中のあまり穴を穿つほどである。実際問題穴がどうにかなったら大惨事である。

 俺のバカ。なんでさっきの駅で降りなかったのだ。


グギョー。


(あぎぃーー)


 きゅっと閉める。もう駄目かもしれない……


「前の電車が詰まっておりますので徐行運転しております。お急ぎのところ大変……」


(お急ぎなんだよ! 神様!)


 助けてくれ!


 永遠に続くかと思われたこの状況は、ピンポンというチャイムの音と共に終わりを告げた。つまりドアが開いたのだ。


「あ、き、今日はここで用事があるから降りるね。じゃっ!」


 あ……と何か言ってくるがそんなのはもう耳に入らないのである。どこだトイレは!


 改札から出るまで約束の地は見つからなかった。問題の物件は探していると見つからないものなのだ。ましてや思考力も集中力もすべてのステータスが下がった状態では、そう簡単には見つかるものではない。

 しかし幸太は父からの教えを大切に心に刻んでいたのである。


 口がついてるんだから誰かに聞け。


 幸太は即座に実行した。すみません、トイレどこですか。


 駅員は若干のめんどくささを顔に出しつつ、「あっち」と指さす。おお! 確かにそこには案内板が! 世界で一番洗練されていて、誰でもわかるアイコン。それがトイレだ。


 走り出したい衝動を抑えつつ(走ったら出そうなので)、早歩きで向かった先には行列ができていた。男性トイレのほうが。

 世のお父さんたちはみんな便と戦っていたのだ。


 幸太の顔から一気に血の気が引いた。もう尻を汚して呆然と立ちすくむ自分が幻視出来てしまいそうだ。


 もうぶっちゃけ穴があったら出しちゃいたい。


 しかし人間、必死になるとなにかしらどうにかする方法を思いつくものである。

 幸太が目を向けたのは女子トイレ、であった。こちらは何故か空いているようである。ゴクリと喉を鳴らして見つめる幸太。


……やるか。いやしかし。人としてこれはどうかと思われる。高速道路におけるサービスエリア内の男子トイレに妙齢のご婦人方が列をなしていることもあるにはあるが、逆のパターンはどうか。あれはスマートフォンの普及も影響していると聞いたような。



 そんなことを考える余裕もない幸太はふらふらと人目のつかない所に移動し、魔術を発動させる。反応した体が瞬時に女性のそれに変身する。服は残念ながらそのままであるが、それどころではない金髪美女は大きすぎる靴をカッポカッポ、服をぶっかぶっか言わせながらトイレに駆け込んだ。


 このままでは裾を汚しそうなので、ぶっかぶかのジャケットを脱ぎ、下に着ているシャツも同じく汚しそうなので脱ぐ。下着も同様なので脱ぐ。ズボンもぶかぶかなので下にべちゃっとつきそうなのが嫌なのでやっぱり脱ぐ。


 スッポンポンの金髪美女は男物の服を抱えて便座に座る。


……すっきりした。そりゃもうすっきりした。こんなに満ち足りた気分になるのも珍しいと思う。魂が持っていかれるかと思った。


 ただ、人としてのナニカを失った気もするし。この格好で会社行くのかその辺も面倒な気もするし、とっさに音姫を使った自分も大分アレだし。


 まあいいや、今はもうこのスッキリ感に浸っていれば。朝から疲れた。なんだか老いたようにも思うし、人間がひと回り成長したようにも思う。今はこのやり遂げた自分をねぎらってやりたいとも思う。問題解決したのだ、方法は別としてよくやったよ俺。


 とりあえず服着るか。用を足すのに全裸になるという珍しい体験をした幸太はもぞもぞと服を着始める。今日のズボンはベルトを着用していたのが救いか。なかったらずり下がるところだ。魔術でベルトに穴をあける。高熱で穴をあけたのだが、皮の焦げるにおいが漂い、ちょっと慌てる一幕もありつつ着衣完了。やっぱりブラジャー欲しいな。



 個室からどうやって出るのかという問題もあるのだが、それを考えるのはもう少し後でいいよね。


後で加筆するかも。


1017.2.14 加筆しました。

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