振り回されるのだ
話は、節分過ぎに戻る。
「なんてこった……」
大衆酒場のカウンターでがっくりと肩を落としつつ、ビールジョッキを傾けるという器用な飲み方を披露している常連がひとり。
「やっちまった……」
「俺、ついにやっちまったよ……カアチャン」
断面の艶やかなサワラ、透明感のある少しだけべっ甲色を載せたヒラメ、霜が僅かに見えるマグロの3点盛りからサワラをひと切れつまんで口に放り込み、ふわりとした身を咀嚼し、ビールで追いかける。
ひと汗かいた後のビールであり、体にしみわたるこの感覚は何物にも代えがたい。中ジョッキを一息で飲み干した幸次を見て、この居酒屋の店主はにわかに不安になる。
「お代わり。あとハマグリ……酒蒸しで」
「……佐藤さん、ペース早すぎないか」
「いいから」
ったく、と幸次の若干据わった目と声色に悪態をつくが、こちらも商売である以上は求められれば基本的には従う。過ぎたら外に放り出すなり迎えに来てもらえばいいのだ。再びジョッキを傾け始めた見た目は可憐な少女に店主はため息をついた。
一方の幸次はふわっと酔いのまわってきた頭で、ここに逃げ込む羽目になったささやかな出来事を回想する。
それは2人でいつものように布団にもぐり込んだときのことであった。つい先日男性と化した美穂と同じ布団だ。男性となり、体温が高いくなったのか布団の中は以前よりも暖かく感じる。
幸次は蒲団の中をモゾリと移動し、美穂に体をぴたりと寄せる。
(ん~、暖かい)
「お、そっか」
ごろりと回転。美穂に背中を向けて、美穂の手を引き寄せる。
「ん、こう……」
「!!」
自分より一回り以上も大きくなった手を、幸次の細い腹部に回す。
「え、こ、幸次……?」
少し焦るような美穂の声に、こうしたら暖かいと呟くと、すとんと眠りに落ちる。昔からどこでも寝つきの良い幸次は、異世界から戻ってからはさらに寝つきの良さに磨きがかかったようで、目を閉じて数秒で寝息が聞こえてくる。
(今私は男だってことわかってるのかな……)
と、自分の中の「男」を意識した瞬間、自分の腕の中で無防備に寝息を立てる良人の体の感触、体温を意識し始める。
(や、柔らかい……同じシャンプー使ってるのに、いい匂いがするし……)
むくり。
「あっ」
幸次が気が付かないように抑えた声は、美穂の中の「男」が目覚めた瞬間を示すものであった。
寝れない……
(うう……幸次、私の良人だよね? 夫婦ってことでいいんだよね。幸次は女の子で私は男。全然問題ない。うん、全くこれっぽっちも問題ないよね?)
すりすり……(おっと手が滑った。ナンチャッテ!)
馬鹿なことを脳内でわざとらしく呟くと、右手を幸次のパジャマ(クマさん柄。美衣が購入した)をかき分け、そ
の滑らかで柔らかい腹部に滑り込ませる。
「ん……やぁ……」
もぞりと甘い声と共に幸次が身を捩る。跳ね上がる美穂の心臓。
(うっひゃぁぁぁ! ごめんなさい!)
我にかえった美穂は、(ああ、吃驚した……あんな声出すんだ……幸次……)と耳に残る幸次の音色が脳内で再生され、若者が操る自家用車から漏れ聞こえるドンシャリ系BGMもかくやと思わせるような心臓の音が聞こえるのであった。
ドキンドキンドキンドキン……
(う……うるさい! わたしの心臓物凄くうるさい! こ、幸次が起きちゃう)
起きるわけはないのだが、一足先に部分的に起きちゃった美穂はそんなところに気が回るわけはなく、この生殺しの状態で悶々とした夜を過ごすことになる。
チュンチュン……
朝である。美穂は勿論一睡もしていない。一晩中にわかに発生した男性ホルモンにそれはもう物凄く振り回されっぱなしであったのだ。
あの腹部へのタッチで済んだのは、見事な精神力と言える。
「ふわぁぁ……」腕の中の幸次の体に力が入り、ううんと伸びをする。
「よく寝たぁ、ん? 美穂も起きてたのか、ん?」
幸次は、首を回してちらりと美穂が起きてるのを確認した辺りで、違和感を感じた。自身の臀部に感じる固い懐かしいような感触。
「お、おはよう……幸次……ふぅ」
色々限界な美穂は、吐息も熱く幸次をギュッと抱きしめる。
「んんっ!? あれっ! みみみみ、美穂!? このお尻のコレっ! わっ! わわっ!」
実は、幸次の意識下では、このような経験は皆無であった。そのような行為はディアーナの意識下で行われており、幸次の意識は例の封印の術式により抑え込まれていたのだ。それを如実に表すように、幸次の顔は耳まで真っ赤だ。
同じく赤く染まったうなじに口づけられ、意識がくらりとする。
「幸次……私の幸次……」
「ひゃわっ! ちょっ! おま! あっ」
カプリと甘噛みされた右耳にぞくりと体を震わせながら、大混乱をきたしている布団の中で何がどうなっているのか考える。もう考えていられるほどの余裕も幸次には無かったのだが。
そうか、もう男だもんな。美穂。
ディアーナの容姿を素直に美しいと思っている幸次だ。この容姿が生きるような恰好やときにはメイクを進んで行うのだ。普通の男ならこうなる。幸次が男であったしてもこうなるに決まってる。のだ。
「美穂……」
ぽんぽん、とまさぐっている右手を叩く。
幸次が男性に戻ることは出来ないのだ。精霊の祝福というか呪いは、より強い力には作用しないのである。強烈な魔力と自身を縛る聖人の呪いにも近しい力。これがあるために、幸次が元の性別に戻ることはあきらめざるを得なかった。
異世界から帰還したときは女性同士、このような関係にはなることはもうないだろうな、と諦めにも似た思いを抱いていた幸次だ。美穂が自ら望んで男を選択したときに気が付くべきであったのだ。自分たちは夫婦なのだと。
はぁっとひとつ息を吐くと、美穂の全てを受け止める覚悟を決めた。
「え?」
「そっち向くから。あと……防音必要だろ?」
防音が必要なのは自分の声がアレするからなのだが、微妙に思い至ってないのが幸次の経験のなさである。
「……腰が抜けるかと思った」
「うっ……ごめん、なんか幸次がその、可愛すぎて」
夫婦で励んだ結果、双方とも心地よい疲労を感じ、今はあの混乱が嘘のように穏やかな布団の中。
「ちょっとトイレ……あっと、術式解除っと」
解除すると同時に、玄関から声が聞こえる。幸太と美衣の話し声。
「ご飯食べててって、あの2人何してるんだろうね? お兄ちゃん」
「なんか術かかってるみたいだね……防音?」
「そんなのわかるんだ! すごい!」
「訓練がんばってるから。なにしてるんだろう。ちょっと気になるよな」
「何って……かな」
「ああ……兄弟できたりして」
「わたし、妹がいいな!」
「……」
「……」
玄関のドアが閉まる音を聞いた幸次は、用を済ませた後2人で朝寝に移行し、なんとなく気恥ずかしい気持ちの整理をつけに酒場の開店時間に合わせて飲みに来たというわけだ。
気が付けば眠りこけていたようだ。ふわふわ揺れているような感覚。酔った頭では仕方がないかと思い……暖かく、最近よく嗅いでいる臭いに気が付き、「んぁっ!?」と妙な声を発して目を見開いた。
「あ、起きた? マスターから電話きたから何事かと思ったよ」
あの後、杯を進めていくうちに眠り込んでしまってた幸次を見かねた居酒屋のマスターが、佐藤家に電話して美穂が引き取りに来たと。美穂の首筋から香る体臭。背中からの温もりにこれまで感じたことの無かった安心感のようなものを感じ、ほうっと息をつく。
「う……ごめん」
夫婦であればごく普通の行為ではある。それがたまたま精神的には熟年であり、身体的には新婚(幸次の身体年齢的には日本においては結婚できないであろうが)で、お互い初めての行為で幸次は50年以上の男性として過ごしてきたのだ。自分がディアーナの肉体を持っており、それが美しく愛らしい容姿であることも自覚している。自分でも街で見かけたら目で追うくらいはするだろうな。と思えるくらいには。
まさか自分の意識がある状態で、行為に及ぶとは意識の外ではあった。なんの覚悟もないまま流されるままだったような気もする。
「ふふふ……こうやって幸次のフォローができるようになって嬉しいよ。私は。それに……私もごめん、自分でも驚いたよ。あんなにすごい衝動が来るなんて……」
「ああ、お互い体に振り回されるね。でも、俺もそうなる気持ちは分かるからなぁ」
不意に美穂の肩が震える。
「はは、若いときは幸次も凄かったからねー」
「ううっ!? そんな凄かったっけ?」
「うんうん、あのときは……」
暗くひんやりとした住宅街に、控えめな笑い声が響いた。
いつも描き切れてるか不安なところがありますが……
2016.11.19 サブタイトル修正。一部意味の通らない箇所を修正。




