名と絆と
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守り人は洞窟の其処彼処に魔法陣を描いた。上手い具合に薄暗らさに紛れたそれは、無論、竜を守る為の魔法の支度であった。
もし、見えたとしてもヴェロアの酔狂な王子にはそれが何なのか解らぬ筈だが。
そうして、魔法陣を描き、護符を貼り、魔法薬を用意し万全に準備を整ると、竜の居る洞窟の一番奥へ向かった。
「少し喧しくなるやも知れん」
守り人がそう云うと、眠って居た竜はまるで鋼鉄の細工の様なその目蓋をゆっくりと開いた。
「やれやれ、酔狂な者が儂の血を狙っていると云うか?」
慌てる訳でも、脅える訳でも無く、ひとつ、咆哮の様な大きな欠伸をする。
自分の命が狙われて居るかも知れないと云うのに悠長な物腰だが、昨夜用意した葡萄酒が大分残っている所を見ると、いよいよ死期が迫っているらしかった。
静かな最後を迎えさせたいと云う守り人の願いは酔狂なヴェロアの王子に寄って打ち砕かれようてしている。
何故今なのだ?
何故今になってこの様な騒ぎが?
守り人の無念は竜にも通じたらしく、その人とは違う運命を生きなければならない哀れな子供を見やる。
「儂とした事が」
ふいに竜が云う。慌てている様なのにその声は相変わらず低く静かだ。
「子供よ、数百年も一緒に暮らして来たと云うのに御主の名を訊いた事が無かった。何たる事か」
二人……否、一人と一頭の生活では名前を呼ばずとも用が足りる。
この非常時に何を云い出すのかと思ったが、守り人は苦笑しながら答えた。
「竜よ、名を訊く時は先ず自分から名乗るのが礼儀だと教えてくれたのは御主だ」
竜は笑う。心なしか力無い笑いだが心底楽しげだ。
「シルベリオン。儂の親が名付けたのか、人間共が勝手にそう呼んでたのかは忘れたが、それが儂の名前らしい」
―シルベリオン―遠く北の国に伝わる猛き神を守護する星の名。
守り人は心の中で、この名をこの竜に付けた者の感性を讃えた。
そして、もう数百年、誰にも呼んで貰えなかった、数百年前、母が、父が、兄弟が、友が、呼んでいた自分の名を思い出した。
「私の名はマルテン」
竜は目を細めて微笑んだ。
その表情は我が子を見る逞しい父親、孫を愛でる思慮深い祖父のそれと同じだった。




