最終章
春。
桜の花が風に舞う。花散らしの雨が止めば、道には茶色く変色した桜がこびりつく。葉桜の気配漂う桜並木は青虫スポットとして忌避すべきだと学んだ頃。
かしゃん、とママチャリのスタンドを上げ、私は上を見る。空は快晴。雲はちらちら。穏やかな春の日差しだ。岐阜のマンションはなんと二千万で売れた。立地がよかったからかな。傷や汚れも少なかったし。おかげで私とミサキさんは埼玉で一軒家を購入した。思い切った買い物だったけれど、庭付き一戸建てって憧れだったんだ。ミサキさんの実家はもっと大きな家らしいけど、私たちは二人だけだし、小さくていい。二階建てで4LDK。むしろ大きいくらいだ。和室もあるし。
よいしょっとペダルを漕ぎ出した。向こうで乗っていたラパンも売りに出した。代わりに一万円でおつりが来たママチャリを新しい愛車にした。最寄り駅まで自転車を飛ばす。車がなくても生きていけることを思い出した気分だ。今勤めている老人ホーム「たそがれの羊」も自転車で行けるし。駅の駐輪場に自転車を置き、改札へ向かう。Suicaをピッと。今までこういうスマートな改札の通り方に憧れていた。向こうじゃ電車に乗ることすら稀だったからなぁ。
埼京線に乗り、新宿を目指す。越してきてから何度も電車に乗るけれど、未だに首都圏の路線図が迷路だ。いつも上を見ながら歩いている気がする。ミサキさんはするする歩いて行ってしまうのに。昔とはいえこっちにすんでいた人は違うということか。なんか悔しい。
新宿の街も正直慣れない。人が多すぎるし、なんかうるさい。長野と岐阜しか知らない私に大都会・東京はいつまで経っても観光地のような居心地悪さを与えてくる。
それでも今日は行かなきゃいけない。行きたい場所がある。
新宿駅から徒歩五分。白い大きなビル。新宿ピカデリー。土曜の今日は新作の公開も手伝ってすごい人だ。私は人の波を器用にかき分けてチケットカウンターへ……は、行かずにそのまま劇場へ。文城さんからすでに指定席券をもらっているのだ。なんだか少し誇らしい気もする。
今日があの『ディレッタント』公開初日なのだ。そして舞台挨拶がある。私はそれを観に来た。
ポップコーンもドリンクも何もいらない。シネマ・コンプレックスの蟻の巣穴みたいな暗がりを進み、入る。席はすぐに見つかった。すでに人が入っている中、ぽつんと一つ開いていたから。
座るとすぐに暗くなった。映画館独特のCM。映画の予告。笑い声。
一段階照明が暗くなった。
――始まる。
「Jules Verneは幼稚な作家ではない。彼は真に文学者だった」
主演の高城洋介の声。張りのある、若い声だ。浮舟雪之丞の方が艶があったと思うのは身内びいきというヤツかな。……そう思うとふっと可笑しくなった。身内。私が。
映画は白黒の前作よりも色彩豊かなのは当たり前だが、音楽もよかった。重厚で、迫力のある音。これはやっぱり現代の技術の賜だろうな。
静音の初登場シーンだ。
高遠友梨は横峰蘭子よりも清楚な魅力を持っていた。横峰さんはどっちかっていうと……悪魔的だ。
(あ、この歌……)
赤い絨毯の螺旋階段を下りてくる静音が唄うのはアヴェ・マリア。でもこの声……
(横峰蘭子の歌だ……)
私はこの頃、横峰たつ子とは呼ばなくなっていた。私はもう彼女のヘルパーではないし、映画の話をする時はやっぱりたつ子より蘭子の方がしっくりするから。
高遠友梨の静音は確かに横峰蘭子の声で唄っていた。不自然なはずのその光景は、なぜか不思議と自然に聞こえた。
その後もつつがなく映画は進み、私の中の『ディレッタント』は前作ではなく今、ココで観たものこそがそれだと思えるほどだった。例の「殺してください」だって、もうたつ子さんの声とは重ならなかった。
暗転。そして明かりがつく。
「それではただ今より、『ディレッタント』公開記念、舞台挨拶へと移らせていただきます」
割れんばかりの拍手の中、監督の鴻上弥一、主役・誠一郎を務めた高城洋介、その妻静音の高遠友梨。次に誠一郎の叔父役の文城さん、義兄の義弥役・霧嶋慈郞。あかり役の潮江さらが出てきた。なかなか豪華なキャストだ。
「それでは監督から一言お願いしますよ」
司会の代わりみたいに文城さんが場を仕切った。
「いや、文城君に言われると俺も困るんだよ」
妙な力関係があるのか、監督は本当に困った顔をしながらしゃべり出した。
「この映画で僕は最初、照明係だった。あの頃の俳優たちはほとんど辞めたか死んだかしてるんだが、この文城君だけは現役で……是非とも一緒にやりたかった。本当はもう一人、もう一度スクリーンに映してやりたい女優がいたが、どうにもならなかった」
あ、これきっと、ミサキさんのことだ。でもここにいる人のほとんどが、それが誰のことだか見当がついていない。私はいつも胸に下げている指輪を握りしめた。
「けれどこの映画はなかなかの自信作だ。どこに出しても恥ずかしくない!」
それだけ言って監督はマイクを切ってしまったみたいだ。
「この人は昔っからこうでねぇ。参っちゃうよねぇ」
会場が苦笑いに溢れた。文城さんと鴻上監督の漫才はそれなりに続いていた。
「じゃあ高城君から順にね、一言ずつね、言ってもらおっかなぁ」
「突然そうやって台本に戻すあたり、文城さんの演技と一緒ですよ。この人、すぐにアドリブ入れてきて、もう僕も高遠さんも慌てっぱなしですよ」
「それはあれだよ、君たちがまだまだだって証だよ」
「うっわぁ、それ言われちゃうと参っちゃうよホント……」
意外と気さくな主演男優とほとんど喋らない主演女優。うん、奇妙な組み合わせだ。まるで誠一郎と静音が逆転してしまったみたい。
「私……は、前作のあのアヴェ・マリアをそのまま使わせていただけたのが、本当によかったと思います」
高遠友梨は控えめな声でそう言った。
「あの声は、私には出せませんから。当時の音源なので痛んでるとか言われましたが、音声さんに凄く頑張ってもらってあの歌ができました」
「友梨ちゃん、あの歌にすっごくこだわってからねぇ。どうして?」
「う……わ、私……すごく音痴なので……」
どっと笑いが起きた。清楚で可憐な高遠友梨の知られざる一面だった。
「じゃあ僕は飛ばして、さらちゃん、いってみようか」
「え! いきなり私ですか?」
潮江さら。アイドル歌手から女優に転身したばかりで、この映画が彼女の初芝居だったかな? 歌番組に出ていた頃よりずっと落ち着いた雰囲気だ。衣装もフリフリ~とかピンク~ではなく、黒のドレスで。
「……私、本当に演技がダメダメで……監督に何千回と怒られてきたんです」
両手でマイクを持って、彼女は話し始めた。
「ある人に言われたんです。自分なりに頑張っている、は努力に入らないって。私はずっと自分なりに必死に頑張ってるって言っていたし、思ってもいた。それを根本から否定されて、本当にショックでした。けれどその言葉はずっと私の中で支えになってきました。自分なりじゃない、誰がどう見ても頑張ったんだなって思ってもらえる演技をしようと思えるきっかけになりました」
会場がざわついた。
――ある人って……?
そんなの決まってる。
「今日はそのある人を、皆さんに紹介したいんです!」
心臓が飛び出しそう。
私のことじゃないのに。
ああ、でも、嬉しい。
だって、そうじゃない。
「美崎まほろさんです!」
あの人が、その名前で呼ばれるんだから。
舞台袖から出てきた美崎まほろは、私の恋人。私のミサキさん。
ミサキさんはいつもつけていたカツラをとって、舞台に上がった。引きつった笑顔。でも今まで見たミサキさんの笑顔の中で一番輝いている。肩の辺りまで伸びた髪。額のあたりは火傷が見える。けれどミサキさんは笑っていた。
舞台挨拶に来ていたマスコミ関係が動揺した。会場に来ていた年配の人たちは歓声を上げた。美崎まほろという女優を知る人たちの、驚きと、動揺と、そして遅れてきた歓喜の声。私は会場で一番大きな拍手を送った。
「お久しぶりと、初めまして」
よく通る、けれど少し掠れ気味の声。
「芝居とは縁を切ったつもりでしたが、出戻ってきました」
記者たちのフラッシュが一斉にたかれる。
まぶしい光の中、ミサキさんは笑っていた。
「スタッフロールをよく見た方は気づかれたかもしれません。私の名前に」
私は気づいたよ。
ほかの誰が気づいていなくても、私はちゃんとミサキさんの名前を見つけたよ。
「演技指導者・美崎まほろです」
裏方と言っていいほどの地位のミサキさんが、舞台挨拶にいる。異例のことだと記者が騒いでいるが、ミサキさんも他の俳優陣たちも気にしていない。監督に至っては感涙すら落としている。カメラマン、それ、撮っておいた方がいいぞ。
「臨時のメイクとしてこの映画に関わっていましたが、潮江さらの演技があまりにも酷かったので、芝居に戻る羽目になりました」
「嫁にやった娘が実家に出戻ってきた気分ですわ」
「監督がお父ちゃんみたいなこと言ったよ」
文城さんが大爆笑していた。
「美崎まほろは女優に戻ったわけではありません。これからは以前お世話になっていた事務所のスクール生たちのよき講師となって、余生を過ごしていきます。どうぞよしなに」
一礼。そしてミサキさんは再び袖へとはけていった。会場からの惜しみない拍手をその背に受けて。
人の時は思わぬ時に止まってしまうことがある。でも再び動き出したら、止まらない。
人の一生は千差万別。女は特に十人十色。
行き着く先は誰も知らない。
神様も、仏様も。お母さんも、おばあさんも。先人の知恵も、遺伝子の地図も。
その答えを知るのは、誰もいない。
「てか、だいぶ御都合主義だと思うのよ。この人生」
「馬鹿だなぁ。人生これからだよ。老い先長いよ、私たち」
「ですよねー」