新婚ストーカー
一体どうしてこんなことになっているのだろう。後悔というよりは単純な疑問が俺の脳内を駆け巡る。しかしいくら考えても答えはでてこない。当たり前だ。
俺が今いるのは物ノ怪の住処。元々は事務所か何かに使われていた廃墟の一室を改装したらしい、キッチンまで付いた快適空間(なんと電気まで通っている。近くの電信柱から勝手に引いてきたそうだ。普通に犯罪だ)。そこにおりますは、俺こと泡沫海藤という平凡な高校生と『カミツキ』と呼ばれる物ノ怪の二人だった。一人と一つだった。
そして物ノ怪さんは今、キッチンにいる。
「ふんふんふーん♪」
物ノ怪さんがキッチンで鼻歌歌いながら料理を作っている。
一体どんな罪を犯せばこんな摩訶不思議空間に迷い込めると言うのか。
謎だ。
謎が謎を呼んで取集がつかない。
誰か助けてください(切実)。
「うむ。できたぞ」
言って、にこにこ笑顔で物ノ怪さんは俺の座るテーブルまで手料理を運んできた。
「林檎のパウンドケーキだ。たーんと、食え。たーんとな」
しかもお菓子だった。ケーキだった。誰だこの砂糖菓子系女子は。
綺麗に盛り付けられたケーキに俺は手渡されたフォークを突きたてる。ちなみに既に髪の毛の拘束は解かれていた。が、引きずるほどに長い髪の一束だけは俺の首に首輪の如く巻かれていた。飼い犬の気分とはこういうことだろうか。だとしたら飼い犬が可哀そうだ。
ケーキを口に運ぶ。
いざ実食。
「どうだ、美味いか? 美味いか?」
「……」
悔しいが、美味かった。たかが手作りケーキだと侮っていたが、これは予想外だ。普通に美味い。ふわっとして柔らかくて、口の中で溶けるようだ。そして口の中で溶けながら林檎の香りをばら撒いてくる。これは、これはまさに!
「林檎のパウンドケーキやー!」
「いや、そうだと言っておろう」
某グルメリポーターのモノマネをしようとしたら当たり前のことを言ってしまった。
「待って待って、今のなし。もう一回考えるから待って」
失点を取り戻そうとする俺を無視して、物ノ怪さんは俺の手からフォークを奪うと自分の作ったケーキを一口食べた。
「うむ。美味である」
にこにこ笑顔を崩さないまま物ノ怪さんはケーキを一切れフォークで突き刺すと、それを俺の口元にまで運んできた。
「はい、あーん」
彼女か!
とツッコミを入れたいところだったが、しかし今の俺はこいつに首を握られているのだ。物理的に。機嫌を損ねれば何をしでかすかわかったもんじゃない。ここは大人しくしたがっておくのが吉か……。
「あーん」
声に出しながら、ケーキを食べる。
「美味いか?」
物ノ怪さんはまたそう聞いてきた。笑顔である。楽しそうだ。
相手は物ノ怪だ。それはわかっているが、しかし見た目は女だ。その長すぎる髪を除けばわりかし美人だし、しかも普通に年上。八重樫のように見た目で判別付きにくいことはない。正真正銘の二〇代のお姉さんだ。そんな見た目の方にあーんなんて素敵なことをされて笑顔を振りまかれては、俺はもう照れるなんてもんじゃなかった。
照り焼きになりそうだ。
美味しく頂かれそうだ。
「……んだな」
「ん? なんだ、どうした海藤よ」
「物ノ怪も食べ物を食べるんだなって思ってさ」
照れ隠しに無理やり話題を逸らした。顔が赤くなってないか、気になったが確認するわけにもいかなかった。
「食べるよ。物ノ怪も一応生き物ではあるしのう」
そんな俺の心情を理解しているのかいないのか、とても悪戯っぽい笑みを浮かべながら答える。
「人間と同じで食べることでエネルギーを得ることもできる。しかしまあ、そんなちっぽけなエネルギーで生きられるのは下位の物ノ怪だけだ。私ぐらい高位なモノになると他の物ノ怪を食べたり、霊脈だとかから直接エネルギーを吸い取るやつもいるようだがの」
言いながら、もしゃもしゃとケーキを頬張る物ノ怪さん。もはやフォークを使わず手で食べている。豪快だ。
「だから私とかが飯を食う場合、ほぼ娯楽のようなもんだのう……うまうま」
気づくと、もう殆どケーキは残っていなかった。ケーキ、好きなんだろうか。俺二口しか食べてない。
「くふふ」
そんな俺の姿を見て、一層楽しそうに物ノ怪さんは笑った。
「そんな顔するでない。またいつでも作ってやろう。これでも貴様に食べさせてやるために練習したのだ」
「練習したのか」
「そりゃのう。さっきも言ったが、別に私はこんなもの食べなくても生きていけるからのう。自分で作る必要性もない。だからわざわざ練習したのだ。男はこういうのによろめくのだろう?」
言って、物ノ怪さんは俺の胸の辺りを丸を描くように突く。にこにこ楽しそうな笑顔を妖艶なものに変えて体を摺り寄せてくる。
「ちょ、近いって」
「んー? そうかのう。恋人同士の距離なんてこんなもんだろう」
そもそも恋人じゃないんだが……。
「なんて言ったかのう。『しんこん』だったか? 人間の男女が一つ屋根の下でいちゃいちゃしているのを見て何がそんなに楽しいものかと思っておったが、意外といいもんだのう。やってみんとわからんものだ。それとも、貴様と一緒だから楽しいのか?」
「そ、そういうわけじゃあないんじゃないか? そもそもこれが物ノ怪さんの言う『しんこん』かどうかも怪しいし……」
「おいおい物ノ怪さんなんて、そんな風に呼んでくれるな。それは貴様、人を指さして人間と言っているようなものだぞ」
「じゃあ、なんだっけ? カミキツって、言うんだっけか」
「カミツキだ。間違えるな。しかしそれものう……人を指さして日本人だと言っているようなものだぞ。物ノ怪が種族名ならカミツキは分類名だよ」
「ならなんて呼べばいいんだ?」
「そうさのう……シャクナゲ。シャクナゲとでも呼ぶといい」
「それがお前の名前なのか?」
「いや、今考えた。好きな花なのだ。そもそも物ノ怪というのは個別の名前など持ち合わせておらんからのう。だから、私のことを名前で呼べるのは貴様だけだし、呼んでいいのも貴様だけだ。光栄に思えよ」
「……そりゃどうも」
呟いて最後の一口分のケーキを俺は頬張った。やっぱり、美味い。
「じゃあ、シャクナゲ」
俺がそう呼ぶと、シャクナゲはわざとらしく首を傾げて応える。
「なんだ、もしかしなくとも今私のことを呼んだか? 海藤よ」
にこにこしている。楽しそうだ。
そんなシャクナゲの反応を殆ど無視して、俺は聞いた。
「お前は本当に物ノ怪なのか?」
すると、シャクナゲは本当に首を傾げてしまった。
「なら貴様は私が物ノ怪でなかったとしたらなんだと思うのだ」
「わからない。でも、どうしてもお前が本当に物ノ怪だとは思えないんだよ」
物ノ怪さんとはよんだけども、本当に物ノ怪だとは思っていなかった。だってこいつは物ノ怪名乗るにはあまりに人間らしい。
「そのおかしな髪の毛以外にお前が人間でない証拠がない。いや、それだけでも証拠としては十分かもしれないが……だからやっぱり、お前は人間らし過ぎるよ。お前からは物ノ怪らしさが感じられない」
シャクナゲは笑顔を消して押し黙ってしまった。俺の言ったことが何か不服だったのだろうか。
「ふん。貴様というやつは妙なところで鋭いのう。鈍いところはどうしようもなく鈍いのだがな。しかし私が物ノ怪か否かという質問自体はてんで的外れだ。私は物ノ怪だ。その事実に偽りはない。ただ、私が人間らしいというのは、物ノ怪らしくないというのは、確かにその通り。私自身も自覚しておることだ。しかしのう、海藤よ。貴様が本当に聞きたいのは果たしてそんなことなのかのう。私の身の上話などしている場合か、ん?」
そう言われて、俺は聞きたかったことを恐る恐る口にした。
「お前の言う、誤解ってのはなんだ。それと、八重樫は今どこにいる。あいつは無事なのか?」
「まずは後者の方から答えてやることにしよう。あの小娘は今もまださっきまで貴様がいたところにおるよ。まだ抜け出せてないのだ」
「それで、あいつは無事なのか」
「あまり他の女の心配をするでない。妬けてしまうぞ」
わざとらしくそう言って、シャクナゲは少しだけ俺から離れた。
「一応は無事だよ。まあ貴様を探して何やら色々やっておるようだからのう。無傷とは言えんか」
「そうか。それでやっぱり、俺たちは単に迷わされたわけではないんだろう?」
単純な興味で俺は聞いてみた。シャクナゲは頷く。
「その通りだよ。貴様たちに施したのは空間固定。もっと大仰に言うなら世界構築という術だ。ある空間のある範囲を模してその空間に人間を閉じ込めるものだ。言ってしまえば、異空間、異世界と呼べるものを作り出すものだよ。異世界だから、勿論今私らがいる世界とは違う法則で動いておる。だから構造的に繋がるはずのない道が繋がったりもする。それを貴様らは迷わされたと錯覚していたわけだ。そこまで含めて私の思い通りだったのだが、こんなに早く貴様が気づくとは思わんかったよ。正直焦った」
「しかし空間固定だとか世界構築だとか、名前だけでもとんでもない術のように聞こえるな」
「この術は元あった空間を固定するわけではない。あくまでコピーを作り、そこに対象を閉じ込めてしまう術だ。だからまあ、多少大仰ではあるが世界構築の方が真実に近い名前だのう。それもまるっきり真実とは言い難いが」
コピーであり偽物だから、だからあの場所の生き物たちは生きていなかったのか。クローンにも満たない劣化型だということか。少し違う気もするが、なんにせよ。
こいつはそれだけのことができる奴だと言うことだ。
その事実だけでも俺の恐怖を煽るには十分だった。
「ってことは、俺が急に走りだしたせいであいつのことを置いてってしまったのは事実なのか」
いくら男女差があるとはいえすぐに姿が見えなくなるほど俺の足は速くないはずだが、しかしそもそもこの世界とは違う法則で動いているというなら納得がいく。多分少し離れてしまったが為に俺たちはそれぞれ別の道に繋がってしまったのだろう。繋がらないはずの別の道にだ。
「ふん。無傷ではないのが不満か」
シャクナゲは見透かしたようなことを言う。図星だった。俺は特に取り繕うこともせずに本心を話した。
「そりゃあ、な。巻き込んじまった上、怪我までさせたら自分に不満くらい覚える」
「だからその考えがまず間違いなのだ」
シャクナゲは俺の本心を一蹴した。
「それでは前者の方の質問に答えてやろうかのう。誤解、もそうだが。あの小娘の話だ。他人のプライベートを暴露するのは気が退けるが、これも貴様のためなら仕方ない。嫌々ながらに話してやろう」
そうして、シャクナゲは一呼吸おいてから語りだした――
「まず私が貴様をストーカーしていた時の話なのだが」
「ちょっと待て、凄く待て」
――のを、俺は全力でストップさせた。全身全霊全力の止まれである。今なら猪でも止める自信がある。
「なんだ、いきなり話の腰を折りおってからに」
シャクナゲは不満そうに口を尖らせたが、不満なのは俺の方だった。
「気のせいだと思うし気のせいであって欲しいんだが、今お前、俺をストーカーしているとか言わなかったか?」
「人間の言葉で言えばのう」
「……俺をストーカーしていたと、そう認めるというんだな」
「うむ」
相も変わらんない尊大な態度でシャクナゲは頷いた。
俺はそんなシャクナゲの顎に強烈なアッパーカットを喰らわせた。一応見た目は女だったが、容赦はしなかった。手加減という言葉を限りなく排除した見事な一撃。妙に軽いように感じた彼女の体は水平に吹っ飛んだ。
「何をするのだ!」
「やかましいわ! お前が何してくれてんだよ!」
いや、お前っていうか、八重樫とお前だ。
「何、なんなの? 流行ってんのストーカー? ちまたで話題のトレンドだとでも言うつもりかぁ! 何故に人間と化け物に同時にストーキングされなきゃならないんだよ!」
「それは心外だ。あの小娘は一年前から貴様をストーカーしておったが、私は二年前。貴様が東京に足を踏み入れた時から目を付けておったぞ」
「二年も前からかよおおおおおお!」
そんな前からストーキングされていて、俺は今の今まで全く気付いていなかったのか……?
俺は自分の鈍さ、というか馬鹿さ加減に愕然とし項垂れる。そんな俺の隣に殴られた顎をさすりながらシャクナゲが再び座った。
「まあそう落ち込むでない。貴様が気づかないのも無理はないのだ。私もそうだが小娘も上手く立ち回っておったからのう。その点だけはあの不愉快な女を評価してやってもよいだろうよ」
「ストーカーの腕前なんか評価しないでください……」
何勝手に宿敵みたいな感じになってんだよ。
どっちも俺にとっては外敵以外の何物でもない。
外敵っつーか害敵だ。
「しかしシャクナゲ。お前さっきはストーカー女とか言って八重樫のことを馬鹿にしてなかったか?」
「あれはなんだ。栗が滑ったのだ」
「栗?」
「間違えた口だ」
「どっちにしても滑らせんなそんなもん」
「ならあれだ。貴様をストーカーしていいのは私だけよ! みたいな可愛い乙女心だとでも思っておいてくれ」
「それは乙女の発想じゃねぇ」
変質者の発想である。
ますます落ち込む俺を面白そうに見つめながら、シャクナゲは「どれ」と言いながらくいくいっと指を動かした。すると、まるでその指に呼応するように俺の首元からするすると一本の長い髪が現れた。それはまるで見えない糸に繋がれているかのごとく俺のもとから離れて行った。
「私は貴様をこれでストーカーしていたのだ」
言って、シャクナゲはその髪を掴みあげたが……。
「髪、でか?」
「うむ。髪で、だ」
にわかには信じがたい、というか普通に信じられない。まさか超小型の盗聴器が付けられているわけでもあるまいし。
「そんなものでどうやって……」
「私は異世界を構築してしまうほど高位な物ノ怪だぞ? 不可能などない。というのは大げさな物言いで、そもそも私は髪に深く関わる物ノ怪なのだ」
カミツキのカミは髪の毛の髪だ、とシャクナゲは言った。
「だから髪の毛一本あれば盗聴はおろか盗撮だってできるのだ。まあ撮影というよりは直接みているようなものだから盗み見の方が正しいかのう。手料理を振る舞うにあたって私が何故ケーキを作ったと思うっておったのだ。それは貴様が既に夕飯を済ませていたのを知っていたからだよ」
「ん? ちょっと待てよ。それをお前が知っているのはおかしいぞ」
確か、八重樫の家には聖域とか言う結界のようなものがあったはずだ。邪悪なものを一切寄せ付けないとかいう。
「うむ。だから私本体は近づくことはできない。しかし、聖域と言っても所詮は偽物。レプリカでしかない。その上、あの女はそういう方面の術は苦手としているからのう。穴はあるのだよ。あれは確かに邪悪を排除するが、しかし小さすぎる穢れは認識してはくれんのだ。だから、私の髪の毛一本くらいなら侵入も可能だ。まあそういった小さい穢れを持った物ノ怪程度では人に害を成すことなどできん。それこそ精々盗聴くらいだ。そういう意味ではあそこが安全だというのは嘘ではないよ」
物ノ怪に対してだけだがのう、とシャクナゲは付け加えた。
「ちなみにこれは私が貴様をストーカーしている時に得た情報なのだが……あの小娘、貴様の部屋に五つの盗聴器と三つの監視カメラを仕掛けておるぞ」
「ああ、そう」
まあ、それくらいは予想していたことだ。あの女ならやりかねない。というか、それくらいやっていなければおかしいだろう。
「あと、小娘が貴様の部屋に侵入した回数は二〇回以上だ」
「お、おう……」
それだってあいつのことを考えれば当然だろう。じゃ、若干回数が多いのが気になるが盗聴器やらを設置するのに一回は訪れないといけないのだし、あいつにはピッキングやらの才能もないようなのだから侵入するとしたら合鍵でも作ったのだろうが、むしろそれが何度も侵入する理由になっているのかもしれないな。俺が学校に行っている間は基本無人なわけだし。
「貴様が失くしたものと思っておったパンツはあやつが盗みだしたものだ」
「あ、ああそうっだったのかー。全くあいつはどうしようもない変態だなー」
うん……。そうだよ、あいつは変態だし、それくらいだったら、
「それと使った覚えもないのに減っていくへそくりも小娘のせいだ」
「八重樫ぃいいいいいいいいいいいいいいいい!」
もうそれストーカーじゃなくてただの窃盗じゃねぇかぁ! 無職の女が金に困っただけじゃねぇかぁ!
あの女、泣かす。絶対泣かす。
俺が密かに決意を固めていると、シャクナゲは手にしていた一本の髪を自分の頭に近づけた。すると、それはまるで磁力によって引き寄せられるかのように彼女の頭に戻って行き、他のたくさんの髪の毛と見分けも付かなくなってしまった。
本当に彼女の髪なのかと俺は驚いた。
「さて、話を戻すぞ」
そんな俺の反応をさして気にするわけでもなくシャクナゲは言う。
「まずは私の誤解についてだが」
「それだよそれ。俺には意味が分からないぜ。一体何が誤解だってんだ」
「さっきも行ったであろう。私を悪者にするのは早計だと。私は貴様に危害を加えるつもりはない」
俺は無言で自分の首に巻きつけられていた髪を指さした。何も言わなかったが、眼で訴えた。
じゃあこれはなんなんだこの野郎。
シャクナゲはふんと鼻を鳴らすと、それをしなければ貴様は逃げてしまうだろう、と言った。
いや、逃げるけどさ……。でも首はないだろう首は。
「話が終わったら解いてやるから、安心しろ。何度も言うが、私は貴様に害を成すつもりはないのだ。むしろ害なのはあの小娘だな」
「八重樫が?」
でも、あいつは俺のことを守ってくれているのではないか。
「だからその考えがおかしいと、どうして貴様は気づかぬのだ。――貴様にとっては昨日会ったばかりの他人が、何故自分のために命を張っていると思っているのだ」
「そ、それはあいつがストーカーで、俺のことを好きだから……」
愛していると、そう言っていた。
「その通り。奴は貴様を想う一心で命を懸けておる。好きな者のために命を懸けるとは、言葉にすればさも美しいように聞こえるが……しかしどうだろうか、私にはそれが異質で気味の悪いものに思えてしかたないのだ」
気持ちが悪い、シャクナゲは吐き捨てるように言った。
「でも、誰だって好きなやつのためならそれくらい言うだろう」
「ああ、言うのう。誰だって恋人に甘く囁きかけるだろうよ。だけどあの小娘はそれを言うだけでなくやってしまうのだよ。一体世の中に真の意味で好きな者のために命を懸ける人間はどれだけいると思う?」
「そんなの、わからねぇよ」
「簡単だよ。答えはいない。そんなことができる者はそもそも人間ではない。物ノ怪にもなれぬ単なる化け物だ。あの小娘は化け物なのだ」
化け物という言葉に俺の心の奥がざわついた。
「私は貴様をストーカーしていたことはもう話したが、あの小娘が貴様のストーカーになった正確な時期はわからぬ。気づいたら私と同じように貴様を見ていたよ。しかしどうも普通のストーカーとは違う気がしてのう。見ている、見つめるというより守っている。それも人間ではなく、もっと違うものから、そんな印象を受けた。それで調べてみればどうも物ノ怪に関する知識を所有しておるようだった。貴様の穢れた血のことも知っておるようだった。ただ守っているわりには私の存在には全く気付いておらんようだったから、護衛としては失格だったのう。半人前だった」
シャクナゲの言葉はまるで自分に言い聞かせるようだった。
「その時点で私は気づくべきだったのだよ。あの小娘がずぶの素人だったということに」
「それは、どういう……」
「素人だったんだ! あやつは!」
俺の質問も最後まで聞かずにシャクナゲは畳み掛けた。
「貴様のように家柄もなく、今までの人生で一度も物ノ怪と関わることもなくのうのうと暮らしてきた娘だったんだ! それだけのやつが、貴様を好きだという理由で泡沫の業までも背負おうとしている。物ノ怪に対する知識をつけ、あまつさえ対抗する力まで付けて!」
口調を強め興奮した面持ちで彼女は続ける。
「貴様はあの小娘の力がなんなのか知っておるか?」
俺は首を横に振る。そうだろうのう、と彼女は頷いた。
「あの術は言術と言っての、貴様も言霊くらいは知っておろう? 言葉には魂が宿る。魂というのは霊的エネルギーと言い換えてもよい。言術はそのエネルギーを利用して術を発動させる。言術は便利だぞ。余計な手順がいらん。ただ言葉にすればそれだけで発動する術だ。そしてそれだけに、言術は難しい。あれは本来ならば十年以上かけて昇華させていく技だ。言術だけに限らず人の身にて人ならざるものに対抗しうるには多大な時間を有するものだ」
だけど、奴は違った。そういうシャクナゲの声は震えて聞こえた。
「あの小娘は十年以上かけて培われるべき力をたったの数か月で完成させおったのだ! 大抵が物ノ怪を迎撃する術で守りや解呪に関してはそれほどではないとはいえ、しかしこれは普通ではない。明らかに異常だ。たとえどれほどの素質を持った者だろうと、ただの恋愛感情で出来ることではないのだ。有り得てはいけないことなのだ。【がらんどう】とか言ったか、貴様の部屋の扉を私ごと吹き飛ばした術だよ。あれは言霊のエネルギーを運動エネルギーに変換しておるのだ。しかし真に脅威なのは最初に唱えた術のほうだ。退魔の術だ。私のように穢れを持った物ノ怪を根こそぎ焼き尽くす言葉だ。正直扉ごと吹き飛ばされていなかったら、私はあのまま死んでいてもおかしくはなかったよ。わかるか、海藤よ。貴様はわかるか? ただのずぶの素人でしかなかった小娘がたったの数か月でこの私に匹敵しうるだけの力を手にしているのだ。その異様さが、異質さが、気味の悪さが、気持ち悪さがわかるか!」
俺は必至で首を振った。そんなのわからないと。
わかりたくもないと。
「逃げるな!」
シャクナゲが俺を怒鳴りつける。
「逃げるな、海藤。現実を見ろ、あの娘は異常だ。そしてその異常はついに動き出した。ようやく私の存在に気づいたあやつは貴様を守ろうと動いた。自らの愛を疑うこともせずに貴様のためにとのう。――――忠告するぞ、あの小娘の想いは強すぎる。常識すら凌駕するやつの想いは重すぎる。それは貴様が背負ってよいものではない。確実に貴様に害を成すだろう」
「害なんて、そんなこと。どんなに言ったってあいつは俺のために動いてくれているんだろう。例え異質でも異様でも、俺のためのはずだ」
「その貴様のためというのが問題なのだ。あやつの行動の中心は貴様だ。いや、違うな。貴様しかいない。あやつは本当に貴様のためだけに動いておる。どんなに恋人のため愛のためと謳っても、所詮は人間。少しは自分の利益を考えておる。下心というやつだ。しかし小娘にはそれがない。本当に貴様のためだけだ。それ以外の理由が全く、全て欠如してしまっておる。わかるか、海藤。私を打倒しうるだけの力を持った女が貴様のためだけに力を振るっておるのだ。自分のためではないぞ。貴様のためだ。あやつが力を行使するとき、そこにはあやつの意思がない。貴様という理由しかないのだ。自分の拳を自分のものとも思わず振るえる人間など、狂っている。いやそれはもはや人間とも言い難い。やはりあの小娘は人間よりもこちらよりだよ。貴様は理解しなければならん。わからなければならん。あの小娘の危険性を。それはその理由であるところの貴様にも振りかかる拳かもしれないのだから」
八重樫の力が俺に害を成す。
そんなことが本当にありえるのか。人を思う気持ちが人を傷つけることが本当にあるのか。そんなの……。
「まあ、今はあの小娘が危険だということがわかっていればよい。あやつの言う愛が本当の愛かどうか、じっくり考えるといいだろうよ」
言いながら、シャクナゲは右手で俺の頬を撫でる。
「それまでは私が貴様を守ってやろう」
くふふ、と彼女は笑った。