加速する物語
しかしそんな俺の危惧は杞憂に過ぎなかった。
物語は加速する。
「おかしいです」
最初にそう言ったのは八重樫だった。その言葉に俺は首を傾げた。八重樫は振り子から目を離すことなく続けた。
「さっきから、奴の痕跡があり過ぎています」
「あり過ぎている? それってつまりあいつが近くにいるってことじゃないのか」
「……あり過ぎているでは不適切ですね。正しくはどこにでもある、でしょうか」
その言い回しの違いはわかったが、ニュアンスは伝わりにくかった。それを察したのか八重樫は重ねて言った。
「どこにでもある。つまり奴の痕跡がない場所がないのです。さっきからずっと、この振り子は奴の穢れを感知しています。でもそれはまるで水平線のように一定の値しか示さない。こんなことあるはずがないのに」
顔にも声にも表れていないが、八重樫は焦っているのかもしれなかった。突然立ち止まり、何か考え込むように同じところをぐるぐると回りだしてしまう。
ぐるぐると、回る。
同じ場所を……!
その時、俺の中から違和感が噴き出した。押しつぶされた反動によって勢いを増したようにして、違和感が溢れる。
「おい、八重樫……この道、前にも通らなかったか……?」
俺の視線の先には先程目にしたはずの銭湯の暖簾をかけた家があった。八重樫もまたはっとしたかのように暖簾に目をやり、そして視線を俺に移した。
「……」
「……」
俺たちはお互い無言になったが、目配せで相手の意図はある程度伝わった。言いたいことは同じだった。だから無言のまま、言葉を交わさぬまま、歩調を速めて歩き出す。
ふらふらと彷徨っている内に同じところに来てしまったのではないかと、そんなオチが待っていればどんなによかっただろう。先程右に曲がった道を左に曲がり突き当りに達すれば家と家の隙間をくぐり、通ったことのないはずの道を渡って着いた先は果たして、赤青黄の信号機のような家が並んだ通りだった。
通ったはずの通りだった。
間違いない。俺たちは迷っている。
「泡沫様。正しくは迷わされているです。構造的に今この通りに私達が出てくることは不可能です」
八重樫は変わらぬ語調で正した。
「そう、なのか。本当に俺たちは……」
「泡沫様を疑うわけではありませんが、私は振り子に集中していたのでそれほど周りの景色を注視していたわけではございません。ですから今一度確認させていただきます。ここは泡沫様が一度通った道なのですね?」
「ああ、間違いない。こんな目立つ目印があるんだ。間違うはずがない」
「左様ですか。それなら、十中八九迷わされていると考えてよいでしょう」
「迷わされているって、それはあの物ノ怪にか? あの黒にか?」
八重樫はこくりと頷いた。
「あれは《カミツキ》と言って、それなりに高位な物ノ怪です。これくらいのことならやってのけるでしょう。もちろん高位とは言えどまともにやりあえば私が勝ちます。むしろそれをわかった上でこのような小細工を仕掛けてきたのかもしれません」
「物ノ怪なんてものにそんな知能があるものなか」
「それは物ノ怪の種類にもよりますね。それにあの黒は少々特別ですから」
特別という八重樫の言葉に少々引っかかりを感じたが、今はそれどころではない。なんとかしないと、俺たちは奴を見つけるどころか家に帰れないかもしれないのだ。
「大丈夫です、泡沫様。心配は無用です」
胸に手を当て目を伏せながら八重樫は言った。
「……」
悔しいかな、少しだけ俺は安心してしまう。それでもなくなってくれない不安はあったが、ほんの少しでも気が晴れたのは確かだった。
どうしてだろう。どうしてこいつの言葉に俺は安心してしまうのだろう。現状こいつだけが頼りになる存在だからというわけでもないだろう。それだけじゃないはずだ。それだけじゃなく、なんというか……こいつの言葉は本気なのだ。一片の嘘も交じられていないのだ。真実だけで固められた言葉なのだ。大丈夫だと、俺を安心させようとそう言う時、そこにはそれ以外の要素が全く含まれていない。それ以外の意図が、思いがはっきりと欠如してしまっている。
その純粋無垢なまでの誠実さは寒気をも感じさせた。
「で、どうするんだよ。実際問題、俺たちが迷ってしまっていることは事実だぜ」
すると、八重樫はその手に持っていた振り子をポケットにしまってしまう。
「おいおい、諦めんのかよ」
「はい。諦めます。そうすることで私たちは家に帰ることができるのです」
「どういうことだ?」
「そもそも人は何故道に迷うのでしょうか」
えらく哲学的な質問を振られてしまった!
「そ、そこに道があるから……?」
「残念ながら……。人は何故道に迷うのか、それは目的地があるからです」
「はぁん。なるほどな。確かに目的地がなければ迷うも何もないもんな」
別に哲学でもなんでもなかった。ただの意地悪クイズみたいだ。
「ですから、この場合は宛てもなくぶらぶらするのが正解です。少し時間がかかってしまうかもしれませんが、そうしている内に奴の勢力圏内から抜けることができるでしょう。それまでは泡沫様とじっくり散歩をしているとでも思っておきます」
そう言って、穏やかに微笑んだように八重樫は見えた。八重樫の言葉に一応は安心していた俺だが、しかし心のどこかにまだ不安が残っていた。不安というか、違和感、まだ何かがおかしいと俺の心は伝えているようだった。だけどそれが何かはわからない。もやもやとした霧のようなものに覆われていくようだ。なんとなく気分が悪い。
「さ、行きましょう。泡沫様」
当たり前のように手を繋ごうとしてきた八重樫を振り払う。
「もー、意地悪ですよっ」
「彼女か、お前は」
少しテンションが上がっているのだろうか。普通に気持ち悪いわ。
言いながら、俺はさっさと歩きだす。八重樫の言う通りならば、特にあてもなくぶらついていればいいようだが……しかし住宅街なんて同じような景色だし、あてもなくと言ってもなぁ。しかも同行人がストーカー女だ。全然楽しくない。せめて他に人がいれば――――
「人だ!」
気づくと俺はそう叫んでいた。その勢いのまま目に入った家の一つの門の前に走る。そして門に取り付けられていたインターフォンを押した。誰も出てこない。構わず俺はもう一度押す。一度と言わず、何度も何度も、気が狂ったかのように俺はインターフォンを押し続けた。
「泡沫、様……?」
突然の俺の奇行の意図がわからないようで、八重樫は俺を止めるわけでもなく後ろから眺めているようだった。
別に俺の行動にたいした意図はない。俺は単純な男なのだ。インターフォンを鳴らす理由はその家に用があるから、その家に住んでいる人間にようがあるからに決まっている。俺は人に会いたかったのだ。誰でもいいから、人に。
考えてもみろ。俺たちは散策を始めてから、今に至るまで誰にも会っていないのだ。誰も見かけていないのだ。車通りの少ない道ではあるが、しかし人が全く歩いていないなんてことはありえない。俺の実家じゃあるまいし、九時を過ぎようと日付が変わろうとそれなりに人は歩いているはずだ。それが東京だ。それなのに、誰もいない。俺たちが迷わされているだけならば、それはあり得ない。あり得るはずがない!
俺は隣の家のインターフォンも押した。
誰も出てこない。
いない。
その隣。
誰も、いない。
もうこれ以上続けるのは無意味だと悟った俺はもう一つの疑問にぶち当たる。
それを確かめるために走った。ついた先は蝙蝠のいた場所だ。彼らはまだいた。
その数を数える。
六匹。
また走る。
後ろから八重樫が俺を呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まっている余裕はなかった。ついてきているならそれでいい。
走って、走って、走ると、目指したわけでもないのにまた蝙蝠のいた場所まできた。迷わされているのだ。
蝙蝠の数を数えた。
六匹。
六匹だ。さっきから変わっていない。彼らは屋根にぶら下がったまま飛び立つ気配がない。いや、それどころか動かないのだ。まるで剥製のごとく固まって、微動だにしない。蝙蝠だけじゃなかった。雲も、星も、道端に咲いた名も知らぬ花も、命を持って活動しているはずのものたちに生命が感じられない。動いていない。俺たち以外のものが止まってしまっている。
人がいない。
誰もいない。
雲が動かない。
止まっている。
――――ここはどこだ――――
道に迷った、なんて生易しい事態でない。そんな現実的な事情ではない。現状はもっと深刻だ。もっと、非現実的だ。
「八重樫!」
彼女の名前を呼んだ。しかし、返事がない。振り返ると、そこには誰もいなかった。しまった置いてきてしまったのか。そう思うと、急にとてつもない不安に襲われた。それは喪失感と言い換えてもいいかもしれない。早く彼女と合流しなくては、早く彼女と会わなければ、
彼女に会いたい。
しかしその願いは叶わなかった。
次の瞬間、俺はとてつもない黒に包まれた。