休む場所
家があるのに休む場所がないといのは、凄く妙である。家とは休める場所ではないのだろうか。それとも案外、現代人というのはもっと他の場所に安らぎを求めているのかもしれない。
とまぁ、そんなことを言いつつ休む場所を失った俺がどこに来たかというと、八重樫の家だった。
…………いや、これは決して俺がまだ混乱しているわけではなく、きちんと考えがあってのことだ。どんな考えがあろうとストーカーの家に上がり込むなど気がふれていると思われても仕方ない行為のようにも思えたが、その考えには目を瞑っておいた。
思考停止。
あるいは停滞だ。
それではどんな考えを持ってして俺が八重樫の家に訪れることになったかというと、勿論休むためなどではない。正直言って休みたいが、休んでなどいられない。俺は知りたかったし、知らなければならなかった。あの髪のこと、そして八重樫なずなのことだ。
彼女の口ぶりではどうもあの髪に狙われていたのは俺のようだったし、八重樫に助けられてしまった以上、無関係ではいられないだろう。無関心でも、いられないのだ。
だから俺はその説明を聞くために、一から十まで漏らすことなく説明してもらうために八重樫の家に来たのだ。
――別に八重樫の家でなくてもいいような気がしたのは目的地に着いてしまってからのことである。
そんなわけで、八重樫家。
一人暮らしと聞いていたのでマンションかアパートを想像してたのだが、まさかの一軒家だった。別段大きい家というわけではないが(うちの実家の方が大きい)しかし一人で住むには大きいようにも思える。広い分には困らないだろうけど。
「あまり綺麗なところではありませんが、どうぞ」
俺の部屋には無くなってしまった玄関を開けると、どこにでもあるような普通の家庭の光景が広がった。人数が少ないだけに靴は少なかったが、特におかしなところもない普通の玄関だった。少し構えていた分、拍子抜けしてしまった。暮らし自体は普通のようだ。
「昨日知り合ったばかりの男女が一つ屋根の下に集まる……これは俗に言う結婚というものですね」
「言わねぇよ。俗世間なめんな」
頭は普通ではないようだけれど。本当に。
「確かに昨日知り合ったばかりと言うと、行きずりというか、どことなく卑猥な響きがありますね。私としては泡沫様とそういう関係になるのもやぶさかではないのですが」
「それは断固拒否させてもらう」
なんだその地獄のような関係。
「しかし泡沫様。行きずりの関係も結婚も同じようなものではないでしょうか」
「何言ってんだよ、全然違うじゃねぇか」
「だって結婚というのは男女が一つ屋根の下で好きなだけ子作りしましょうね、という契約のようなものでしょう?」
「お前なんか結婚に恨みでもあるのか……」
「そんなことはありませんよ。私たちは将来結婚するのですから、むしろ私は結婚に関して前向きです」
「当然のようにお前の将来に俺を組み込ませるな」
地獄を通り越して暗闇な未来予想図だった。
お先真っ暗である。
言いつつ、俺は靴を脱ぎ始める。
「靴といえば泡沫様、姉さん女房は金のわらじを履いてでもと言いますよね」
「いや、靴とわらじは別物だし、俺が靴を脱ぎ始める動作でなんでその話題が出てくるのか理解に苦しむんだが」
なんだろう、面白い会話を挟まないと俺は靴を脱がしても貰えないのだろうか。
まあ、ノるけども。
ノってやるけども。
「俺に言わせれば金のわらじを履いた男は嫌だけどなぁ。だって意味がわかんないだろう。なんでお金ををわらじにしてんだよ、もったいないじゃないか」
「泡沫様。金というのはいわゆる通貨の意味ではなく金物、鉄という意味ですよ」
「え、まじで?」
なんということだ、こんなストーカー非常識野郎の前でいかにも現代っ子らしい間違いを晒してしまった。
「いえ、現代っ子でもその間違え方はしないと思いますよ。金をキンと読んでしまう方はいても、金をお金だと思う方はそうそういないかと。新しい発想だとは思いますが」
「嘘だろ……俺、ずっと見栄っ張りで嫌なやつだと思ってたんだぜ……? は、恥ずかしい!」
お金のわらじとか、見せつけてんじゃねーよと思っていました。
「いえ、恥ずかしくなどありません。その発想の転換は泡沫様にしかできないものです。素敵ですよ、泡沫様」
「…………」
もうなんでもいいんだろうな、こいつは。
しかし金のわらじが鉄のわらじの意味だったとは。鉄のわらじということは、今でいう安全靴かな? それはそれで嫌だなぁ。
「でもよ、八重樫。負け惜しみを言う訳じゃないが、キンでもオカネでも意味はそれとなく伝わりそうじゃないか?」
「姉さん女房は見栄を張ってでも、ですか。金も金もお金も、結局姉さん女房がいいという意味になりますから、その通りではありますね」
「だろう? むしろ今風に言うならキンかお金の方が正しいような気もするぜ。もしかしたら先人様は時代の移り変わりも考えて、わざと取り違えるような漢字を使ったのかもしれないな」
「しかしより今風に言うのなら、多分姉さん女房ではなく妹女房になりそうですね」
「そりゃ偉大な先人様も現代の萌え文化までは見通してなかっただろうよ」
あと、いい加減妹ってのも古い気がする。
そんな感じでそんなわけで。
面白いことを挟んだので靴を脱がせてもらえた俺は、八重樫の家にあがり、リビングに入った。促されるままソファに座る。八重樫がお茶を淹れてきたのを合図に俺は切り出す。
「で、八重樫。俺がここに来た理由、もうわかってんだろ?」
「私と子作りを……」
「いや、もう面白い話はいいから」
俺がクールに流すと、八重樫はさして不満そうにするわけでもなく、そうですかと言って黙った。
……いや、黙るなよ。
聞いてるんだから答えてよ。
八重樫は音をたてずにお茶をすする。そろそろ俺が痺れを切らしそうな絶妙なタイミングで彼女は話を始めた。
「――――私としても泡沫様に全てをお話しするつもりではありますが。しかし泡沫様。泡沫様は今回の件についてどこまでの知識を有しているのでしょか?」
「何にもだ。全然まるっきり知らない。あんな化け物の存在を知っているわけがない」
「左様ですか。私も泡沫様をストーキングしていたので、その可能性も考えていなかったわけではありません。全てお話ししましょう」
結論から言ってしまえば、と八重樫は少し声のトーン抑えて言った。
「あの黒は物ノ怪です」
「物ノ怪……?」
「いわゆる妖怪と呼ばれるもののことです」
妖怪。物ノ怪。
何故だろう。あまりに非現実的な答えだが、それはとてもしっくりくるように思えた。
あれはそういうものだった。
「あの黒は物ノ怪で、そして狙いは泡沫様です。いえ、正確には泡沫家の血でしょうか」
「俺の家の血? それが一体どんな関係なんだ」
「泡沫様はご自身の家の、泡沫家の血筋についてご家族から何か説明を受けてらっしゃいませんか?」
「いや、それも何もだ」
あくまでも普通の家だったと俺は認識している。
「……そうですか、ならその当たりの事情から話させていただきます――――」