署内にて
その後の展開は俺の気が動転していたせいもあり、記憶としてはかなりあやふやだ。
とりあえず、怪我人はいなかった。そして、駐車場の車を傷つけたとか、そういうこともなかった。あくまで傷ついたのは部屋の扉だけだった。あとはまあ、俺の心とか、日常とか、そんなところだ。
まず最初に警察が来たと思う。誰が呼んだのかはわからないが、混乱する記憶の中に八重樫が携帯を操作している図があるので、彼女が呼んだのかもしれない。いずれにせよ、警察到着は早かったように思われる。その後は事情聴取と、署に連れて行かれて執拗な取り調べを受けた。どうも彼らは俺が悪戯か何かで扉を吹き飛ばしたものと思っていたようだった。どんな過激な悪戯を行ったらこうなるんだと逆に疑問に思ったが、しかし現実問題そういう風に考えるのが一番理にかなっているのかもしれなかった。まあ、その疑い自体はすぐに晴れたのだが。男とはいえ、一介の高校生が道具も使わずあんな風に扉をひしゃげることはできるはずもないし、強い衝撃ですぐに連想されるのは爆発とかだろうけれど、そういう痕跡ももちろんなかったので、俺に向けられていた疑いは払拭された。
それにしたって証拠不十分で疑うに値しないとされただけで、完全払拭とまではいかないようだったが。
で、警察の取り調べに対して俺が何を話していたかというと……これが正直に言って覚えていない。まさか本当のことを話すわけにもいかないので適当に虚実を織り交ぜていたと思うのだが、しかし俺のことだ。そんな器用な真似なんてせず、案外隠し事もせずありのままに全てを話したのかもしれなかった。その場合、俺は頭のおかしい奴とでも思われたのだろうか。俺の頭がおかしくなって見た幻覚だったというのならば、そっちの方がまだ救いがある気がする。
結局、俺が取り調べを受けていた警察官から「もう帰っていいよ」と言われたのは明け方、日の出直後の四時過ぎのことだった。
警察署で一晩過ごしてしまった……。
取り調べ室からでると、突然声をかけられた。
「お疲れ様です。泡沫様」
そこにいたのは、八重樫なずな。俺のストーカーをしているという女だ。昨夜と変わらず無表情で、機械的な語調で奴はそこにいた。そこというか、取調室の目の前だった。
「……いつからここに?」
「ここというのは、警察署のことでしょうか? それともこの取調室の前のことでしょうか? 前者ならば昨夜から、後者ならば五時間ほど前からです」
私も取り調べを受けていたのです。そう彼女に言われて、俺は思い出した。そうだった、確かこいつも昨日俺と一緒に署まで連れてこられたのだった。乗り込んだパトカーはそれぞれ別だったので、俺の部屋で見たのが最後ではあったが、こいつもこいつで取り調べを受けていたのだ。
でも、五時間前というのはどういうことだ? もしそれが本当だというのなら、少なくともこいつの取り調べは五時間以上前に終わっていたのか。どうも俺は本当に疑われていたようだ。そうなると、俺が隠し事もせずに全てを語ってしまった可能性がいよいよ現実味を帯びてきたぞ。
――いや違うだろう。しっかりしろ、俺。思考を放棄するな、今考えるのはそんなことではなくて、もっと単純な……そうだ、最初に聞いたはずだろう。聞きたかったことは聞けたんだ。
こいつはここで、五時間も前から待っていたんだ。
俺のことを、待っていたんだ。
平常時の俺なら「お前は忠犬か!」とポーズまで含めて張り切ってツッコミを入れるところだが、残念ながら今の俺はお世辞にも平常とは言い難かった。むしろ、もっと滅茶苦茶だ。心も頭もぐちゃぐちゃで、混乱している。
「……とりあえず、座れ」
廊下の自販機の横に椅子があったので、俺はそこに座るように八重樫に言った。彼女は最初、何故か遠慮するように座ることを渋っていたが、もう一度俺が座れと言うと素直に座った。彼女は俺のことを五時間も待っていた。まさか五時間も突っ立ったまま待っているとは思わないが、しかしその反面、この女ならやりかねないと思う自分もいた。だからというわけではないが、俺はとにかく彼女を座らせた。
八重樫が座った、その隣に俺も腰を下ろす。
……すると、会話がなくなった。
そういえば、上京してからはこんな風に異性と二人っきりになることなんて全くなかった。実家にいたころは結構度々あったような気もするが、あの頃の同級生はみんな兄妹姉妹のような関係だったし、異性として捉えたことはなかったかもしれない。つまり俺はあまり異性に対して面識がなく……不覚にも何を喋ったらいいものかわからなくなってしまった。
まあ、それにしたって今の状況を冷静に考えると警察署でストーカーと二人きりという、異性と二人きりなんて甘い響きが間違っても似合わないものなのだが。
一瞬でもドキドキしてしまったことが悔やまれる。
しかし今更ながら、警察署にストーカーって凄い状況だよな。
事情を説明すれば逮捕してくれるだろうか。
「泡沫様。大丈夫ですか。顔色が優れないようですが」
いつの間にか八重樫は椅子から離れ、俯く俺の顔を正面から見るようにして俺の目の前で跪いていた。なんというか、一々演技っぽい奴だ。
「さっきまで取り調べ受けてたんだよ。まるっきり大丈夫なわけがない」
「わかりました。なら泡沫様を取り調べたという警察官の名前をお教えください。今すぐ私が然るべき制裁を加えてきます」
「制裁って、何をするんだよ」
「ズボンのベルトを奪い取ってきます」
「割としょぼい!」
制裁というか悪戯だそれは!
「その後、奪い取ったベルトは湖に投げ捨てます」
「そのまま金のベルトと銀のベルト、どっちがあなたのかとか聞かれそうだな……」
「あなたが落としたのはこの金のチャンピオンベルトですか? それともこちらの銀のチャンピオンベルトですか?」
「チャンピオンベルト一択!」
それ正直に答えたらどっちも貰えるの? うわ、いらねぇ。つーか銀のチャンピオンベルトってなんだよ、二位なのか? 一位と二位を同時に貰えるのか?
「いえ泡沫様。チャンピオンと言っている以上、それは一位のベルトです」
「ああそうか、そうなのか。銀って二位のイメージがあるから勘違いしていたよ」
「ちなみに私が湖に捨てたのは常識で、代わりに頂いたのが泡沫様への愛なのです」
「上手くねぇよ。いいからさっさと湖に潜って常識を拾い上げてこい、このストーカー野郎」
その際、俺への愛も捨ててきてもらえると助かる。
「この金の斧というお話、後に他の木こりが自分の斧をわざと投げ捨て、あなたが落としたのはこの金の斧ですか? と聞かれて「そうです」と答えてしまい、金の斧も銀の斧も貰えず自分の斧すら失ってしまうのですよね」
「ああ、そういえばそうだったけ。なんか花さか爺さんみたいだなぁ、もしくは舌きり雀か」
「舌きり雀は少し違うと思われますが、どこの国でもどこの時代でも、寓話というのは案外似たり寄ったりなものだったりします。しかし泡沫様、シャルル・ペローの書いた赤ずきんという童話はご存知ですか?」
「そのペローさんは知らんが、赤ずきんなら知ってるぞ。赤ずきんを被った女の子が狼に食べられて、たまたま通りかかった猟師に助けてもらうって話だったよな。そのあと、赤ずきんはいい子になったとか」
この話は幼稚園だか小学校だかで必ず目にするだろうが、俺は聞く度に思っていることがあった。
狼なんで丸のみにしたし。
当時の俺が多少捻くれた幼稚園児だったことは認めるが、ただどうしてもこの部分は納得がいかなかった。とんだ踊り食いである。蛇だって生きたままは丸のみしないのに。
それこそ、お婆さんの歯はどうしてそんなに鋭いの? だ。
「はい、その通り。さすが泡沫様、素晴らしい記憶力です」
……これくらいなら割と誰でも覚えていそうなものだが。
八重樫は冗談なのか本気なのかわからない表情で(つまり無表情だ)俺を褒め、そのまま話を続ける。
「ただ、その話はペローが書いたものとは少し違っているのです」
「違うって、赤ずきん自体ペローさんが書いたものじゃねぇのかよ」
「その後も改変が加えられたりするのです。実際最初にペローが書いた作品は元々あった民話を参考にしたもので、そのお話はなんと赤ずきんが狼に食べられてしまったところで終わっています」
「なんだそりゃ、誰も助けてくれなかったのかよ」
「はい。その時点でその作品は終わってしまっているのです。続きは何もありません。可愛い赤ずきんが卑しい狼に食べられてしまい、そのお話は幕を閉じました」
「……なんか、あんまりな物語だな」
特に赤ずきんが悪いことをしたわけではないだろう。卑しくも金の斧を手に入れようとした木こりの方がよっぽどいやらしい。それなのに赤ずきんは命を失い、一方木こりが失ったのは自分の斧だけなのだから。
「理不尽だな」
無意識にそう呟くと、八重樫は大きく頷いてくれる。
「そうですね。このペローの赤ずきんに関しては諸説あり、様々な憶測が飛び交っているんですが、私個人の意見を言いますと、ペローが伝えたかったのはその理不尽さではないのでしょうか」
「理不尽さ……」
「善良なものが救われるとは限らない。狼のような卑しいものが得をすることがある、と」
あくまで私の意見ですけれど、最後にそう八重樫は付けたした。
理不尽さを伝えたいが為の物語。それはまるでこの世の縮図のようにも思えて、
「あまり、いい気分の物語じゃないな」
俺がそう言うと、八重樫は続けて言った。
「そう思われるのは、泡沫様が純粋だからですよ」
八重樫はさっきと何も変わらない無表情だったが、しかし見方によっては穏やかな顔にも見えるような、そんな不思議な顔をしていた。いや、多分これは見る側の問題だろう。正面きってそんなことを言われてしまっては勿論俺は照れる他ないし、単純すぎて申し訳ないが、少しだけこいつがいい奴に見えてしまった。
ストーカーなのに。
常識を湖に投げ捨てるようなやつなのに!
「ところで泡沫様」
突然神妙な面持ちになって八重樫は言う。
「理不尽と貴婦人ってどことなく似ていますよね」
「さっきまでの知的な会話が一転してアホっぽい話題にすり替わっただと!」
そりゃ似てるだろうよ。『理』と『貴』の違いでしかないし、母音も一緒だからなぁ!
「つまり泡沫様はボインが好きなのですね」
「何がつまりなのかわからねぇよ」
「ボインボイン」
「やめろ、さっきまでと変わらぬ顔で言うな。凄くアホに見える」
「ボインボイン」
「繰り返すな!」
「シインシイン」
「それは何が面白いんだ……?」
八重樫なずな。割とボケたがり。
あれ? なんだ。今気づいたが、さっきから普通に会話が続いているぞ。最初はちょっと気まずかったのに、いやでも話題を振ったの八重樫の方からだった。もしかして、気を使われたのだろうか。それともこのストーカーのことだから、俺に気まずい思いをさせてはいけないとでも思ったのだろうか。そう思うと、なんだか少しイライラいた。
そもそもなんで俺はストーカーなんかと楽しく雑談しているんだ。帰っていいよと言われたのだから、早く帰ろう。もう疲れた。自白を強要されたりするような、そういう激しい取り調べではなかったが、それでも体力は消耗している。今は休むべきだ。
「どこにいかれるのですか、泡沫様」
立ち上がり、歩き出した俺の後ろに八重樫は付いてきた。俺は少し歩幅を広くした。
「どこにいかれる? 家だよ家。疲れたんだ、帰って寝たい」
「家というのは泡沫様の家のことですか?」
「当たり前だろ。俺の家だ」
「帰るだけならば構いませんが、帰って睡眠をとりたいのであれば、あまりおすすめはできません」
「はぁ? なんでお前にそんなこと言われなくちゃいけないんだよ」
と、そこで立ち止まり俺は思い出す。そういえば俺の家は壊れてしまっているのだと。多分調査のために警察もいるだろうし、いなかったとしても扉のない開けっ放しの部屋で眠るわけにはいかない。それこそ、言われなくてもわかることだった。
いい加減、いつになったら俺の混乱は収まるのだろう。