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宵闇奇譚

時は、今

作者: 辰巳 結愛

 時は天正10年。時は未だ戦国乱世。様々な武将達が、虎視眈々と天下平定の機会を窺う世でございます。

 如月の早朝。肌寒さ残る空気に混じり、梅の香がほんのりと鼻に届き、鶯の鳴き声も遠くで聞こえ始めた頃。齢50を少し過ぎた頃と見られる武将が、とある城の庭で1人、刀を構えておりました。

 彼の眼前には人型に組まれた藁束が横一列に十ほど並べられており、武将はそれをきつく見据えております。

――この戦乱の世。お館様がこの日の本を統べる日も近い。だが、その日が来るまでは衰えてなどいられない――

 その思いを吐き出すかの如く、彼はふっと短く息を吐き出すと、そのまま刀を振り下ろすのでございます。

 一閃、また一閃と刀が振り下ろされる度、その場にはひゅるりと風を斬った音が響き、更に一瞬の後には藁束達がバッサリと、ちょうど人間の首の位置で2つに断ち割られたのでございます。

 一筋の乱れも無く断ち切られた藁束が、支えを失いドスリと地に落ち、落ちた藁がその場ではらりと散りゆくその様は、あたかも人生の儚さを示しているかの如し。

 全てが美しく断ち切れた事に満足したのか、武将は1つ安堵の息を吐き出すと、ようやくその刀を己の鞘に納めたのでございます。

 ですが刹那。どこからとも無くパチパチと感嘆の拍手が送られたではございませんか。

 思わず周囲を見回すのでございますが、辺りに人影はおろか、人の気配すらございません。あるのはただ、石灯籠と池、そして松の木のみでございます。

 解いた緊張を再び張り詰めさせ、彼は音のする方を向いて刀を抜くと、先程よりも更に険しい表情でそちらを睨み付け……

「何奴!?」

「良い腕だな。思わず見蕩れ、拍手を送ってしまった」

「……(わらし)!?」

 彼の問いに答えるように松の木の枝から飛び降りるようにして現れたのは、齢10前後の童女(わらしめ)でございました。

 上等とは申せませんが、粗末とも言い難い着物は、まるで夜の闇を織って布にしたかのような深い黒。白く抜かれた布の紋様は、簡素な蝙蝠でございましょうか。結いもせずに下ろしただけの黒髪は風にさらりと靡き、黒目勝ちの瞳は真っ直ぐに彼を捉えております。

 刀を向けられていると言うのに、その童女は臆する様子も見せず、むしろ楽しげにくすりと笑うと、ひょいと両手を挙げながら彼の元へトコトコと歩み寄るではございませんか。

「すまない、驚かせるつもりは無かったのだが。あまりにも美しい太刀筋に、賞賛を送ってしまった」

 彼女の物言いは、この戦乱の世故なのでございましょうか。幼い見目に反し、妙に大人びた言葉遣いでございます。

――どこぞの武将の姫か? いや、しかしそれにしては言葉遣いが老成しすぎている。そもそもこんな童は見覚えが無い――

 不審に思いながらも、彼は傍に近寄る童女への警戒を緩めず、きつく睨みつけます。

 自身に気取られる事なくこの城に入り込んだ事、こちらに怯える事なく歩み寄ってくる事。

 これらの事から、眼前に立つ童女が、ごく普通の童女であるなど誰が思えましょう。もしかすると、彼の主を亡き者にする為に送られてきた刺客やも知れぬと警戒するのは、至極当然の事でございました。

 しかし、童女はそれ程の敵意を向けられてもなお、然程恐れる様子も見せずに彼に近寄るではございませんか。

 流石に彼も不気味に思ったのでございましょう。知らぬ内にジリと半歩下がりつつ、童女に問うたのでございます。

「お主はこんな所で何をしているのだ? どこの童だ?」

「そう問われると答えに困るな。端的に言えば、迷ってここに入り込んでしまった」

 彼の問いに、困ったように童女は笑い……しかし唐突に、ふらりと足元をふらつかせ、その場に膝をついたではございませんか。

 その様子に、流石に彼も驚いたのでございましょう。ぎょっと目を見開き、慌てて童女の体を支え起こすのでございました。

「おい、童!?」

「…………最近何も口にしていないのだ。空腹で目が回る」

 言われてみれば、確かに。童女の体はこの年頃の娘にしては妙に軽く、また顔色も少し青いように見受けられるではございませんか。

 本当に飢えた子供程痩せこせている訳ではございませんが、空腹であるのは嘘ではないらしく、彼女の腹の虫は小さな鳴き声を上げ、更に彼女の目はどこか虚ろに泳いでおります。

――服装からして、百姓や商人の子とは考え難い。名のある武家の子と言う訳でも無さそうだが――

 刺客の可能性も捨てきれぬ以上、このまま見捨てるべきかと一瞬本気で悩んだのでございますが、彼も人がよろしいのでございましょう。心底困ったような表情を浮かべると、懐から麦飯を握った物を差し出したのでございます。

「……こんな物くらいしかないが……食うか?」

 その手の内にある薄茶色の塊に、彼女は何を思ったのでございましょう。

 困ったような笑みを浮かべたまま、童女は小さく首を横に振ると、彼の手を掴み、こう言葉を紡いだのでございます。

「……君、どこかに真新しい傷があるな?」

「あ、ああ。先程鍛錬の準備中、誤って藁に指を刺してしまってな。しかし、よく気付いたな」

 不審に思いながらも、彼は童女に向って未だ少し血が流れている左手の指を差し出して、それを見せたのでございます。

 それを見止めるや、童女は口の端を僅かに吊り上げ……

「それで良い。悪いが君の血を少し貰う」

 そう言うが早いか、童女は唐突に彼の傷口をぱくりと咥えたではございませんか。

 何をされているのか理解できず、彼はきょとんと目を見開き……しかし次の瞬間、その指先に微かな痛みを感じたのでございます。

 とは言え、噛まれた様な鋭い痛みではなく、どちらかと言えば傷口を吸われた時の様な鈍い痛み。いえ、「様な」ではなく真実吸われているのだと気付くと、彼は慌てて童女の体を引き離したのでございます。

「お、おい! 何をして……」

「なに、消毒……と言うより治療だ。自身の血を舐めるのは体に良くないし、血を無駄にするのは勿体無い」

 彼の言葉に、童女はにこりと笑って返します。

 確かに、傷は唾をつけておけば治ると申しますが、彼女はそれを実践したと言うのでございましょうか。

 不審に思い、彼は先程まで童女に咥えられていた指を見つめ……そして、呆気にとられました。

 それもそのはず。先程までまだ血が滲み、雫を作っていたはずの指先からは、そんな傷など最初から存在していなかったと言わんばかりの様子で、血の痕や傷口はおろか、痛みまで消えてなくなっていたのですから。

「な……なんだ、これは!? 童、何をした!?」

「ちょっとした礼だ。だがまぁ……それもすぐに忘れるだろうが」

 言葉と共に浮かべた、年に見合わぬ童女の奇異な笑みに、彼は思わず慄き後退るのでございますが、彼女はそんな彼を追うようにして前に進むと、彼の眼前に手をかざし……

 そして直後、彼の視界は眩い光によって真っ白に染まったのでございます。

「うっ……」

 あまりの眩さに、彼は思わず目を閉じ……そして次に目を開けた時には、いつもと同じ風景が広がっていたのでございました。



 さて、その翌朝。

 彼は昨日同様、藁束相手に刀を振るい、そして全てをバッサリと切り落とした頃。

 ふと視線を感じ、恐る恐ると言った風にその視線の出所を辿ってみると……昨日と同じ松の木の枝の上。そこに昨日の童女が、足をぶらぶらとぶらつかせながら、楽しげに彼を見ているではございませんか。

 その事に驚き、彼はぎょっと目を見開くと、刀の先を童女に向け、緊迫した声で問うたのでございます。

「童!? 何故(なにゆえ)またここにいる!?」

 その言葉に、今度は童女が驚いたかのように軽く目を瞬かせると、軽く首を傾げながらも彼を真っ直ぐに見つめ返し、彼の問いには答えず、全く異なる問いを返したのでございます。

「君は、昨日私がここに来た事を覚えているのか?」

「当たり前であろう。俺とてそこまで呆けておらぬ。答えよ童。お主昨日、俺に何をした? 何故お主が口を付けた傷が塞がった? その後の光は何だ?」

 矢継ぎ早に投げた問いに、童女は大きな目を更に大きく見開くと……直後、松の枝に座ったまま、腹を抱えて笑い声を上げたのでございました。

「フフ……ははっ! これはまた、稀な人間に見つかったものだ」

「何故笑う!? 俺の問いに答えぬか!」

「いや、すまない。君のような存在に会うのは初めてだったものだから、つい嬉しくてな」

 笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を軽く拭い、童女は何かを言おうと口を開きかけ……しかし直後、やはり見目に見合わぬ程鋭い視線を彼の後ろ、正確には城の廊下に当たる部分に送ると、そのまま無言で己の身を隠すように松の枝の合間に身を潜めたのでございます。

「おい、童!」

「キンカ、貴様そこで何を騒いでおる?」

 童女を追おうと手を伸ばし、声を上げた刹那。

 先程彼女が視線を送った辺りから、低く、そして威厳に満ちた声が響いたのでございます。

 そして彼は、その声の持ち主をよく存じておりました。

 それは、彼自身の主であり、そして今、最も天下に近いとされる存在。「武家によって天下を布く」を旗印に持つ、残酷で傲慢で、そしてそれでも敬意を払わずにはいられない魅力を持った人物でございました。

 慌てて主の方へ振り返り、膝を折ると、深々と頭を下げたのでございます。

「お館様! ……申し訳ございません」

「何者かと話しているように聞こえたが? ……誰もおらんではないか。何だキンカ、疲労でとうとう我に見えぬ物が見えるようにでもなったか?」

「あ、いえ。…………ただの独り言にございます」

 嘲笑うかのように軽く口の端を吊り上げる己の主に対し、彼は何故か童女の事を伝える気にはなれず、思わず偽りを述べてしまうのでございました。

 仮に童女の事を伝えた場合、彼女が主の癇に障って折檻される可能性も、否定できないのでございます。

 怪しげな存在とは言え、幼さ残る力なき女子(おなご)。それが、身の毛もよだつ様な折檻を受ける様など、想像したくもございません。

 そんな彼の思いを見抜いているのか、それとも本当に彼の言い分である「独り言」だと思ったのかは定かではございませんが、彼の主はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、くるりと彼に背を向け言葉を投げたのでございました。

「フン。朝も早くからよく騒ぐ。……人生50年。キンカ、貴様の人生も終幕が近いのではないか? 見えたのはあの世の使者とやらであろう」

 蔑むような目で彼に一瞥を送ると、そのまま彼の主はドスドスと不快そうに廊下を踏み鳴らしながらその姿を奥へと消したのでございました。

 少し前なら、主の先の言葉もふざけ混じりの物に聞こえた事でございましょうが、近年の主の様子は明らかに異様と言う他ございません。今はただ、本当に蔑んでいるとしか思えぬその口調に、彼自身、何か不興を買ったのではなかろうかと怯える毎日でございました。

――以前はああではなかった。以前は……――

 主と仰ぐ様になって13年。かつての面影は何処(いずこ)に消えたのかと、嘆息混じりに昔を懐かしんでしまうのでございます。

 そして過去の思い出に耽りかけた刹那。彼の眼前に、先の童女が「降って来た」のでございます。

 恐らくは隠れていた松の枝から飛び降りたのでございましょうが、その足音は酷く軽く、よもや本当にあの世の使者なのではなかろうかと、思わず彼は勘繰ってしまうのでございました。

 そんな彼の勘繰りなど気にも留めず、童女は不思議そうに首を傾げると、彼に向って言葉を紡いだのでございます。

「キンカ、と言うのは君の名か?」

「名ではない。それはお館様がお付けになったあだ名だ。はじめてお会いした時、俺の額が禿げ上がっていたのでな。禿頭を意味する『キンカ』と呼ばれるようになった」

「……あまり良いあだ名とは思えんな。馬鹿にされているようにしか思えん」

「あのお方は気に入った者にあだ名をお付けになるんだ。他にも『禿鼠』と付けられた者もいる」

「気に入っているのか悪意ある虐めなのかわからないな」

 溜息混じりに言う童女の言葉には言葉ではなく苦笑を返しながらも、彼は気を取り直すかの如く1つ息を吐き出すと、再度彼女に問いを投げたのでございます。

「改めて問おう。瞬く間に傷が塞がったのは何故だ? その後の光は何なのだ? 昨日の事だ、忘れたとは言わせぬ」

 昨日から、気にかかっていたのでしょう。

 跡形もなく消えた傷、彼女の掌から放たれた強烈な光、そして何よりも気にかかるのは、神出鬼没な彼女の正体でございましょう。

 それが童女にも伝わっているのでございましょうか。彼女は困ったように小さく笑うと、こんと足元に転がる石を蹴り、俯きがちに答えを返したのでございます。

「傷は、私の飢えを満たしてくれた礼に治した。そしてその後、君に見せた光は私と出遭った事を忘れさせる物だったんだ。……本来なら」

「何?」

「人の血を糧に生きる者の存在など、気味が悪いだけだろう? そんな者に遭ったと言う記憶を君の頭から消そうとしたんだが……どうやら君は、記憶操作を受け付けない類の人間らしいな」

 童女の言葉の意味を、彼は一瞬理解する事が適いませんでした。

 しかし、それも当然と言えましょう。彼女の言葉は、常人である彼の理解を超える物なのですから。

――傷を治した? 出遭った事を忘れさせる光? 何より、人の血を糧に生きる、だと?――

 もしもそれが……「人の血を糧に生きる」と言うのが真実ならば。

「よもや貴様、童の姿を模した物の怪か!? 俺を喰らうつもりか!?」

 鞘に納めたはずの刀を再び抜き放ち、目の前に立つ「童女」の首筋にその刃をひたりと当てます。しかし童女はそれに臆した様子もなく、相も変わらず困ったような笑みを浮かべたまま、彼を真っ直ぐに見据え……

「物の怪である事は否定しないが、別にこの姿は模した物ではない。私は齢10の時に時間……成長が止まったのだ。そもそも私が必要とする血の量は、余程の事でも起きない限り、1日に1滴で事足りる」

「それを俺が信用すると思っているのか?」

「……いいや、全く。生まれてから110年近く経つが、これまでこの話をして、それをすぐに信用した人間は片手で数えられる程度だ」

 きつく睨みつけるような彼の目を真っ直ぐ見返しながら、童女は首に当てられた刃を抓み、押し返すのでございます。

 その力の強さは、物の怪である事の証でございましょうか。抓まれているだけだと言うのに、渾身の力を込めなければ、あっと言う間に押し返されてしまいかねません。

 童女が力をかける方向を変えれば、おそらく彼の愛刀はあっさりと圧し折られてしまうでしょう。

「……本当に貴様、1日1滴の血で生き延びられるのか?」

「怪我をして自身の血を流す、あるいは望月の晩に成長した直後でない限り、1日1滴で充分だ。そうでなければ、昨日のうちに君は命を落としている。……そうは思わないか?」

「う、む……正論では、あるな」

 唸るように答えつつ、彼は刀に込めていた力を抜くと、まじまじと童女を見つめ返します。

 確かに彼女の言う通り、その気であれば昨日の内に彼はその身に流れる全ての血潮を喰らい尽くされていた事でございましょう。しかしこうやって生きており、なおかつ件の童女と再び相見えていると言う事は、彼女の言葉全てが嘘と言う訳ではないと言う事なのでしょう。

 しかし俄かに信じ難いのも事実。おまけにここ数ヶ月、領内では若い娘が全身の血を抜かれて亡くなると言う出来事も多発致しております。

――正論だが、捨て置く訳には行かぬも事実、か――

 刀を握る手から力を抜き、それは深い溜息を1つ吐き出すと、彼は空いている手で童女の肩を叩き……

「童、名は?」

「聞いてどうする?」

「貴様を完全に信用した訳ではないからな。手元に置いて監視させてもらう」

 彼のその言葉に、童女は一瞬呆気に取られたようなぽかんとした表情を浮かべ……しかし直後、抓んでいた刀を離しつつ心底楽しげに笑ったのでございます。

「はははっ。そうか、監視か。……構わんよ。どうせ行くあてのない身だ。監視でも何でも、一箇所に留まれるのはありがたい」

 ほっとしたように言うと、彼女はその小さな手を前に差し出し……

「私の名は、あやめと言う。かく言う君の名は何なのかな?」

「光秀だ。明智光秀」

「そうか。では、よろしく頼む、明智君」

 差し出された手を握り返し、彼……明智光秀は、あやめと名乗る物の怪の娘の監視を始めたのでございました。



 そして、あやめを己の監視下に置いてから間もなく三月半が経とうかと言う皐月も末。

 出逢った頃の肌寒い空気は、今や夏の訪れを予感させる熱を孕み始めておりました。

 あやめを監視してはいた物の、その後も「血を抜かれた亡骸」は一向に減る事はなく、近隣の娘達は皆、怯えて暮らすようになっておりました。

 監視開始から一月が経った頃には、既に光秀のあやめへの嫌疑は晴れておりましたので、今も「監視下にある」という言い方は正しくはないのかも知れません。現に、今の光秀とあやめの関係は、「監視する者とされる者」から、「相談する者とされる者」へと変化しているのでございますから。

 そして今も、光秀の屋敷にある茶室にて、彼はあやめを相手に茶を点て、愚痴を漏らしていたのでございます。

「随分と疲れているようだな、明智君。……茶が濃い」

「……いつも通り点てたつもりだったんだが……濃かったか、あやめ」

 軽く眉を顰め、本来なら持ち帰るのが礼儀である落雁を口にするあやめを見て、光秀は疲れたような笑みを返します。

 顔には疲労の色が濃く浮き上がり、動きにも精彩と言った物が見受けられません。

「そんなに徳川君の接待役を解かれたのがしんどいのか?」

「いや、それは仕方あるまい。羽柴殿の備中攻めの援軍を出すは、お館様……信長様の天下布武の為にも必要な事」

 天下布武。「武家政権によって天下を布く事」を意味する言葉でございますが、近年の彼の主……織田信長の苛烈な行動から、「武力によって天下を布く」と言うように、俗世からは思われておりました。

 そして、光秀もまた。

 意味の見出せぬ「苛烈な行動」を理解できず、悩んでいたのでございます。

「……だが、近年のお館様の言動には付いて行けんのも事実だ……」

「一通り調べさせてもらった。近距離で直接会った事は無いから真偽の程は不明だが、噂では確かに、織田君の行動は行き過ぎている部分が多いようだな」

 深い溜息を吐く光秀を前にしながらも、あやめは落雁をぽりぽりと齧りながら言葉を返しました。

 いつもならば「様をつけろ」と怒るところでしたが、その気力もないのでございましょう。光秀は新しい茶器に抹茶を落とし、沸かした湯をそこに注ぎ込みながら彼女の言葉に耳を傾けるだけでありました。

「直近では卯月だったか。安土を空けた織田君が翌日まで戻ってこないと思った侍女達が、勝手に城を抜けて桑実寺へ詣でに行ったり、城下町へ遊びに行ったりなどし、夜になって戻ってみれば、そこには怒り狂った織田君がいて……」

「出かけた侍女達を縛り上げ、その全てを斬り殺されてしまわれた」

「噂では、侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老をも殺した、などと聞いているが」

「それはあくまで噂だ。長老に関してはお叱り程度に留められていた」

 カシャカシャと茶筅で茶を点てる音を響かせながら、光秀は信長を擁護する言葉を放ちます。

 しかし、否定したのはあくまで「桑実寺の長老殺し」のみ。侍女には死という処罰を与えたのですから、やりすぎと言えなくもございません。

 無論、勝手に城を抜けた事は許される事ではございませんが、殺す程では無かったのではないかと、光秀も心の底では思っておりました。

「あとは、何だったか。確か茶坊主の不手際を怒り、箪笥の下に隠れた茶坊主を殺したとか、敵将の髑髏に金箔を張って杯にしたとか言う話も聞くには聞くが……」

 そこまで言うと、あやめは出された茶器を、礼儀に則り静かに回し、茶器の渋みある色合いと抹茶の緑に目を落としながらも、そのまま言葉を続けます。

「私の一族の始祖も、敵国の戦意を喪失させる為、あえて罪人、敵兵を林の木に串刺しにしたと聞いている。それに負けず劣らずと言った所だな」

百舌鳥(もず)の早贄か!? 斯様に恐ろしげな事、いくらお館様でもせんわっ! 髑髏の薄濃(はくだみ)は死者への敬意を示す為の処置であるし、そもそもお館様は酒を召されん!」

「まあ、それはさて置き」

 光秀のツッコミを、茶と共に軽く飲み干して、あやめはことりと畳の上に茶器を置くと、真っ直ぐに光秀の目を見つめて言葉を放つのでございました。

「彼の人物の行動は始祖同様、敵国の戦意喪失を狙っているようにも見えるし、ただ暴走しているようにも見える。……如何とも言い難いな」

「如何とも、とは?」

「時に人は、闇に魅入られ、ヒトをやめ、私達のような物の怪……『闇の者』と呼ばれるソレに変化する事がある。そう言った存在を堕した者……堕人と呼ぶのだが」

 あやめのその言葉に、光秀ははっとしたように目を見開くと、そのまま軽く眉を顰めるのでございます。

 彼女の言わんとしている事は理解出来ます。理解は出来ますが、認める事は出来ません。それを認めてしまっては、彼が信じていた物が、根底から覆されてしまうような気がしたのでしょう。

 それでも、声に出さずにはいられないのが人の性なのでしょうか。光秀は恐る恐ると言った風に口を戦慄かせ……そして真っ直ぐにあやめを見つめて言葉を紡ぐのでございました。

「まさか、お館様がそれだとでも言う気か?」

「……可能性の話だよ、明智君。何しろ未だ『血を抜き取られた亡骸』の件は解決していないのだろう? 私ではないのなら、別の『闇の者』である可能性が高い」

「だからと言って、お館様を疑うなど……」

「侍女を殺しておきながら、桑実寺の長老は生かす。…………女の血は必要だが、男の血は不要と言うように取れなくもない」

「……穿った見方だ。根拠がない」

「だから、可能性だ。そうだと決まっている訳ではない。…………結構なお点前で」

 徐々に険しくなる光秀の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、あやめは冷静に……聞きようによっては冷淡に言葉を返し、そして先程出された茶器もまた、差し出すように返すのでございました。

 光秀も、自身の顔が険しくなっているのを気付いていながら、それを隠す様な事は致しません。

 あやめに隠しても無駄だと言う事は、この三月半の間で充分に理解しておりますし、何よりも自身が敬愛して止まない信長の事。

 彼は確かに厳しく、そしてかっとなりやすい性格ではございますが、誰よりもこの日の本の事を考えている人物。約束は必ず守りますし、何人であろうと個性を重んじ、古く荒廃した物に対しては打ち壊してそこに新たな物を作る……義理堅く、この戦乱の世においてはひどく革新的な人物である事を、光秀は充分に存じております。

 それでも、どこかで彼女の言う「可能性」を受け入れているのでしょうか。思い返せば確かにと納得できるだけの要素がある事も確かで……

――俺は、何を考えているんだ。お館様に不審を抱くなど――

 あってはならない、あるはずがない。

 思いながらも、光秀の心では徐々に……しかし確実に、不安にも似た信長への不信感が根付いていくのを止められませんでした。

 信じたいと言う気持ちと、信じられないと言う気持ちに挟まれ、自分でも何を考えているのかわからなくなりかけた刹那。光秀の頭を、あやめがその小さな手で軽く撫でたのでございます。

「……何をしておる」

「まあ、存分に悩むが良い。悩むのは若者の特権だ、明智君」

「若くもない。俺は既に50を越えている」

「私に言わせれば若い若い。君は私の半分も生きていないではないか」

 端から見れば童でしかないと言うのに、あやめの浮かべる笑みはその言葉通り、それまで生きてきた年数に裏打ちされた絶対の自信があるように見受けられます。

 それが見目と一致せず、ちぐはぐな印象を抱かせるのですが……何故でしょうか、光秀はそのちぐはぐさに、癒されるような気になるのでございました。

――癒されるなど……俺はよほど疲れているのだな――

 自嘲気味に思いながら、あやめに撫でられる心地良さにゆっくりと瞼を下ろしたその瞬間。

「キンカ! どこに居るか!」

 傲、と屋敷全てに響き渡るような怒声が響き、光秀は落ちかけていた瞼を持ち上げると、ぎょっとしたように茶室の小さな入り口を見つめ、更にはあやめを自身の後ろに隠したのでございます。

 反射的な行動ではございましたが、それは恐らく正解だったのでしょう。あやめが光秀の背後へ消えるように隠れてしまったのと、茶室の小さな入り口が勢い良く開いたのはまさに同時。

 入り口からは目を血走らせ、威圧感全開にした男……光秀の主である織田信長が顔を覗かせているではございませんか。

 彼はゆっくりと茶室に踏み込むと、周囲を見回し……そして、光秀の手元に残る茶器に気付いたのでしょう、かっと目を見開くと拳をきつく握り、近くの柱にその拳を叩きつけたのでございます。

 その拳故、柱からはバキと言う鈍く大きな音が響きます。しかし信長はそれよりも更に大きな声で、光秀に向って怒鳴り散らしたのです。

「茶など嗜んでおる場合か貴様! 早う禿鼠の元へ行き、備中を落とせと命じたはずであろう!」

「も、申し訳……」

「腐っているのは魚ではなく貴様の頭の方だったようだな。この大(たわ)け者がっ!」

 信長は顔を真っ赤に染め上げて斯様に怒鳴ると、そのまま足を振りぬいて光秀の頭を蹴り飛ばしたのでございます。

 唐突な出来事故、対応しきれなかったのでしょう。光秀はその蹴りを思いきり喰らってしまい、口の中で小さく呻きながら、茶室の壁に叩きつけられるのでございました。

 当然、光秀と言う「壁」がいなくなった事によって、その後ろに隠されていたあやめの姿が顕わになり、信長の視界に入ります。

 そしてあやめもまた、光秀が蹴り飛ばされた事により、よりはっきりと信長の顔を見つめる事が出来るのです。いえ、この場合、「見つめる」と言うよりは「睨みつける」と言った方が正しいでしょうか。あやめの目は光秀がこの三月半の間で見た事ない程鋭く、普段は微笑を絶やさぬ口元は、珍しく真横に引き結ばれているではございませんか。

 しかし、信長は「普段のあやめ」を存じません。今の彼女の表情を緊張で強張っていると受け取ったのでございましょう。小さく鼻を鳴らすと、未だ部屋の隅で小さく呻く光秀に視線を向け、またしても小ばかにしたような声で言葉を放ったのです。

「何を隠しているのかと思えば、ただの小娘ではないか。こんな小娘に茶の湯の奥深さが理解出来るとも思えん。……やはり貴様の頭は腐っているようだ」

 その言葉に、何を思ったのでしょう。深い……そして不快そうな溜息を吐き出したのは、あやめでございました。

「……接待用の魚が腐っていると難癖をつけて、明智君を接待役から外したとは聞いていたが……随分と横暴な男のようだな、君は」

「なにぃ?」

「凄んだ所で無駄だ。……君の事など、微塵も怖くない。むしろ、哀れに思うくらいだ」

 光秀から自身へ、今度は怒りの篭った視線を向けられたものの、あやめはそれに臆した様子も見せず先同様きつく睨むような視線を返しております。

 そんな彼女の態度が、心底不快だったのでしょう。信長は再び足を上げ、今度はあやめに向ってその足を振り抜いたのでございます。

 しかしながら、あやめは事も無げにその足を軽く払い、蹴りの軌道を反らすのでございました。

 結果、信長の足はあやめの前の畳を蹴る形となり、あやめは相変わらずその場にちょこんと座ったままと言う、奇妙な構図となったのです。

 自身の蹴りを払われた事で、更に怒りが込み上げたのでしょうか。信長の顔は、茹でた蛸の如く真っ赤に染まり、あからさまな殺意を孕んだ視線をあやめに向け、一方で向けられた方はそれを真っ直ぐに受け止め、先の言葉通り哀れんでいるような表情を向けているのでございました。

 しばしの沈黙が、狭い茶室を支配いたします。そして、それを破ったのは……信長の方でございました。

 ふいとあやめから視線を外し、小さな入り口に向って不快そうな足音を鳴らして歩くと、出て行く直前に光秀に向き直り……

「良いか!? 我の天下布武は間もなく完成される! それを斯様な所でモタモタと……早々に支度をし、今宵の間に出陣せよ! 良いな!?」

「は、はっ」

 先の蹴りで中を切ってしまったのでしょうか。微かに口の端に血を滲ませつつ、光秀は去っていく信長に頭を下げ、その背を見送るのでございます。

 そうして、どれほどの時間が経ったでしょうか。信長の気配が完全に消えると共に、光秀はほうと安堵の溜息を1つ吐き出すと、未だ信長が消えた方を睨みつけるあやめの前に座るのでした。

「まったく。お館様に喧嘩を売るような真似をして……斬られてもおかしくはなかったぞ!?」

「……明智君、君にとって…………実に残念な知らせがある」

「残念?」

 光秀の説教めいた言葉には反応せず、あやめは全く別の言葉を、感情の読めぬ声で放ちます。

 そして、その言葉に、その声に。何か嫌な物を感じ取ったのでございましょう。光秀は無意識の内にごくりと息を飲み込むと、居住まいを正して彼女の言葉を待つのです。

 信長が現れる前までの会話を思い出し、そしてそんなはずは無いと、心の内で否定しながら。

 ですが、あやめが直後口にしたのは、そんな光秀の願いにも似た思いを打ち砕く、非情なる一言でございました。

「君の主である織田上総介信長。彼は既に『闇の者』と化している。それも恐らく……吸血鬼だ」

 その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、光秀は自身の顔からざあっと血が引いて行く音を聞いた気が致しました。

 目の前は闇に染まり、口の中は血の気と共に唾液も引いたのかカラカラに乾き、底のない穴で永遠に落下していくような感覚を覚えます。

 これは、悪い夢ではなかろうか。誰よりも気高い主が、「闇の者」……それも、人の血を啜って生きる存在と化しているなど、信じられようはずもございません。

 しばしの間光秀は、瞬きはおろか呼吸すらも忘れ、視線をあやめに固定したまま硬直していたのでございます。

「何を、言って……」

 ようやく口から出た言葉は、恐らくは無意識の産物。あやめを見つめる目は未だ焦点が合っておらず、掠れた声は自身にも聞こえないほど小さい物でございました。

 それでもあやめの耳には届いていたのでしょう。彼女は軽く顔を顰め、言葉を返すのでございました。

「彼の者の呼気から、酷く濃い血の臭いがした。新しい血と、古い血……両方混じった嫌な臭いだ」

「そんな、馬鹿な事がある物か。仮に血の臭いがしたとしてそれは……そうだ、刺身を食されたに違いない」

「この暑い時期、それも君に対して『魚が腐っているから捨てろ』と言った男が?」

「魚ではないかも知れんぞ? 牛馬の血は滋養に良いと聞く」

「それならせいぜい杯に一杯程度だ。呼気から感じられる程の臭いにはなるまい」

「ならば……」

「明智君! 認められない、己の主を信じたいと言うのなら私は別に構わん。だが私にとって、もはや彼の存在は放置出来ん所まで来てしまっている」

 あやめの射抜くような視線と、確固たる意思を感じさせる声に、光秀は辛そうに眉を顰め……俯き、拳を握り、そしてその肩を振るわせるのでございました。

 恐らくは、泣くまいと決意し、目に浮かぶ涙を堪えているのでしょう。俯いたまま絞り出すように吐かれた彼の声は、微かに震えておりました。

「では、近年のお館様の暴挙は……」

「堕したが故の暴走。そう考えるのが最もしっくり来るだろう。あるいは、血を欲したのかも知れん」

「どうして、そんな事になる!? 人はいかな時に堕すと言うのだ!?」

「人が抱く負の感情……怒り、嘆き、哀しみ、憎しみと言った物が、ヒトと言う器では支えきれなくなった時、人は変質し、『闇の者』へと堕す。『吸血鬼』へ堕し易い感情は『傲慢』。仮に元が傲慢でなかったとしても、周囲が(おだ)てれば慢心は成長し、やがて傲慢に変わる」

 悲鳴にも似た光秀の声に、あやめは彼女が知る事実のみを言の葉に乗せ、淡々と返すのでございます。

 そして、その言葉に。光秀は更に深く俯き、全身を悲しみで震わせます。

――煽てた事がお館様を「変えてしまった」原因なら、責は我ら家臣全員にあるではないか――

 きつく己の唇を噛み締め、心の内で酷く後悔のです。

 それを声に出さないのは、頭の片隅ではまだ、信長が「闇の者」となっている事を認めたくないからなのでしょう。

 それでも、認めざるを得ないと思ったのか。彼は数回深呼吸を繰り返すと、やがてゆっくりと顔を上げ……何かを決意したような目で、あやめを見つめ返したのでございます。

「あやめ、もし……もし、お前の言う通り、お館様が闇の者と化しているのだとしたら。その亡骸は、どうなる?」

「吸血鬼の亡骸は残らない。塵となって消えるのみだ。ましてあそこまでの変異とあらば、吸血鬼でなくとも闇と帰すだろう」

「…………そう、か」

 あやめの答えに、何を思ったのでしょう。光秀は天を仰ぎ、そして大きく息を1つ吐き出したのでございます。

 その表情に、先程までの嘆きはございません。むしろ安堵に似た色が浮かんでいるのが見て取れます。

「君が安堵しているように見えるのは、気のせいかな?」

「実際、安堵している。もしもお館様の亡骸が見つかれば……織田は瓦解しかねん。良くも悪くも、お館様は織田の支えだ。『生きているかもしれない』程度が、あのお方にはちょうど良い」

「…………君が事を起こせば、謀反人と呼ばれる」

「下剋上。それがこの戦国の世の常よ。誰もが虎視眈々と上の座を狙っている。……周囲には、そう思わせておけば良い」

 フフと軽く笑いながら、光秀はゆっくりと立ち上がると、いっそ清々しいまでの笑顔を浮かべ、言葉を続けるのでございます。

「端から見て、俺は下剋上を為すに近い位置にいる。それに、近年のお館様からの仕打ちを見れば、恐らく『怨恨による謀反』と考えるに相違ない」

「天下に最も近い男を葬る……何も知らぬ者からすれば、大罪人と同じだな」

「お館様の暴走を止める為なら、いかなる汚名も被る。それが、お館様の異変に気付く事の出来なんだ俺への罰。それに、後の世で何を言われても構わん。どうせ死した後の事」

 そして……彼は笑みを浮かべたまま、あやめを残して茶室を後にしたのでございます。

 ……己の敵を討つに必要な、戦支度を整える為に……



 そして、その数日後。月は皐月から水無月に変わって二日目の夜。

 京、本能寺にて、その謀反は起きたのでございます。

 光秀が用意した兵は一万三千。対する信長の配下は、百程度でございました。

 数の上で圧倒的不利を強いられた為でしょうか。信長は寺に火を放ったのでございます。

「この劫火よ。これならば如何なキンカとて、我を追う事は出来まい」

 燃え盛る炎に囲まれながら、信長は汗1つかいた様子も無く、楽しげに笑うのでした。しかし奇異に思えるのは彼の口元。そこには八重歯と言うにはあまりにも尖りすぎた歯が覗き、唇には(べに)とは異なる「赤」が薄くついているではございませんか。

 更に信長の傍らには、驚きに目を見開き、首から微かに血を流している女性(にょしょう)の骸が無造作に転がされております。

「クックック……今宵の月はいやに紅い。……美味そうな血の色ではないか」

 焼け落ちた天井越しに見える月を見上げ、信長はニヤリと口の端を歪めて言葉を紡ぎます。

 炎の色が映っているのか、それとも見える月の色が反射しているのか、信長の瞳もまた、真紅に染まっているように見受けられるのです。

 堪えきれぬように喉の奥で笑い、周囲から聞こえる怒号をうっとりと聞き入る彼の様は、まさに人にあらざる者。彼は間違いなく、この状況を楽しんでおりました。

 ですが。

 彼の気分を害すかのごとく、呆れたような声がその場に響いたのでございます。

「今宵は本来なら朔日だ。あの月が見えると言う事は、やはり貴様は既に人ではないな」

「何奴!?」

 いい気分を邪魔され、彼は声のした方へ槍を構え直します。その先に立っていたのは、宵闇をそのまま着物にしたような「黒」を纏い、呆れたような視線を向ける童女。

 その顔に微かに見覚えがあるのか、信長は一瞬だけ顔を顰めると、すぐに不快そうにその顔を歪めたのでございます。

「貴様……確かキンカの所にいた小娘だったか」

「そうだ。明智君には随分と世話になったからな。……彼の望みを叶えに来た」

 言うと同時に、童女……あやめは、信長の横で事切れている女性に視線を送り、その顔を僅かに歪ませたのです。

 女性の肌着に縫いとめられている、蝶の紋様を目に止めて。

「奥方の幼名は帰蝶だったな。貴様……己の奥にまで、その牙を突き立てたか」

「濃は我にとって、ただの非常食に過ぎぬ。我の為にその血を、命を捧げたのだ。濃もあの世で喜んでおるわ」

 信長の答えに、あやめはますますその顔を歪めると、女性の傍らに跪き、見開かれた目をそっと閉じたのでございます。

――死してなお、己の夫の暴挙は見たくなかろう――

 心の内でのみ話しかけつつ、彼女は信長を見やる事なく心とは全く異なる言葉を投げるのです。

「……貴様の目的を聞かせてもらおう。貴様の言う『天下布武』とは、何を意味する?」

「この日の本を、百鬼夜行率いる『闇の者』の国にする。闇と言う武によって、この天下を恐怖に落とす。それが我が野望よ」

「……成程、傲慢な事だ。故に、吸血鬼に堕したのだろうが」

 呆れたような声を上げ、彼女はゆっくりと立ち上がると、再び信長に視線を向けます。ですが、その瞳に宿るのは先のような呆れではなく……哀れみでございました。

 その変化に信長は気付いていないのでしょう。フンと鼻で笑うと、彼はあやめの首筋に槍を付きつけ、言葉を紡いだのでございます。

「この劫火の中、汗1つかかずに佇んでいる貴様も、我と同じ『闇の者』であろう? どうだ? 我に協力する気はないか?」

「悪いが断る。斯様な怨嗟と怨念に満ちた世界など、地獄と同じ」

「我に逆らうか。ならば……死ね!」

 言葉と同時に、突きつけていた槍を思いきり前に突き出す信長。ですがあやめは、軽く体を捻ってそれをかわすと、穂先に近い槍の柄を掴み、バキリと折ったのでございます。

 流石にそれには驚いたのか、信長は一瞬ぎょっとしたように目を見開き……しかしすぐに脇に差していた刀を抜き払うと、それを彼女に向って振るうのでした。

「その小さな体で! 何の武器も持たず! 『闇の者』と化した我に勝てると思っておるか、小娘!」

 信長が刀を振るう度、空を切る音が炎の爆ぜる音に混じってあやめの耳に届きます。

 ですがあやめは、その全ての剣撃を、時に身を捩って、そして時に宙を舞うように飛び上がってかわすのでございます。

「普段なら恐らく勝てまいよ。だが、貴様も見ただろう? 今宵は嘘のような血色の月が……(アヤカシ)の為の月が昇っている」

 ひらりと刀をかわし、そして天に昇る紅い月を指し示しながら、彼女は一際大きく飛び上がります。

 天井が残っていたなら、おそらくそこに届くほどの跳躍。

 その様は、蝶のようにも、鳥のようにも……そして蝙蝠のようにも見え、その摩訶不思議な雰囲気に、信長の手も思わず止まってしまうのでした。

――馬鹿な。我が、斯様な小娘に魅入られているだと――

「今宵は哀しき天満月。流れた血涙の色に染まった月が、私に力を与えている」

 そう言の葉を紡ぐと同時に、宙を舞ったあやめの小さな体が月と綺麗に重なり、その赤き光を纏った刹那。彼女の姿が、するりと変わったのでございます。

 齢10前後であったはずの見目は17、8の妙齢の女性。瞳の色は、黒から血色に染まり、口から覗く鋭い牙は信長のそれとは比にならぬ白さと鋭さを誇っております。

 少々胸元が寂しいような気も致しますが、そこはご愛嬌。

「貴様のその野望こそ、『夢幻の如くなり』だ」

 彼女がそう言い放った瞬間、その身に纏っていた着物から、炎すら飲み下す勢いで「闇」が放たれ、周囲を覆い隠したのでございます。

 一寸先どころか、自身さえ見失う程の闇。しかしそれは、知覚すると同時に彼女の掌へ収束し、やがてはその姿を漆黒の刀へと変えたのです。

 そしてそれを向けると、彼女は信長に向って大きく踏み込み、ひゅんと空を裂いて振るったのでございます。

 あまりの速さゆえ、目視出来ぬその一撃。それは信長の刀を2つに断ち割り、信長の武器を封じたのでございます。

「馬鹿な!? 我が愛刀を断ち切っただと!?」

「断ち切ったのは貴様の刀だけではないがな」

 冷たい声と視線を送られ、信長は「堕ちて」から初めて、恐怖を感じたのでしょう。己の体にぞくりと冷たい物が走り、彼女の刀から逃れようと、駆け出します。

 ですが。

 再び空を切る音が聞こえたかと思うと、彼の足はばさりと切り落とされておりました。

 落とされた足はざあと音を立てて塵と化し、炎によって生まれた気流に乗って夜の闇の中へ舞って行きます。

「な、あ……馬鹿な、こんな馬鹿な……!? 我が、我がこの様な小娘に! この様な場所で!!」

「人から堕した闇の者よ。貴様の止まった時間は、死を持って再び動かすと良い」

 ずるずると足を引き摺り、這う様にして逃げる信長に対し、彼女は冷淡な声で言い放つと……再度刀を振り下ろし、彼の者の首を落としたのでございます。

 首を落とされた「信長だった者」は……「足」同様その身を塵と化し、一部は宙を舞いどこかへと飛び去り、一部は炎に巻かれて灰と化し、そして一部はあやめの着物へと吸い込まれるようにして失せるのでございました。



 ……こうして。後の世で言う「本能寺の変」と呼ばれる事件は、「明智軍勝利」で幕を閉じ……

 その更に11日後、「謀反人」となった明智光秀は、備中より引き返してきた羽柴秀吉の軍に追い詰められ、本能寺付近の竹薮で、落ち武者狩りの百姓に刺されたのでございます。

 その百姓からは逃れたものの……既にその顔には死相が浮かんでおり、助からぬ事は明白。おまけに周囲には誰1人としていない状況。

「フフ……誰にも見取られず、俺は死ぬのか……」

 細くなる自身の呼吸を感じ取りながら、光秀は小さく呟きを落とします。

 誰もいないと分っているが故なのでしょうか。彼はただ、自嘲気味に笑い、その場で大の字になって転がり、更に呟きを落とすのでございます。

「……まあ、謀反人には、当然の末期だな。……これも、お館様の変異を見抜けず、手を下すまで放置した罰、よ」

「明智君、君は自分に厳しい男だな」

 独り言に近かったはずの光秀の呟きに。どこからとも無く、声が帰ってきたのでございます。

 霞んで殆ど見えぬ目を凝らせば、何故か1本だけ生えている松の枝に腰掛ける、黒衣の童女の姿。

「あやめ……か。ふふ、いよいよ俺も最期らしい。お館様の言う通り……お前はあの世の使者であったか」

 二度目に出会った際、信長が言った言葉を思い出し、光秀は口元に悪戯っぽい笑みを浮かべて言うのでございます。

「それは結構失礼だと思うのだが」

「冗談、だ」

 すとんと近くに降り立つあやめの気配を感じながら、光秀は再び大きく息を吐き出します。

 ……この世の空気を、完全に吐き出すかの様に。

 彼の死相に、当然気付いているのでしょう。あやめは彼の傍へ跪くと、ひょいとその顔を覗き込むのでございます。

 霞んだ視界と逆光故、彼女がどんな表情を浮かべているのか、光秀には分りませんが……何となく泣いているような気がして、彼はその顔に苦笑を浮かべるのでございました。

「……俺が、死んだら……お前は、1人になってしまうなぁ」

「いつもの事だ。私は『闇の者』だから」

「あやめ…………独りは、寂しいな」

「そう、だな。確かに寂しい。正直、私を独りにするなと言いたいよ」

「悪いな、あやめ。それは無理だ。……もう、俺は持たん」

「わかっているよ。……少しだけ、君を困らせたかっただけだ」

 いつもは平坦とも思える彼女の声が、微かに震えているように思うのは、彼の気のせいなのでしょうか。

 雨でも降っているのか、彼の頬にはぽたりぽたりと暖かい雫が落ちてくるのも感じられます。

 ですが、光秀の視界は既に黒一色に染まってしまっている為、それが本当に雨なのかを知る事は出来ません。

 ずしりと重くなる体とは反比例して、先程まで感じていた痛みはすっと引いていきます。

――ひょっとすると、あやめが「怪我を治す力」で治してくれているのかも知れない――

 そう思った刹那、光秀の耳に、遠くから己を……「キンカ」と呼ぶ声が聞こえたのでございます。

 それは、近年では聞く事の叶わなかった……出逢った頃と同じ、からかう様な主の声。

 それがどこかから、「早う、来い」と響いております。

「ああ…………お館様が、呼んでいる。早く往かねば、拗ねて……しまわれる」

「…………そうか」

「お館、様。……只今、参り……ま……」

 その呟きを最後に。光秀はそれ以上、何も言葉を紡ぐ事はございませんでした。

 残された童女は、着物の袖で己の顔をぐいと拭うと、見開かれたままの光秀の瞼を閉じ……

 そして、どこぞへ消えてしまったのでございます。

 公式な記録はどこにも無く、それは彼女の言う「人の記憶を消す力」による物とも言われております。

 その後童女がどこへ向かい、何をするのかは……また、別の話と相成ります故、この物語はこれにて閉幕とさせて頂きましょう。


ここまでお付き合い頂けました皆様方。

この度は誠にありがとうございます。

当作品を執筆させて頂きました、辰巳でございます。


「花街の闇」なる短編と同じ世界観ですが、時間はそれより300年近く前。

計算上、281年前ですかね。今回は安土桃山時代。


一応、主人公は「明智君」です。どこぞの探偵みたいだな、この書き方。

辰巳解釈風、「本能寺の変」の原因でございました。

……当然、こんな事のはずなんぞある訳ゃ無いんですが。


それでは、最後に。

改めて、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

また、いつかどこかで。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ハラハラ、ドキドキの展開素晴らしいです。またあやめの歴史介入もすんなりと受け入れられました。 [一言] こんばんは、ゼロライダーです。花街の闇の続編?過去編?読ませていただきました。 本…
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