フォーグレンの神官5
「ハーヴィン殿下、ハーヴィン殿下」
ハーヴィンは自分を呼ぶ声で目を覚ました。そして自分を見つめる黒い瞳を見て、ほっとした。
「セン…。何があったんだ?」
後頭部に痛みが残っていた。センと唇を重ねたのを覚えている。
「ハーヴィン殿下。私は宮殿からあなたを私の住処に連れてきました。ここで私と暮らしてもらいます。いいですね?」
「……どういう意味だ?」
「あなたは私に誘拐されたのです。私を信じたあなたが悪いのです」
センの姿をしたアルビーナは妖艶に微笑んだ。
「でも私があなたを愛しているのは変わりません」
アルビーナはセンの姿でそう言葉を続けた。そしてベッドの側にある香炉に火の力を使い、火を灯す。甘い、気持ち悪くなるほど甘い香りが漂い、ハーヴィンは頭痛が始まるのがわかった。
「セン?何をする気だ?」
「ハーヴィン殿下。私とふたりで暮らしましょう。あなたが必要なのです」
アルビーナはセンの姿でどこか妖婦のような笑みを浮かべたまま、ハーヴィンの頬に触れた。
「セン……」
お香の甘い香りがハーヴィンの思考を奪っていく。
まだ考える力がある今なら、逃げることもできたはずだった。
しかしハーヴィンは自らその道を選ばなかった。
このままセンの術にはまり、センと共にいたいと願ったのだ。
「セン……」
ハーヴィンはアルビーナの背中に手を回すと、噛み付くように口付けた。アルビーナはハーヴィンの口づけに答え、その腕に身をゆだねた。
☆
「汚い……」
ロセの借家に入り、ターヤが開口一番に言った言葉がそれだった。部屋の中では脱ぎ捨てられた服が散乱し、お酒の瓶が転がっていた。
「俺はいそがしいからな」
ロセは悪びれる様子もなく、二人の座る場所を確保するために床に落ちたものや、机に載っているものを集め始めた。
ターヤは嫌そうにその作業を見て、センは窓の外に目を向けていた。
彼女は自分に化けた神使人がアルビーナであることが信じられなかった。
二年前に王子の警護兼家庭教師に選ばれたセンに、彼女は『私は絶対にあんたを許さないから』と言葉を投げつけ、神殿を出て行った……。
あの時の彼女の姿を忘れたことはなかった。
八歳の時に神殿に連れて来られて、アルビーナに会った。
娼婦の母の元から入殿させられた自分を、神官達は見下した。しかしアルビーナは自分に対等に接してくれた。見習いから神官になり、下級、上級と位が上がっていくもの一緒だった。
上級神官になったことを共に喜んだことを、センは今も昨日のように覚えている。
「さてと、ここに座って」
ロセの声でセンは我に返った。ロセは二人の座る場所と、ポンポンとベッドを叩く。すると埃が部屋に舞い上がり、ターヤとロセは咳き込んだ。しかし、他を見渡してもここよりいい場所が見当たらず、二人は黙ってベッドに腰掛けた。
ロセは壊れかけた椅子を掴みとベッドの前に置くと、二人に向かい合う形で座った。
「さて、これでゆっくり話ができるぜ。センさん、あんたとアルビーナは確か友達だったんよな。今彼女がどこに住んでいるかわかるか?」
友達……。そんなことまで知ってるのか。
ロセの情報網に驚きながら、センはロセを見た。
「その前、私から聞きたいことがあります。なぜ、あなたはアルビーナが私に化けたと思うのですか?彼女ではない可能性もありますよね?」
「王子を浚ったのはアルビーナだ。そして共犯の神使人はミシノ。ミシノは俺と同じ水の神殿出身だ」
ミシノ……?
ロセがミシノの名前を口にする時、すこし瞳に影は見えた。しかしそれは一瞬でセンは深く考えるのを止めた。
「俺はシュイグレンから消えたミシノを追っていた。そして奴がフォーグレンの神使人アルビーナに接触するのを確認している。宮殿で王子が浚われる時、俺は少し離れたところから見ていたが、ミシノの姿が見えた。奴とセンさんに化けたアルビーナは、青い『神石』のかけらを使っていた」
ロセはそこで言葉を止め、センの額に輝く赤い『神石』のかけらを見た。
「あれがあんたであれば、青ではなく赤のかけらをつかうはずだ」
センは黙って視線を床に落とした。ターヤはロセとセンの顔を交互に見つめる。
アルビーナはセン同様、ターヤの先輩だった。
癖のある神官ではあったが、ターヤに豪快にいろいろなことを教えた。命の恩人で師のセンと比べようもないが、アルビーナもターヤによっても頼れる存在だった。
「その状況から、私に化けたのがアルビーナである可能性は高いですね。しかし、そう決まったわけではありません。アルビーナに直接確かめましょう。彼女の生家は確か、フォーグレンの東のカルグレンの街だったはずです。」
センはベッドから腰を上げ、決意したようにロセを見た。
二年の間、怖くて連絡をとらなかった。
最後に真っ赤に腫れた瞳で自分を見たアルビーナの姿がまだ頭に焼き付いている。
あの時、選ばれるべきだったのは自分ではなくアルビーナだった。