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仄暗い穴の底から

作者: なごみ
掲載日:2026/07/22

「おーん、おーん、おーん」


 どこからともなく、

 子どもの泣き声にも聞こえる、

 不思議な音が山間から響いてくる。


 古くから山に暮らす者は、この声をこう呼ぶ。

 

 山神の呼び声、化け物の唸り声、亡霊の怨嗟。


 皆一様に、

 こんな日は山に入るなと、子どもを躾ける。

 ——呼び声に誘われて、帰ってこれなくなるからと。


 *異物学者 ロイ•マクシマス著

 『山の民の伝承』より抜粋



——



 照りつける陽射しが、生い茂る木々に遮られ、

 目の前にある山の斜面には、

 木漏れ日で白と黒の濃淡が散りばめられている。

 

 首を伝う汗を、手にした布で拭い、一つ息を吐き出す。

 渇いた身体に促されるよう、

 リュックの脇に吊るした水筒に手を伸ばす。


 一口、生温い水を口に含む。

 身体の内側から、

 ほんのりと活力が湧き上がるのを感じた。


 この暑さ……早く見つけてあげないと危険だな。

 そう考え、重い身体を奮い立たせる。


「ライル、そっちはどう?」


 声のする方を振り返ると、

 深く帽子を被った人影が近づいてくる。

 

「いや、子どもがいたような痕跡はないよ。

 アリスの方は?」


 彼女の頬は赤く火照り、

 身に付けた長袖のシャツは黒く滲んでいる。


「こっちもダメ」


 彼女は溜め息を吐き、

 顔を手で仰ぎながら、自分が来た方角を眺めている。

 

 ぶら下げた水入りの皮袋は萎んでいる。


「一度、給水所に戻りなよ」

「……そうする」


 一言だけ口にして、

 彼女は腰に手を当て、深く息を吐く。


「あなたも一緒に帰りましょ」


 顔だけをこちらに向け、

 額に張り付いた髪を払いながら、問いかけてきた。


「もう少しだけ、頑張ってみるよ」


 彼女は肩を上下させながら、

 僕を無言で見つめる。

 少しの間、彼女は目を瞑ると呟く。


「……10分だけよ。時間になったら戻りなさい」


「セレナが心配するわ」

「分かった。遠くには行かないよ」


 給水所で、

 捜索隊の対応をしている彼女の姿が頭に浮かび、

 胸を刺す。


「気をつけてね」

 そう言い残し、去っていくアリスの背を見送る。


 振り返ると、眼前には緩やかな上り坂と、

 不均一に並び立つ木々で視界が悪い。


 乾いた地面を踏み締める足は重く、

 木に手を掛けながら身体を前に進める。


 自分の呼吸と葉や枝の擦れる音が、

 山の中を支配していた。


 今日はどういうわけか、山に獣の気配すらない。

 そこにあるのは僕と山だけである。


 暑さでぼんやりとする頭を振り、

 捜索隊の前で、

 子どもの特徴を必死で説明する両親を思い浮かべる。


 3日前に男の子が遊びに行くと言い残し、

 村から行方不明になった。

 そして昨日、

 村の近くの山間で子どもの姿を見た人や、

 声が聞こえたという証言があった。


 正直、かなり厳しいのではと感じつつも、

 せめて両親の元に連れて帰ってやりたい。


 胸にしまった時計を取り出し、針の在処を睨む。

 ……約束の時間だ。


 二人の元に帰らなくては。

 僕は、元来た道に振り返ろうとした。

 

 直後、軽い耳鳴りがした気がした。

 脱水?

 そう考え、水を二口身体に入れた。


 息を整え、再び歩き出す。


「ぉー」

 

 ——いや、耳鳴りじゃない?

 音の出所を探るべく、息を潜め、耳を澄ませる。


「ぉーん……」

 

「おーん、おー……」

 

「おーん、おーん、おーん」


 これは……子どもの泣き声?


 風の音にも聞こえる。

 だが、森は静まり返っていた。


 どうする。場所はなんとなくだが、分かる。

 今から戻れば皆で確かめにいける。

 

 ——でも、もし、移動してしまったら。


「おーい!助けに来たよー!そこから動かないでー!」


 返事を待つ。


「おーん、おーん、おーん」

 

 それ以外の音は返ってこない。

 泣いてるせいで、聞こえていない?

 いや、そもそもこれは違うのでは。


 気づけば、足は音のする方へ向かっていた。

 いや、違う。

 僕は、自分で選んだんだ。

  

 あぁ……二人とも、ごめん。

 

 ——もし本当に誰かがいるなら。

 僕は、聞こえなかったことにはできなかった。


 歩みを進めるたび、声はどんどん大きくなる。

 自然と拳に力が入り、

 もしかしてという希望が口まで迫り上がる。


 ——音がする場所がある。

 そこは、山肌にぽっかりと口を開けた洞穴であった。


 肩の力が抜けた。

 渇いた喉が張り付き、上手く息が出来ない。

 ……やっぱり、風が吹く音か。

 

「ぉー……」


 下に向けていた頭を声がする方に、急いで向ける。

 洞穴の奥……から?

 水を口に流し込みながら、じっと暗闇を見つめる。


「ぉーい」


 声だ。甲高いそれは子どもの声に聞こえる。


「おーい!聞こえるかー!助けに来たよー!」


 声の主に向かって、力の限り叫ぶ。


「おーい」


 返事の仕方が少し変……かな。

 返事というより、

 同じ言葉を繰り返しているようにも聞こえた。

 

 こっちの声が聞き取りにくいのかも、

 そんな可能性も捨てきれない。

 

 洞穴に手をかざすと、

 生温い風と湿気った空気に触れた。


 暑さを避けて洞穴に入ったのか。

 少なくとも、生きている可能性はある。


「今から行くからねー!動かないようにー!」


 つい、そんな言葉が口から出ていた。

 高鳴る鼓動を抑え、慎重に足を洞穴に踏み出す。


 足元が土に僅かに沈み込み、

 バランスを崩し掛け、反対側の足を慌てて踏み込む。

 

 身体が全て洞穴の口に収まった瞬間、

 突然浮遊感に襲われた。


「——!」


 声にならない叫びをあげて、

 あるはずの地面から、僕は落下していった。



——



「いったぁ」


 高所から落ちたわけではなさそうだ。

 

 ただ、突然の出来事に受け身を取り損ね、

 足を少し痛めたみたいだった。


 周りを見渡そうとして気付く。暗い。

 生暖かい空気が身体を纏わりつき、

 そして、ほんのりと酸っぱい異臭が鼻につく。


「落ち着け。

 足を滑らせただけかもしれない」

 

 息を吐き出し、自分に言い聞かせながら、

 背中に背負うリュックの中を弄る。


 底にしまっていたランタン、

 そして、腰の小袋から火打石と、

 乾いた火口を取り出す。


 火打石を持つ手が、

 かすかに震えているのを感じ、もう一度呼吸を整える。


 肺に、

 山では感じたことのない生暖かい空気が流れ込む。

 

 石と鉄を打ち合わせるたび、

 暗闇の中に小さな火花が散る。


 赤く染まった火口をランタンの芯へ近づけると、

 橙色の灯りが暗闇をぼんやり照らし始めた。


 ランタンの灯りを上へ向けても、

 光は暗闇に吸い込まれるだけだった。


 そんな筈は——。


 慌てて、足元に光を向ける。

 自分の靴、

 そしてぬらりと光る地面があった。


 ……水?

 そう考え、靴を地面に擦り付ける。

 ずりゅ。

 想像とは違う感触が足先から伝わって来た。


 なんだろう。

 足を持ち上げると、地面と靴の間に、

 半透明の糸のような何かが繋がっている。


 気付くと、心臓の音が頭に響き渡っていた。


 息を潜めながら、

 灯りを前に突き出し、周囲を照らしていく。


 赤い。

 赤く染まった壁が、目の前に現れた。

 それは、岩肌で照らされた明るさではない。


 ゆっくりと壁に近づく。

 踏み込む足は硬さを感じず、僅かに沈み込む。


 壁面に近づき、手を触れる。

 岩肌の冷たさや、硬さはそこにはない。

 温かく、柔らかく、手で押し込むと弾力を感じる。


 壁と思われる場所に着いた手のひらから、

 どくん、どくん、と自分の鼓動に被さる様に、

 脈動が伝わってくる。


 壁から手を離すと、足元と同じように糸が引く。

 手に付いたそれを指で擦ると、

 ぬるりとした感触のまま、指が滑った。


 ——ここは、生き物の中、なのか。

 この状況を説明するには、

 そんな理解し難い考えを飲み込むしかなかった。


 ぺちゃ、ぺちゃ、ぺちゃ。

 音が暗闇の奥から聞こえてくる。

 微かな光もだ。

 一定のリズムを刻み、

 次第に音と光が大きくなっていく。

 

 自然と身体は身構え、腰に下げたナイフに手が伸びる。


 灯りに人影が現れた。

 照らされたそれは、探し求めていた少年の姿であった。


 安心……は出来なかった。

 こんな所にいる彼は、果たして人間なのだろうか。

 そんな、ありえない妄想に支配され出した自分に、

 血の気が引いていく。


「……君は?」

『こっちに来て』


 音が辺りに反響したかのように、頭に直接響く。

 そんな不思議な感覚に襲われる。

 少年の口は微かに開いており、ぼんやりとした表情だ。

 手にはランタン、のような物を持っている。


 少年は僕を手招く様な仕草をしている。


「……そっちに何があるの?」

 

『出口』

『一人じゃ出れないんだ』


 意思疎通が、出来る?

 少年の服装は、

 両親から聞いていた情報と合致していた。

 ナイフを握りしめ、話を進める。


「どうしてここに?」


『閉じ込められたんだ』

『奥に出口があるんだよ。でも、邪魔な物があって』


 少年は僕に語りかけながら、

 手招きする仕草を続け、こちらを急かす様子はない。


 ……どうする。

 邪魔な物か……何かをさせたいのか。


 もう一度辺りを見渡す。

 少年が来た道以外に、進めそうな所はない。


 それに、このままここにいてもジリ貧。


 ——着いていくしかないか。


 ナイフを抜き取り、背中に隠す。


「分かった。行こう」

『ありがとう』


 そう答えが返ってくるが、少年は動かない。

 喉を鳴らし、半歩だけ歩み寄る。


 それを待っていたかのように、少年は僕に背を向け、

 暗がりに向かって進み出した。


 背中に隠したナイフを、身体の正面で握りしめ直し、

 ゆらゆら揺れる少年の背後に、

 僕は着いていくしかなかった。


 緩やかな斜面を降りていることは分かる。

 進むたびに酸っぱい匂いが強くなり、息も苦しくなる。

 

 肩で息をする毎に、ランタンの灯りが揺らめく。

 灯りの揺らめきと共に、

 ぬらぬらと鈍く光って見える壁は、

 まるで伸び縮みをしているかのように見える。


 どこまで進むのだろう。

 足元に起伏があり歩くのも一苦労だ。

 それなのに、

 少年は下を見ることもなく、黙々と進んでいる。


 試しに歩みを止めてみると、

 示し合わせたかの様に少年も歩みを止める。

 歩き出すと、少年も進む。

 

 こちらを振り向くことなく、

 まるで僕の動きを見ているかのような少年を、

 救助対象として見ることは最早出来なかった。


 どれだけ歩いたんだろう。

 暗闇のせいで時間が分からない。

 不意に少年の声が響いた。


『もうすぐ着くよ』


 汗で重くなったズボンを引き摺りながら、

 湿気と疲労でぼんやりする頭を働かせる。


 少年が歩みを止め、初めて僕の正面から横に逸れる。

 こちらを振り向かず、闇の中を指差す。


 澱みなく行われるその動作に、後退りしたくなる。

 

 ……行くしかないか。

 軽くなった水筒を撫で、覚悟を決める。


 少年の横に並ぶようにして立つ。

 ランタンを指差す先に掲げると、そこで道は途切れ、

 ぽっかり開けた空間があった。


 光は闇に吸い込まれ、深さも、

 そこに何があるのかも分からない。


「ここが出……」


 背中に衝撃を受け、宙に弾き出される。

 回転する視界の中で、それは一瞬だけ視界に写る。


 壁と同じ色をした何かに吊り下げられ、

 輪郭の崩れた人の形をしたなにかが、

 ゆらゆらと宙を舞っている姿だった。


「……!」


 考える間もなく、僕の身体は闇の中に打ち付けられる。

 激しい痛みに、思わず身体を捩ってしまう。


 灯り!

 口の中の苦味を吐き出しながら、周囲を探る。

 勢いが陰ったランタンの火が、

 少し離れた位置にあった。


 揺らめく光にが何に遮られ、影を生み出している。

 人……が倒れているような姿が見える。


 あれは?

 足を引きずりながら、灯りに近づく。


 そこには、血色の悪い顔のした、

 探していた少年の姿があった。

 身に纏う服は汚れ、所々擦り切れている。


 これは?

 慎重にそれに近づき、それの身体に手をつける。


 手を当てると、微かな温もりと振動が伝わってきた。

 呼吸なのか、それとも別の何かなのか判断できない。


 ——そうか、こんな所に。

 へこんでしまった水筒を取り出し、

 僅かに残った水を少年の口に垂らす。


 口の中に水が吸い込まれると、微かに口元が動く。

 ——生きてる。

 

 なら、さっきのあれは何だったのか?

 落ちていた、ランタンを掲げ、周囲を照らす。


 赤い壁。

 湿った床。

 絡みつく粘液。


 そして、先ほどまで歩いていた道。

 吊られた存在。


 そこで気付いた。


 僕が歩いてきたと思っていた場所は、

 洞穴ではなかった。


 これは、洞穴の形をした——


 いや。


 洞穴に見せかけられた、

 何かの内部だった。


 ランタンの灯りが骨を照らした。


 小さな靴。

 錆びた首飾り。

 腐りかけた布切れ。


 骨は一つではなかった。


 突然、聞き慣れた音が鳴り響く。


「おーい、おーい、おーい」


 声は洞穴の奥ではなく、

 山の外へ向かって響いていく。


 ……その声は。


 さっきまで、

 僕が叫んでいた声だった。


 膝を突きそうなる。

 そうだ、出口。

 すがる様な思いで辺りを探し回る。


 ない。そんなものはなかった。

 膝が地面に着く。


 せっかく、見つけたのに。

 

 あぁ……

「二人ともごめん」

 静まり返った闇の中で、

 僕は謝ることしか出来なかった。


 

 もう一度だけ声が響いた。


『こっちだよ、こっち』


 辺りを見渡すが、誰もいない。


 声のする方向……はない。

 頭に直接響いてくる。

 

『こっちだって』


「……どこ?」


『壁際に箱があるだろ』

『そこに出口がある』


 箱か……そうだ。

 壁際に木箱があった気もする。

 だけど、箱の周りに道なんてなかった。


 幻聴が聞こえるなんて、いよいよ終わりだな。


 ……もしこれが幻聴でも、罠でも、

 動かなければ何も変わらない。

 少なくとも、あの子を連れて帰る可能性が残るなら。


 この空間にある、唯一の箱の前に立つ。

 背丈の半分ほどの大きさで、

 何か特徴的なデザインというわけでもない。


 でも、よく考えてみると、

 この箱は周りの物に比べて、なぜか原型を保っている。

 ……あぁ、箱の下に金属の板があるのか。

 

 底に出口でも?


 ——重い。

 箱の大きさに見合わない重さに、腰が悲鳴を上げる。


 中身を取り出すか。

 箱をよく見ると、

 素材である木は、至る所が剥ぎ取られかけている。


 木箱の隙間に手を差し込み、無理やり剥がしていく。


 箱の中には、小さな鉄格子があった。

 その中に、

 まるで誰かを待つように、

 熊のぬいぐるみが座らされていた。


『やあ、初めまして』


 頭の中に声が響く。


「……ぬいぐるみ?」


『不本意だけど、君の目の前にあるぬいぐるみさ』


 熊の口は動いていなかった。

 それでも声だけが頭の中に流れ込んでくる。

 まるで、

 誰かが僕の思考の隙間に、

 直接言葉を流し込んでいるようだった。

 

『さあ、ここから、出してくれ』

『そうすれば、ここから出る方法を教えてやるよ』


 自分の身に起きている出来事が理解出来なかった。

 目の前の熊のぬいぐるみが僕に語りかけてきたのだ。


 ……ただ一つ分かることは、

 こいつが檻に入っているという事実だ。


「……なぜ檻に?」


 檻に掛けられた南京錠を横目に見る。


『別に理由なんて、君には関係ないだろう』

『助けてくれれば、脱出方法を教える。

 いい取り引きじゃないか』


 こいつはなんだろう。


「ここは?」


 声、と言っていいか分からないが、

 とにかく、熊の声が返ってくる。


『はぁ……腹の中だよ。

 それ以上もそれ以下もないさ』

 

 淡々と意味のわからない話をする熊に、寒気を覚える。


『もういいだろ、開けてくれよ』


 檻をよく見ると、中に鍵が転がっている。


「……自分で取ればいいじゃないか」


 鼻で笑う様にして熊は答える。


『節穴かい?ぬいぐるみなんだから、

 動けるわけがないだろ』


 自分では動けない。檻の中。頭に響く声。

 ……こんな物を外に出していい訳がないだろう。


「君はよく喋るんだね」


『くくっ』

『退屈だったからね』


 自分では動けない。

 ……誰かが、この檻を用意したのだろうか。


「……君を出すわけにはいかないよ。

 信用出来ない」


『信用出来ない?

 そりゃ僕だって、

 ここから出たくて必死なんだから、

 無茶をしちゃうのはしょうがないだろ』


 動かないはずのぬいぐるみの目が動いた気がした。


『それに、おかげで君も探し物が見つかったじゃないか』

「……それとこれとは関係ないだろ」

『いや、関係あるさ。

 僕を出せば、僕は嬉しい。

 君は脱出方法が分かって、

 そこで死にかけている子どもと一緒に助かる』


 ぐうの音も出ない。余りにも正論だ。

 ……だからこそ、こいつは怪しい。


「先に方法を教えろ、話はそれからだ」


 頭に鳴り響いていた声が少しの間、止まる。


『はあ、分かったよ』

『僕を壁に埋め込むんだ。

 そうすれば、ミミズは僕らを吐き出すはずさ』


 結局、こいつを外に出す必要があるのか。


「理屈が分からない」

『僕はあいつにとって異物なんだよ。

 だから吐き出すのさ』


 こいつの言っていることは滅茶苦茶だ。

 ただ、入り口からずっと、

 一度も嘘を言っているようには思えない。

 本当のこともだ。


 ただ、それを判断するには余りにも情報がない。


「……決めたよ」


 これが正しいのかは分からない。


「やっぱり、君を出せない」


 ただの勘だ。


『そっか。子どもも見捨てるんだね』


 その言葉が胸を抉る。

 違う。

 僕は、あの子を見捨てたいわけじゃない。

 だからこそ。

 ここで間違えるわけにはいかない。


「そう……だね」


『このミミズはね、変わった習性があるんだ』


 何だ、なぜ今そんな話を?


『喰ったやつの声で次の餌を呼び寄せる』

『声、というか声色かな。おーい、ってさ』


 山で聞いた、あの声——

 いや、だからなんだ。

 

『でだ、誘われた獲物を身体の中に入れるため、

 そいつが求めている物を擬似餌にするんだ』


 だから、何の話だ。


『そういえばさ』

『ふと思ったんだけど』


『君のお仲間は大丈夫かな?』


 おーい。

 そう、僕の声が鳴り響いたことを思い出す。

 熊は嘘を言っている、そう思いたかった。

 だが、自分の体験が、

 その話を真実だと肯定してしまっている。


 奥歯を噛み締め、声を絞り出す。


「……ダメだ。信用出来ない」


 その言葉に、熊は再び沈黙した。

 

『強情だね君は……負けたよ。

 じゃあこうしよう、取り引きだ』


 諦めたような、苛ついたような、

 そんな口ぶりで沈黙を破ってきた。


『君は僕を信用出来ないんだろ』


 頷く。


『なら、君が僕を監視すれば良い』

「どうやって」

『命を繋ぐのさ、君が死ねば僕は死ぬ。

 その逆も然り、そんな契約だよ』

「そんなこと……」

『出来るんだよ。

 ぬいぐるみが話してるんだ、

 そんな不思議なこと今更だろ』

 

『君の血を僕にくれよ。それで契約完了』

『外に出たら、僕を閉じ込めるなり、

 好きにすればいいさ』

『あ、週に一度は天日干しにして欲しいかな』


 ……。


『もし僕が怪しければ、

 君が責任を持って始末すればいいだけだし、

 いい妥協案でしょ』


 僕は分からなくなっていた。

 自分のよく分からない勘で、助かるはずの子ども、

 大事な仲間の命を投げ捨てようとしている。


 少年を見る。


 浅い呼吸を繰り返している。

 山の外では、アリスとセレナが僕を探しているはずだ。


 ——もう時間がない。


 信用したわけじゃない。

 他に選択肢が、もう残っていなかった。

 それに、万が一何かあれば、

 自分の命で、こいつを始末できる。


「分かった……契約する」

『いいね、では血を付けてくれよ。

 先に契約した方が、君も安心だろ?』


 地面に落としていたナイフを拾い、指に押し当てる。

 じんわりとした痛みと共に、

 僅かに滴る血を、

 格子の向こうのぬいぐるみに着ける。


 黒いシミが、しっとりと濡れた綿に現れる。

 その瞬間に、

 頭に金切り声のような不快な音が響き渡り、

 気分が悪くなる。


「これで、いいのかい?」


 答えがない。


「おい」


 少し遅れて返事が帰ってくる。


『あ、ああ。これで大丈夫だ』

『さあ、開けてくれ』


 鍵を手に取り、錠に差し込む。

 カチリ、という音が開き扉が開いていく。

 熊の目が光ったような、そんな気がした。


『そのナイフで壁を掘るんだ。僕が埋まるくらいにね』


 一瞬だけ躊躇ったが、

 ここまで来て引き返せる状況ではなかった。

 

 言われた通りにナイフを壁に突き立てる。

 柔らかい壁に刃は突き刺さり、白濁した液体が滴る。

 掘り進めていくと、熊が話を続ける。


『埋めた後、少ししたら、吐き出すはずさ』

「はず?」

『言ったろ、必死だって。全部を知ってる訳じゃない』


 ほどなくして、ぬいぐるみが埋まる穴が出来た。

 抉れた壁面からは、じんわりと液体が滴り続け、

 ここが生きている、ということを示し続けている。


『さあ、一思いにやってくれ。

 あ、ことが起きたら早く掘り出してくれよ』

『僕だけ取り残されたくないからね』


「……そのままにしたら?」


『長居すると、溶けちゃうかな』

『そしたら、君も困るよね』


 倒れている少年と、

 熊を自分の身体にロープで結びつける。

 熊を鷲掴み、窪みに据えつける。


 熊と壁が触れた瞬間、焦げたような匂いとともに、

 触れている箇所が黒く変色していく。


 散らばった肉塊で窪みを埋め戻し、周囲を見渡す。


 黒く染まった壁の奥から、初めて音がした。

 「おーん」

 それは、今まで聞いていた声ではなかった。

 腹の底から押し出されるような、苦痛の音。


 突然、周囲の壁が大きく膨らんだ。


 まるで、

 飲み込んだものを外へ押し戻そうとしているように。


 体内全体が脈動する。

 壁が勢いよく収縮し始め、立っているのもやっとだ。

 足元からは、凄まじい量の粘液が湧き出している。


 ロープを引っ張り、熊を引きずりだす。


『後は運次第だ』


 軽口を叩く熊と、少年を抱き寄る。


 粘液が大量に吹き出し、

 それに浸かったランタンの火が消え、暗闇に包まれる。

 

 僕たちは身体ごと押し流されていく。


 身体中がチリチリとした痛みに襲われる。

 激しく渦巻く流れに身を任せ、

 少年の身体を必死で掴みながら、

 ただ耐えることしか出来なかった。


 次の瞬間、まぶたに明かりを感じ、

 身体が宙に投げ出されたような浮遊感を覚える。


 背中に強い衝撃と、

 ひんやりとした乾いた空気を感じる。


 目をゆっくりと開くと、星が僕らを見下ろしていた。

 

『ようやく、外に出れた』


 頭に響く声を無視し、一緒に倒れていた少年を背負う。


 ——さあ、帰ろう。




——




 自室のベッドで横になりながら、

 あの山での出来事を思い出す。


 あの後、二人から酷く叱られ、そして泣かれた。

 半日ほど行方知れずとなっていたらしく、

 皆で僕のことも探し回っていたらしい。


 少年も、かなり危なかったが、

 生きて連れて帰ることが出来た。


 何があったのか、どこで見つけたのか、

 色々と聞かれたが、

 身に起こったことを説明出来る気もせず、

 全てをはぐらかした。


 そして、起き上がり棚の上に目をやる。

 新しい檻に入れた熊のぬいぐるみがそこにはあった。


 あれを家に連れ戻り、

 檻に入れてからは、外に出してはいない。

 あいつもこちらに話しかけてこない。


 何もなければそれでいい。

 それに、僕はあれをずっと見張らなければならない。

 ——もしもの時が来るまで、ずっと。






——






 あの怪物の中から、やっと外に出れた。


 どれだけ時間が過ぎたのかさえ、分からないが、

 忌々しいあいつらに閉じ込められた時のことは、

 今でも鮮明に思い出せる。

 

 肌に伝わる外の空気。

 

 動けるのであれば、

 踊り出したくなる、そんな気分だ。


 ……自分にとっても、

 今回の出来事はかなり賭けに出た自覚がある。


 あの方法で脱出できるかも、五分だった。

 結果としては、

 やっぱり、自分は昔から悪運が強いみたいだ。

 

 久しぶりの来訪者だって、そうだ。

 一人目は子どもで使えなかったが、

 次にすぐ、大人が入ってきた時は興奮してしまった。


 ただ、せっかく誘導したあの男に、

 檻から出さない、と何度も言われた時には肝が冷えた。


 だからこそ、

 我ながら自分の機転の利かせ方は、

 素晴らしいものだったと自負している。

 

「契約」なんて口約束を、信じてくれて助かった。


 また、檻に入れられてしまって身動きは取れないが、

 あそこにいるよりはマシなわけだ。


 それにしても、人ごとながらあの男には同情する。

 あれは異物を呼び寄せる。そんな性格だ。

 本人が望まなくてもね。


 いつか、僕に頼らないといけなくなる日が来るだろう。

 その時は……楽しみだ。

読んでいただき、ありがとうございました。

自分のキャラクターを使った短編です。


これは、普通の冒険譚だと思っていたけど──たぶん僕だけがそう思っている

https://ncode.syosetu.com/n1058mk/

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