亡霊の騎士
焚き火の炎がゆらめいた時、アルフレドは過ちに気付いた。
ここはすでに禁足の地だった。
ここで暖をとるべきではなかった。
しかし、すべては遅かった。
炎を挟んでーー反対側に、黒い影が見える。
フードのようなものから、長い髪の影がゆらめく。
ここは滅びた、いにしえの砦。
妖精の騎士と呼ばれる、彷徨える亡霊の棲家。
アルフレドは、自分が招いてしまったものから目を逸らし、魔除けの薬草を握りしめ生命力のある言葉ーー亡霊に生命を吸い取られないようにーーを、思いつく限り頭の中で繰り返した。
「パセリ 塩 蔓草 太陽 ジャガイモのスープ 昔飼っていた亀のジェイーー」
「亀のくだりは、傑作だーー」
亡霊がくすくすと笑う。
だが、つられて笑ったり会話をすれば、魂をとられてしまう。
それがルールで、それが伝承だ。
「市場へ行くのだねーー」
「ダイヤモンドーールビーーヒマワリーーナッツ」
「私の顔をお忘れ?」
(えーー)
その声のトーンがあまりに懐かしく、アルフレドはつい、チラリと亡霊の方を見てしまう。
それは、三年前に死別した妻の声に、あまりにも似ていたからだ。
「エディス?」
しまったーーと思った時には、遅かった。
亡霊の姿がゆらりと縦横に揺れたかと思うと、次の瞬間、炎を擦り抜けて、ぬうっと目の前にやってきてしまった。
据えた黴のような匂いとともに、ジメっとした風が頬を撫でた。
亡霊はアルフレドの首に手を回し、ぐにゃりと首を曲げて顔を覗きこむ。
「亀の名前をもう一度言ってごらんーーほら、もう無視をしても同じだ。ならばーーならばーーならばーー私がお前を連れて行く前に、私に命乞いした方が、まだ救われる可能性があるとは、思わないかね」
びちゃり。
ぬめった青白い手が、首を撫でる。
アルフレドは魂の底から恐怖して、ついに沈黙を破り、絶叫した。
廃砦全体に響き渡るような、腹の底からの恐怖の叫びだった。
しかし自由になったのは声だけで、走ってその場から逃げるどころか立ち上がる事すら出来なかった。
「お前の身体はすでにお前の世界のものではなくなってしまったから、動かないーーでも、お話があるから、口だけは動くようにしてあげている。かわいそうに、かわいそうに、かわいそうに、怖いだろうね?でも、私に、妖精の世界に連れて行かれたら、もっと怖いものをたくさん見るよーーさあ、救われたいと思わないかい?妖精の騎士に、彷徨える亡霊に、命乞いをする気になったかい?」
アルフレドは一も二もなく頷こうとした。
しかし、頭すら動かない。
亡霊の言うように、口だけしか動かせないようだ。
つまり亡霊は、アルフレドの口で、それを言わせたいようだった。
妖精の世界とは、人間の世界と地獄の境にある、天に上れぬ魂が彷徨う呪われた世界だと言われている。
「わ、わかった。たすけーー助けてくれ。ただ殺すだけならともかく、俺をそんな、恐ろしい世界へ連れ去らないでくれ」
「ーーお前の名前は」
「ア、アルフレド」
「その名前ーー確かに聞いたぞ。いい子だ。いい子だ。いい子だーーアルフレドはいい子だね」
亡霊が、枯れ木のように笑ったのを感じた。
「アルフレドは、亡霊の頼み事を聞かないとならないーーアルフレドは市場の街にゆく。アルフレドはーーそこで買い物をして戻ってくる。アルフレドは、逃げられない。市が終わってしばらく待ってーーアルフレドが現れなければーー亡霊はアルフレドを妖精の世界に連れてゆく」
亡霊がアルフレドに依頼した「買い物」。
それは、サテンかベルベットの生地にレースの刺繍のあるドレス。金のリボン。銀の冠。
ーーそれは、昔から17世紀に至るも変わらない、この地での多少裕福な貴族の花嫁衣装だった。
アルフレドは、先ほど、この亡霊の声を妻だと思ってしまった理由を知った。
亡霊は、女騎士だったようだ。
気付けば、亡霊の姿はもはやなく、目の前には赤い炎がパチパチと燃えていた。
だが、すえた黴のような匂いと、首や頬にべっとりとつけられた沼の泥のような湿り気が、いままでそこにいた亡霊が幻ではない事を告げていた。
夜明けを待ち、アルフレドは市場の開かれる街スカーバラに向かう。
途中の野宿も、もはや恐ろしくはなかった。
すでに、妖精に魅入られたものを襲う怪異はないだろう、そんな風に、勝手に考えた。
三日後、アルフレドは市場に到着した。
アルフレドは、まず所持していたいくつかの板金を売り払った。
故郷から持ち込んだもので、元々これの換金が市を目指した目的だった。
ある客は「この質なら、もっと高値でも売れるだろう?」とアルフレドに言った。
アルフレドは「いいんだ。事情があってーー急いで金が必要なんだ。花嫁衣装を買う金が」と答え、客は「それはおめでとう」と笑って立ち去った。
亡霊の指定した衣装を揃えるのは、少し手間だった。
ドレスのサイズがわからないので、これは妻エディスの体型のものに合わせた。
皮肉なものだーー妻にはこんな立派な花嫁衣装は用意してやれなかった。
持っている中で一番上質な麻で仕立てた服は、決して見窄らしくはなかったけれど、一度くらいは、こんな貴族が着るような服を着せてやりたかった。
そう思いながら、市場を歩き回った。
金のリボンと銀の冠は、あるにはあったが、来月に結婚を控えた先約客がいた。
アルフレドは迷ったが、業者とその客に事情を話して譲ってもらえないかと、頼みこんだ。
「え、馬鹿なーーそれじゃあんたは、またあの廃砦に戻る気なのかい?」
「おやめなさい。せっかく命拾いしたのですよーー亡霊のーー妖精の騎士の伝説は古いものです。つまり、昔からいるのですーー亡霊には市がいつ終わるかなんかわからない。100年でも200年でも、あんたの帰りを待っていますよ」
「あれは、そういう怪異なんだ。そうやって逃げ延びた人たちがいたから、伝説が残ったんだ。あんたも、逃げていいんだーー大丈夫、追いかけてなんか来れないよ」
業者と先約客は、アルフレドに同情しながら、口々に彼を引き留めた。
「いえーーならばなおさら、せめて俺くらいは約束を守ってやらないとーーどうせ、いいんです。あの時は怖くて命乞いしたし、今でも怖いけれど」
アルフレドは、病死した愛妻の顔を思い出す。
「どうせ、あいつが死んでから、一日だってーー安らいだ日はないんです。こうして旅をしているのも、半分は故郷にいるのが辛いからでーー」
当時、貧しかったアルフレドは自分が不甲斐ないせいで、妻は満足に治療もできず、高価な薬も買えなかった事をずっと悔やんでいた。
妻を殺してしまったのは自分なのではないかと、良心の呵責に苦しんだ。
夜中に飛び起きて頭を抱え込んだり、逆にいつまでも眠れない日も少なくなかった。
もしかすると、心にそんな地獄を抱えていたからこそ、亡霊を引き寄せてしまったのかもしれないーー今はそうも考えていた。
「俺は、亡霊にこれを届けます」
アルフレドの決意は固かった。
アルフレドは衣装を買った残りのいくばくかの金で、故郷の両親に、あたたかな冬着と小さなお守りを買った。
亡霊に取り殺されれば無駄になってしまうが、もし万一、脅し文句にあったように「名前を知った者を追いかけて取り殺す」ような能力があるのなら、駄目でもともと、形見として実家に届けてくれないかと頼むつもりだった。
妖精の騎士とはいえ、騎士ならば、あるいはそれくらいの頼みは聞いてくれるかもしれない、と思った。
それに、亡霊は声も姿も不気味であったし、恐ろしい存在でもあったがーーそこまで、地獄の悪魔のような悪しき存在にも、思えなかったのだ。
また三日かけて、アルフレドは廃砦にやってきた。
先日と同じ場所で、火を焚きーードレスとリボンと冠を慎重に、火の粉が飛んでかからないように気をつけて、焚き火の反対側ーー初めて亡霊が現れた場所に置いた。
自らは軽く食事をし、安酒を飲みながらーー夜を待った。
気を張っていたはずだが、いつしか寝入ってしまったらしい。
あるいは催眠魔術のようなものだったのかもしれない。
目を覚ますと焚き火の向こうに、若い女が立っていた。
サテンにレースの刺繍の花嫁衣装。銀の冠を被り、金のリボンを身につけた若い女。
アルフレドは息を飲んだ。
女の美しさに見惚れたが、同時に少し失望した。
それは彼が望んだ姿ではなかった。
「アルフレド アルフレド お前は約束を守ったのに、お前はどうして悲しい顔をする」
女が口を開く。
先日の黴た匂いも、湿り気も感じない。
幻像の様に美しいその仕草と声。
「我は砦の女騎士。嫁入り控えたその月に、蛮族めらに襲われて、砦は落ちて身は焼かれ、燃え滓は沼に捨てられたーー魂は現世と地獄の狭間に落ちた。己が誰か忘れたまま、ただ共に燃えた花嫁衣装を探して彷徨った」
亡霊の騎士は、歌うように語る。
「幾多の旅人と約束をしたが、果たして戻ったのはアルフレドただ一人。礼を言おう。命も救うーーだがアルフレドーー命が助かりめでたい夜に、お前は何を嘆くのか。先日のーー命乞いしたあの夜よりも、今の方が、むしろ辛そうだ」
アルフレドは堪えきれず、涙をこぼした。
「俺はーー妖精の美女を見たかったんじゃない。俺が会いたかったのはーー平凡な田舎娘だ。俺の妻だ。そんな事はあるはずないのに、この前あんたの声が、一瞬エディスの声に聞こえた。だから、もしかしたらとーー」
焚き火が、パチパチと燃えていた。
妖精の騎士はしばらく黙ってアルフレドを見つめていたが、やがてふわりとその横に腰を下ろす。
「この前は、お前の心の中の声を真似たのだーー今度はお前の心の中の姿を見よう。さあーーアルフレド、わたしを見よ」
アルフレドは見上げ、息を飲んだ。
「どうした、アルフレド」
そこにある顔はエディスの顔。
その声はエディスの声。
「もちろんこれはまやかしだ。たがアルフレドーーこの衣装の礼に、せめて夜明けまではアルフレドの話をきこう。さあ、アルフレドーーわたしに話せーー何がお前を苦しめる」
アルフレドは、それが妻ではない事を知りながら、しかし誰にも言えなかった思いを、初めて吐露した。
「俺は、貧しくて、薬も買ってやれなかった」
「そうか、だが薬は高いだけで、効かなかったろう」
「お前が死んでから、働いて働いてーーこうして市場へ顔を出せるようになった」
「そうか、頑張ったのだなアルフレド」
「両親に土産も買った」
「両親は喜ぶだろうな、アルフレド」
「俺は本当は、一日も早くお前の元に行きたかった」
「焦らずとも、いつかまた巡りあうだろうよアルフレド」
アルフレドは延々と、思いを語る。
妖精の騎士はそれを否定せず、そうだな、と必要以上に慰めも叱咤もせず、ただ聞いてやるだけだった。
やがて、夜が白む。
「さあ、朝だアルフレド。わたしは行く。アルフレドもまた、行かねばならぬ」
「‥‥」
「わたしは呪われた亡霊ゆえ、やはりお前の魂の一部を奪って行こう。さらばだアルフレド」
また、意識が遠くなる。
アルフレドは目覚めた。
鳥がどこかで鳴いている。
朝だ。
眼前には薪が燃え尽き、消えた焚き火の跡。
砦の窓から光が差し込む。
光に照らされ、映し出されたのは、銀の冠を被り、金のリボンを巻きつけ、花嫁衣装を纏ったーー白骨だった。
それはアルフレドの身体を、まるで母が子を慈しみ抱くような形で、朽ちかけていた。
アルフレドは、自分がその崩れかけた手をしっかりと握っているのに気付いたが、しばらくはその手を離す気になれなかった。
アルフレドは、大きな頭陀袋を探してきて、その遺体を一番近くの教会に運び、埋葬と鎮魂を依頼した。
花嫁衣装を着た白骨に、プリースト達はひどく驚きはしたが「まあ、古戦場のこの地では、そういうこともあるのかもしれない」と引き受けてくれた。
その後、アルフレドはまた故郷への旅を続けた。
しかし、彼はもう、以前の様に妻を想って塞ぎ込む事も、夜中に頭を抱えて悪夢に怯える事もなかった。
妖精の騎士が、魂のもっとも昏い一部分をーー奪っていったからだった。
大事な心の一部を奪われた事は許しがたい。
アルフレドはそう思いつつも、今日も亡霊の眠る墓の方向に十字を切り、祈るのだった。
※イギリス民話としてのScarborough Fairをオマージュしています。




