或る男の話
妻と子供が死んだ
交通事故だった
2人だけで向かったテーマパーク
俺は興味がなく、1人家でNetflixを見ていた
夕方、知らない番号から電話がかかってきた
最初は理解できていなかった
理解したくなかったのか
今でも本当には理解できていないのか
2人がトラックに轢かれ、即死だったと聞いて、病院に向かった
損傷も酷く、未だにあの悲惨な遺体が自分の家族だったと、理解出来ていないのかもしれない
その後のことは、記憶が曖昧になっている
とりあえず実家に連絡し、母を呼んで一緒に話を聞いてもらうようにした
40過ぎても親を頼るようなマザコンなのかもしれないが、1人では冷静に聞けないということだけは、自分でわかっていたらしい
医師や弁護士から色々と話を聞いた
葬儀屋の人からも話を聞いた
妻の実家の両親にも電話をした
多分、感情が死んでしまっていたからなのか、淡々とした喋り方で、義父や義母が「そんな不謹慎な冗談を言い出すなんて」と怒り出していたらしい
途中で、母にスマホを奪われ、電話を換わって説明をしてくれたみたいだ
その間も、何処か映画のワンシーンを眺めているような、浮世離れした感覚というか、地に足がついていなかったというか、なんとも形容し難い、現実味を感じれない世界だった
葬儀が終わり、弔問客達にも挨拶をし、とりあえず実家に寝泊まりすることになった
加害者の弁護士ともあった
2人の損害賠償や慰謝料は6000万円くらいになるらしい
あと、2人にかけていた保険で500万円くらい支払われるらしい
普通に考えたら、途方もない大金なのだと思うが、人生かけたボードゲームでやり取りするようなイメージしか持てず、ただ「そうですか」としか、話せなかった
10日ほどした後、会社へ出社した。
上司や同僚から励ましや慰めの言葉をかけられたが、御礼を言うだけで他には何もできなかった
会社に復帰した後は、何日か忘れたが、とりあえず定時までに出社は出来ていたようだ。
ただ、出社するだけで、今までの業務なんかは、同じペースでできなくなっていた。
集中出来ないのか、2人のことを唐突に思い出すのか、何もやる気が起こらないだけなのか、、、
兎に角、何をしていても、ただ途中で手が止まってしまうみたいだ
翌日、上司に別室に来てもらい、会社を辞める旨、伝えた。
最初は引き止められた。
休暇をとってゆっくりしながら、心の傷を癒せばいいとかなんとか言ってた気がする。
心の傷は癒せるものなのか、
そもそもこの動かなくなった感情は、傷ついただけでまだ生きているのか、
本人ですらわかっていないのに、対して親交のない、ただ職場の上席に座っていただけの人間に、何がわかるのか
怒りの感情が急激に起き上がり、その場にある物に当たり散らしたい衝動に駆られるが、歯を食いしばり、目を瞑り、天井の方を見上げながら、大きく息を吸い込んで、湧き上がっていた衝動を心の奥底に押し込めた。
とりあえず、今のままでは会社に迷惑もかかるし、なにより自分が辛いので、非常に申し訳なくはあるが、今日を持って辞めさせていただく旨をつたえ、会社を後にした。
四十九日が過ぎても、現実味の無い感覚は変わらなかった。
ある日の法事でお坊さんが話をしてくれた
「残された遺族は、どんな形であれ、家族の死を背負って、その後の人生を歩んでいかなければならない」
その後に続く、感動するような、納得出来るような、そんな言葉も話してくれたみたいだが、ただ自分の耳に残ったのは"死を背負って歩んでいかなければいけない"という、呪いのようなフレーズだった。
その後、会社から連絡があり、今月末付での退職届を受け取ったとの内容だった。
私物は全て処分してもらうことにした。
退職金等は、来月末に振り込まれるらしい。
簡単に計算したところ、賠償金や保険金、今までの貯金とかも含めると、1億円くらい口座にあるらしい。
2人がいた頃は、あれが足りない、これが欲しい、ここに行きたい、あれも食べてみたい、と全部叶えていたら、お金がいくらあってもサラリーマンの安月給だと足りないくらいだった
1人になると、家族を失った対価で大金を得て、
同時に何をしたいという気持ちも引き換えにして、消え失せたようだ
とは言え、このまま2人の後を追ってしまうと、
老夫婦となった両親に対し、親不孝をしてしまうのも気がかりではあるので、
とりあえず、両親が存命中の間は、のんびりと過ごすことにした
今までにしたことの無いことをやってみると、この最悪の人生も変わるかもしれないと
会社を辞めた今日、金髪に染めてみた
金髪にしてみた。
鏡に映る自分は、まるで知らない他人のようだった。
いや、たぶん、あの事故以来、本当の意味での“自分”なんてもう存在していないのかもしれない。
金髪の男は、今日も生きていた。
心が死んだまま、感情の燃えカスを抱えて、かろうじて生きていた。
とりあえず、街を歩いてみた。
平日昼間の商店街は静かで、老夫婦が八百屋でじゃがいもの値段を見ている。
若い母親がベビーカーを押しながら、スマホを覗いている。
ああ、こんな風景の中に、かつての俺たちもいた。
そこには、何気ない「日常」という奇跡があったはずなのに、それを雑音のようにしか見ていなかった過去の自分に、今さら怒る気力もない。
知らない喫茶店に入った。
カウンターで一人、ブラックコーヒーを飲んでいると、年配のマスターが話しかけてきた。
「暑いのに、ホットで大丈夫?」
「はい。……何となく、その方が、まだ生きてる感じがして」
マスターはそれ以上、何も聞かなかった。
この「何も聞かない」が、今の自分にはありがたかった。
少しの沈黙と、少しの温かさと、コーヒーの苦さだけが、現実との接点だった。
金髪は数日で飽きた。
風呂に入るたびに、鏡に映るその髪が、自分を小馬鹿にしているようで嫌になった。
だけど、今さら黒く戻す気力もなかった。
結局、帽子を被るようになった。
ある日、気がつくと、ノートを開いて、何かを書いていた。
誰に見せるわけでもない。
でも、書いているときだけは、少しだけ呼吸が楽になった。
内容なんてどうでもよかった。
ただ、文章の中では、まだ俺は生きていて、家族の思い出も、そこにちゃんと存在していた。
あの日から、世界は変わってしまった。
でも、本当に変わったのは、世界ではなく、自分の内側だった。
音楽が聴けなくなった。
映画が見れなくなった。
誰かの笑い声が、喉を刺すようになった。
それでも、毎日、空は変わらず朝を迎え、陽が沈み、星が瞬く。
そんなことすら、時に腹立たしくなるほど、世界は変わらず回っている。
「死を背負って生きる」という言葉が、呪いのように心に刺さっている。
だけど、呪いでもいいから、何かを背負っていたいと思った。
それは、妻と子供がこの世に確かに存在していたという、唯一の証でもあるのだから。
今日も、街を歩いた。
金髪の男が、帽子を被って、ゆっくりと、誰にも気づかれないように歩いた。
何かが変わるわけじゃない。
何かが癒えるわけじゃない。
でも、せめて、明日もまた歩いてみようと思った。
歩いていれば、どこかに辿り着けるかもしれない。
歩いていれば、心のどこかに、まだ光が残っているかもしれない。
そう思えた日は、ほんの少しだけ、救われた気がした。
今までは、妻や子供がやりたいことを優先し、
自分のことは後回しにしてきたが、
それをやることによって、前向きに生きることができるかもしれないと、漠然と考え、自分のやりたかったことを一つずつはじめてみた
映画を観に行った。
アクションだったのか、ラブストーリーだったのか、内容はよく覚えていない。
ただ、爆音とまぶしい光に包まれながら、あの暗がりの中で、涙がひとすじ流れていたことだけは覚えている。
誰にも気づかれずに泣ける場所というのは、案外ありがたいものだった。
お笑い劇場に行ってみた。
笑っているつもりだった。
でも、後で録音した音声を聞いてみると、どこにも自分の笑い声はなかった。
口元は動いていても、心までは動いていなかったのだろう。
女を買ってみた。
人肌に触れることで、なにか取り戻せるかもしれないと期待した。
触れた瞬間、過去の温もりがフラッシュバックし、慌てて違う記憶にすり替えようとした。
行為が終わったあと、トイレで胃の中身をすべて吐き出した。
そのときの鏡に映る顔は、自分が最も軽蔑してきた種類の人間にしか見えなかった。
旅行にも行った。
豪華なホテル、観光地、食べきれないコース料理。
確かに「贅沢」だった。
でも、「満足」という感覚とはどこまでも違っていた。
象に乗ってみた。
写真も撮った。
誰かに見せるためではない。
自分が“何かをしていた”という記録だけでも、残しておきたかったのかもしれない。
カジノに行った。
ルーレットの玉が回る音を聞きながら、自分の人生もこんな風に、ただの運任せで回っていたんじゃないかと思った。
勝ったり負けたりしたが、それがどうでもよくなるくらいには、何もかもが遠く感じられた。
ある日、スカイダイビングにも挑戦した。
地上数千メートルから、青空の中へ落ちていくあの数十秒。
心臓が暴れるように脈打ち、耳が風に割れ、世界が小さくなる。
そのとき、久しぶりに――本当に久しぶりに、「怖い」と思った。
そしてそれは、生きていた証のように感じられた。
夜、宿に戻って、空を見上げた。
星があった。
彼女と息子が、どこかにいるのなら、ああいうところにいるのかもしれないと、唐突に思った。
死を背負って生きるという言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
それは、“忘れずにいること”ではなく、
“忘れられないまま、それでも前を向いて歩くこと”だったのかもしれない。
翌朝、少しだけ早く目が覚めた。
まだ陽が昇りきる前の、静かで湿った空気が、窓の隙間から流れ込んでいた。
宿の周囲を軽く散歩しようと思った。
近くに朝市があると、昨日フロントの若い兄ちゃんが言っていた気がする。
歩いているうちに、細い路地裏に迷い込んだ。
地図を確認しようとスマホを取り出しかけたそのときだった。
背後から何かがぶつかるような衝撃。
「金出せ」と怒鳴り声。
振り向いた瞬間、胸の奥に冷たい痛みが走った。
……刺された。
理解するより先に、視界が歪み、足元が崩れた。
倒れ込んだ石畳の感触。
遠ざかっていく叫び声。
遠くの空が明るみはじめていた。
意識が遠のいていく中、胸の奥で何かが崩れていく音がした。
そして、目が覚めた。
見慣れた天井。
処分したはずの部屋。
売り払った家具。
もう帰るはずのなかった、自分の家だった。
寝汗でシャツが貼りつき、喉が乾いていた。
息を吸う。どこか懐かしい匂いが鼻をかすめる。
台所の方から、ソーセージが焼ける音。
じゅう、と油が跳ねる音に続いて、味噌汁の湯気が漂ってくる。
あの子が好きだった、あの匂いだ。
「起きたー?」
ふと、廊下の向こうから、聞き覚えのある声が届く。
妻の声だった。
柔らかく、少しだけ鼻にかかった、目覚めの声。
そして、パタパタと裸足で走る音。
部屋の扉が開き、息子が飛び込んでくる。
笑っている。目を輝かせて、こちらに駆け寄ってくる。
「パパ、今日テーマパークでしょ?もう準備できてるよ!」
その姿を、ただ見つめるしかできなかった。
声を出そうとしても、喉が震えて、何も言葉が出てこなかった。
夢なのか。幻なのか。
それとも、奇跡なのか。
わからない。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
その瞬間、自分がそこにいて、
朝陽がカーテンの隙間から差し込んでいて、
匂いや音や温もりが、こんなにも確かに感じられて、
そして何より、この日常を「幸せだ」と思えたこと。
今まで押し殺してきた感情が、一気に胸を突き破った。
涙が止まらない。
息子が不思議そうにこちらを見ていた。
でも、笑っていた。
妻も、同じように笑っていた。
目の前にあるのは、「何気ない日常」。
けれど、それがどれほど奇跡に満ちていたか、ようやく理解できた気がした。
夢ならば、このまま覚めたくない。
現実ならば、もう一度、生き直したい。
心の奥に、誰かの声が響いた。
「あなたが幸せを感じてくれるなら、どちらでもいいよ」と。
――朝陽は変わらず、部屋を温かく照らしていた。
コップの水が光を受けて揺れていた。
その光の中に、ふたつの笑顔が、確かに浮かんでいた。