嫌われたい偽悪女ですが、余命半年なのに魔法騎士が離してくれません
「この女は、王太子殿下である俺を惑わせた悪女だ!」
かつての婚約者であった男、リオネル・アークウッドの怒声が、冷たい広間に響き渡った。
まるで私を裁くために生まれてきたかのように厳しく、愛情など欠片も感じられない。
それもそうだ、私たちは愛で結ばれたわけではない。あくまでも権力と金が絡んだ醜い関係性でしかなかったのだ。
私は何も言わず、ただ静かに膝を折って、石畳の上に座った。周囲の貴族たちがこぞって集まりに来ていることは知っていたが、私を見下ろす視線はどこまでも冷たい。
見渡す限り、ここには私の敵ばかりが揃っている。
あの人たちの目には、私への軽蔑と憎しみしか映っていないのだろう。私がこの世に存在していること自体が罪であるかのように。
王宮に呼び出されてすぐ、証人だと名乗る者たちが次々と証言を始める。
「王太子妃の座を狙い、平民の聖女を執拗にいじめたんですよ!」
「嫉妬から無実の人々を陥れ、貴族社会を混乱させました」
「国のために尽くす王太子殿下を、身勝手に独占しようとしたことは罪深い」
どれもこれも、まったくの嘘だった。
王太子妃の座なんてどうでもよかったし、平民の聖女の存在なんて今日まで知らなかった。貴族社会も面倒だからと、表舞台には顔を出さないようにしていたし、王太子殿下に至っては、月に一回の食事会で顔を合わせればいいほうだった。
何もかもがデタラメでしかないけれど、それでも反論する気にはなれなかった。
(……これでいい)
この場にいる者は全員知らない。もちろん王太子殿下も。
私の命が、すでに余命半年だということを。
原因不明の病が発覚したのは、一年前、ちょうど王太子殿下と婚約を結んだ直後だった。
治療法はなく、死ぬその日を待つしかないと言われたときはさすがに絶望した。
王太子殿下にもすぐに相談しようとしたけれど、「忙しい」を理由に接触することを拒み続けられ、挙句の果てには「お前はまだ俺に何かしてほしいのか」と呆れられた。
ただ婚約を解消したほうがいいと伝えるだけだった。それでも、私の両親が知れば「黙っておけ」と言っていたはずだ。
誰にも惜しまれず、この世から消えるためには、大人しくしていればいい。
「セシリア・アーデン。本日をもって貴族籍を剥奪し、国外追放を命じる!」
たとえ、覚えのない罪を背負わされたとしても。
王太子殿下のリオネルが満足そうな顔を浮かべる。その隣には、平民の聖女と呼ばれる可愛らしい女性が一人。リオネルと同じような顔をして私を見ていた。
そして宣告が下された瞬間、広間はざわめき、廷臣たちの歓声が沸き上がった。
私の運命が決まったことを祝うかのように、誰もが満足そうな顔をしている。
「これで平和になるな!」
「当然の報いだ!」
ここにいる人たちの声が、遠くから響いているようだった。
これでいい。これで、あとは死ぬだけ──
「待て」
誰の声も、ぼんやりとしていたはずなのに。
突然響いたその声だけが、私の耳の奥に突き刺さった。
低く、冷たく響く声に、広間の空気が一瞬で凍りつくのを感じた。誰もがその声の主を探し出すように視線が一斉にそちらに向かう。
振り返ると、そこに立っていたのは、黒い騎士服を身に纏った男。
──カイル・ローウェル。
王国最強の魔法騎士団長であり、戦場の英雄。
その名を知らぬ者はいないと言われるほど、誰もが憧れる存在だ。
冷徹無比な彼は、どこにいてもその存在感を放っている。その一歩一歩が、周囲の空気を変えていた。
広間の雰囲気が張り詰めていくのがわかる。
王宮中の貴族たちが息を呑んでその行動を見守る中、カイル様は悠然と歩みを進めてこう言った。
「セシリアは俺が預かる」
誰もが私の敵だと思っていたのに、カイル様は私の前に立ちはだかった。
(……なんで!?)
聞き間違いでなければ、カイル様は私を預かると言ったの?
戦場の英雄であり、冷徹な魔法騎士団長。
私のような、ただの嫌われ者に手を差し伸べる理由がどこにあるというのか。
カイル様の屋敷に連れ込まれた私は、豪奢な客室に押し込められた。
部屋の装飾は、どこを見ても贅を尽くしたもので、まるで王族が住んでいるかのような豪華さだ。
大きな窓から差し込む光が、部屋の中を淡い金色に染めていて、まるで私がこれからここで長い時間を過ごすことになるかのように感じさせる。
「……幽閉、ですか?」
私はひとり、床に座り込むようにして呟いた。
「違う。ただし、逃げるな」
その言葉だけで、私はここに閉じ込められた。
もちろん、私を「預かる」なんて言ったからには、単なる軟禁では済まないだろう。でもカイル様が言った通り、私は逃げられない。
無力さを痛感しながらも、体は限界だ。さすがにベッドを使うわけにはいかず、立ち上がることもできない。
(まだ半年はあると思ってたけど、病は進行してるのかも)
苦しさに耐えながら、深呼吸を繰り返す。治療法はないと知ってから、薬も飲まなくなった。
死ぬだけとはわかっていても、この苦しさには慣れない。
ようやく痛みが引いていくと、辺りを冷静に見渡せるようになった。
(……本当、綺麗なお部屋。でも、どうしてこうなったんだろ)
私の計画は、もう終わりに近づいていた。
誰にも惜しまれずに、この世を去りたかった。
けれど今、こうして豪華な屋敷の一室に閉じ込められ、しかも、私を「預かる」と名乗る男の監視下に置かれている。
そっと部屋の扉を開けてみれば、廊下には、しっかりと騎士団の精鋭たちが警護についている。
「……逃げるなって言われたけど、これじゃあ逃げることすらできないわ」
どうせ死ぬとわかっているから、何が起きても苦笑で終わってしまう。ずいぶんと肝が据わったほうだ。
それでもカイン様の行動には驚かされるばかりだけど。
すると、部屋の扉がノックされた。
「セシリアお嬢様!」
現れたのはリリアだった。
私にかつて仕えていた、優しいメイド。
彼女の顔を見た瞬間、私の胸がぎゅっと締め付けられた。
「無事だったんですね……!」
リリアは泣きそうな顔をして、私を見つめていた。彼女の目からこぼれそうな涙を見て思わず胸が痛んだ。
「リリア……どうしてここに?」
思わず立ち上がってリリアを出迎える。ここにいること自体、どう考えてもおかしい。
カイル様が私を「預かる」と言ったのなら、リリアがここにいる理由がわからなかった。
「カイル様が、セシリアお嬢様の身の回りの世話をする者が必要だと仰ってくれたんです。そこで、セシリアお嬢様に最も近い侍女だった私を呼んでいただいて……っ、ぐすっ」
「ど、どうして泣いてるの?」
「だって……セシリアお嬢様は何も悪くないのに……っ、誰も聞く耳を持ってくれなくて。あの殿下もなんだっていうんですか!? 婚約者を裁く側の立場に回るだなんて卑怯すぎますよ!」
来て早々、王太子殿下の悪口を言えてしまうのは若さ故か。元来のハッキリとした物言いが現在ではあることも懐かしさを感じられて笑みが溢れる。
「落ち着いて、リリア。誰が聞いているか分からないんだから。それに、これでいいのよ。あのままいたって、私の居場所なんてなかったんだから」
そう、どこにもなかった。
日を増すごとに、王太子殿下は私を悪女へと仕立て上げることに熱を注いでいた。
さっさと別れてしまいたかったのかもしれない。愛想もないような女を傍に置いてても楽しくはなかっただろう。
不思議なのは、悪評が飛び交う私をカイル様が預かったということだ。
ましてリリアまで寄越してくるとは、よっぽど先が見えない。
「そうだ、セシリアお嬢様。今晩は庭でお茶をしたいそうですよ」
リリアが鼻歌交じりに教えてくれる。けれど肝心なところが聞かされていない。
「誰がそう言ってるの?」
「それはもちろん、カイル様に決まってます」
指定された時間に庭へ出れば、月明りの下にカイル様が座っていた。
空気がひんやりとしていて、月光が彼の黒い髪と騎士服を幻想的に照らしている。まるで、彼が王国そのものの象徴のように見えた。
しばらくその場に立ち尽くしていた私に、彼がゆっくりと視線を向けてきた。
「遅かったな」
低く冷徹な声が響く。けれど、どこか優しさも混じっているように感じられたのは気のせいだろうか。
私はわずかに息を呑みながら、彼の方へ歩み寄る。
「申し訳ございません……あの、カイル様、今日はどのような用事で?」
素直に尋ねると、カイル様は一瞬、私を見つめた後、微かにため息をついた。
「用事がないと呼び出してはいけないのか」
「い、いえ……ですが、私と違ってカイル様はお忙しいですし」
そもそも魔法騎士団長様が、私と一緒に過ごしている時点でおかしいと思う。
座れと視線で促され、カイル様の対面に座るよう椅子に腰をつける。
おそるおそるカイル様を見れば、その顔は月を見上げていた。
(……綺麗なお顔。近くで見ることはなかったけれど、今まで見たどの人よりも整ってるわ)
「なんだ」
視線だけが、こちらを捉え、すかさず顔を逸らした。
「いえ……なんでもありません」
見惚れていましたとは口が裂けても言えない。
噂では、冷徹で心を持たない人だと聞いていたけれど、実際に会ってみると、冷たさを感じたのは最初だけで、ここに来てからはどちらかというと雰囲気が柔らかくなっているような気がする。
「どうして判決を受け入れようとしたんだ」
「え?」
「反論しなかっただろう。追放まで言い渡されて」
ああ、そのことか。
悪名高い人間であれば、納得がいかずに暴れまわったほうがよかったかもしれない。
どうせ誰も悲しまないのだから、とことん悪になるというのも清々しかったのかも。
……まあ、醜い姿でしかなかったけど。
「本当のことですから、反論も何もありません」
とはいえ、あそこで反論したとしても聞く耳を持ってもらえなかっただろう。
そういう意味では、大人しくさっさと終わるのを待つというのも選択だったけれど。
「カイル様はどうして私のことを……助けてくれたのでしょうか?」
「助けたなどとは、思っていないだろう」
ふっと笑われてしまい、顔が熱くなる。確かになんと言えばいいかわからなかったけれど、だからといって失礼な言い方を避けたいことを重視したら「助け」しか思い浮かばなかった。
「深い理由はない。通りかかったら、気に入らない判決が出ていたのが聞こえただけだ」
「それでも、私の噂はご存知なのではないですか?」
「知っている」
……やっぱり。だとしたら、どうして私の前に現れたりしたのだろう。
「俺の行動が不服か?」
「い、いえ、とんでもないです」
「……」
返事をしたつもりだけれど、カイル様はじっと私を見ていた。
「あの、何か?」
「言っただろう、セシリアの噂は知っていると。だから納得がいかなかった」
「ええと、話があまり見えていなくて……」
「判決を素直に受け入れたのには、なにか理由があるんじゃないのか?」
戦場で戦ってきた人特有の、鋭さがどこかあるように感じられた。
気のせいだと言われてしまえばそれまでだけど、誤魔化しがきかないような気がする。
「……余命半年なんです」
だからか、ぽろりと口をついて出ていた。
「は?」
「もう、残りが少なくて。治療法のない病にかかっているので、あとは死ぬのを待つだけです」
できるだけ重たくならないように心がけながら、無理に笑う。
「ですから、どんな判決を下されようと、なんでもいいんです。半年後にはいないと考えれば、どんなことも受け入れてしまったほうが楽かと」
「……それだけの理由で、追放を受け入れたのか?」
「はい。私は残りを自由に過ごせればそれでよかったので。なので、カイル様もどうか私のことなどお気になさらないでください。この話も、悪名高い私から聞いたとなればあまり信じてもらえないかもしれませんが」
そっとしといてもらえればいい。余生を楽しむ気力はないけれど、それでも一人で生きていくだけの力はまだあるはずだ。
「なるほどな」
よかった、わかってもらえたみたいで──
「なおさら、お前を放っておくわけにはいかないな」
「……ん?」
「明日は出かける。準備をしておけ」
放っておいてほしかったのに、私はなぜかカイル様と馬車に乗っている。
追放されるはずの人間が、優雅に馬車に揺られているというのはいかがなものか。
「カイル様、どこに向かわれているのですか?」
「着いたらわかる」
目的地を訊ねてもこれだ。もしかしたら、辿り着いた場所で処刑されるかもしれない。
それはそれで怖いけれど、痛くないならそれがいい。
何が待っても驚かないでおこう。そう思っていたけれど。
「わあっ、綺麗」
着いたのがネモフィラが一面に咲く場所ともなれば、驚かないはずもない。
「気に入ったか」
「はいっ! ネモフィラ畑に行くのが夢でしたから、まさかこうして生きている間に見られるなんて……」
いつの日か、願いを託す紙に書いたことがある。
この綺麗な花に埋め尽くされた場所に行きたいと。
(あのときは子どもだったから、いつかは叶うって思ってたっけ)
それでも大人になるにつれて叶わないことを知った。
私に用意された自由はあまりにも少なかった。
王太子殿下の婚約者という枠を勝ち取るために、日々ありとあらゆるレッスンを詰め込まれた。花嫁修行だったのだろうけれど一度も意味を見出せたことはなかった。
「あ……」
ふと、ネモフィラの端っこで見えたとある場所に惹かれた。
「あの店が気になるのか?」
カイル様に聞かれて、ぶるぶると首を横に振った。
「いえ、少し珍しかったので……」
なんて、そんなものは嘘だ。
あのお店は以前リリアから聞いことがある、若い人たちに人気のパン屋だ。
中でもサクサクとしたお菓子のようなパンが一番人気だといっていた。
(食べてみたいとは思ったけど、まさかこのタイミングで見かけるなんて)
さすがにカイル様と一緒にいる今、あのお店に行ってパンが食べたいとは言えない。
すると、隣から力が抜けたような笑いが聞こえて思わず顔を上げる。
「そこまで悔しそうな顔をするぐらいなら行ってみるといい」
「で、でも、カイル様がパンを食べているところを誰かに見られるわけには……」
彼は英雄だ。別に食事をすることぐらいは当たり前だけれど、興味本位に見てしまう人は続出するだろう。私だったらガン見してしまう。あのカイル様がパンを!?などと思ってしまう。
さすがに私のわがままに付き合わせるのは申し訳ない。
「……そういうところだ」
「え?」
「ほら、行くぞ」
半ば連れて行かれる形となり、結果的に一番人気のパンを手に入れることができた。
パン屋の近くに二人がけのベンチがあり、そこにカイル様と並んで座る。
「お、おいしい……!」
早速パンを頬張ると、その美味しさについ言葉が出てしまった。
「そんなにか」
「びっくりして……でも、カイル様はよかったのですか? 私だけ買ってもらってしまって」
買ったのは私一人分だ。
これでは一人で楽しんでいることには変わりないし……。
カイル様は少し考えた顔を見せたあと、
「それじゃあ、一口」
そう言って、ぱくりと、私の手元にあったパンをかじった。
「うん、うまい」
それが自然で、何度も瞬きを繰り返しても、カイル様が食べた分は減ったままだ。
「足りないようならまだ買うか?」
「ッ、いえ! あの、本当においしいですよね!」
まさか私が食べているものを食べるとは思わなかった。
しかも当たり前のような顔だ。これは私が経験なさすぎて戸惑ってるだけで、カイル様にとっては日常茶飯なのかもしれない。
目の前に広がるネモフィラが、まるで私たちを見守るように風で揺れていた。
ほんの少し、この世界と別れるのが寂しいように感じて、それらを振り払うようにパンを食べた。
カイル様のお屋敷に来てからというもの、あまりにも穏やかな日々を過ごしていた。
気付けば、余命半年だと思っていたこの人生が、残り一週間もないほどだ。
「リリア、私はこのままここにいてもいいと思う?」
髪をといてくれている彼女に鏡越しで問えば「もちろんです」と満面の笑みで返された。
「カイル様がお許しになったのなら、セシリアお嬢様が気にされることはありませんよ」
「でも……」
リリアは知らない。私が死ぬということを。
それに、私という存在がいれば、いつかカイル様が結婚するときの邪魔になってしまわないか心配だ。
「ただ、もうちょっとセシリアお嬢様と一緒に過ごされてもいいと思うんですけどね」
「そう?」
「ここ最近は、お屋敷に帰ってくることも少なくなりましたし……お忙しいとは思いますが、セシリアお嬢様を妻として迎えるのであれば、二人の愛は育む時間がないと」
「ちょ、リリア!?」
話が飛躍している。そして誤解している。
私たちは何もそんな甘い関係ではないのだから。
カイル様が私をここに置いている理由はハッキリしないけれど、それでも彼女が考えるような甘い関係ではない。
(そう考えると、私の人生は愛を伝え合うような人はいなかったわね)
つい苦笑が浮かんでしまう。
王太子殿下と婚約していた期間でさえ、私は除け者のように扱われていた。
愛とは無縁の生活かもしれない。
「そうだ、もうすぐ星のお祭りですね」
リリアが楽しそうに口にした。
星のお祭りは、紙に願い事を書いて大きな木に結ぶと願いが叶うと言われている伝統的な行事だ。
「もうそんな時期なのね」
「ええ、毎年お祭りが近づくと、今年のお願い事は何にしようか考えてばかりで仕事が手につきません」
「ふふ、リリアはそれでも仕事はしっかりできているから羨ましいけど」
「ちょっとサボってしまうことはありますよ? でも、一番の楽しみはセシリアお嬢様のお願い事を見るときです」
「私の?」
「セシリアお嬢様のお願い事は、いつも誰かのためでした。学校に通える子が増えますようにとか、飢えのない生活を平等にとか。ご自身の願い事をされているところは見たことがありません」
「そんな出来た人じゃないわ。子どもの頃はネモフィラ畑に行ってみたいと書いたりもしていたんだから」
「それでも子どものころじゃないですか。私なんて、お菓子の家がほしいなんて書いてました」
「可愛いお願い事ね」
星のお祭りは国中で盛り上がる行事のため、どんな願い事をするかで人々は和気藹々と会話を楽しむ。
私も、いろいろな人の願いを聞くのが好きだった。
それが叶わないと知り始めても、紙に願いを託し続けた。
「私は、ずっとセシリアお嬢様に憧れて……とてもお優しいと知っていたのに、悪い噂が流れたときは怒りで自分がどうにかなってしまうんじゃないかと」
「リリア……」
「やっぱり納得がいきません……! セシリアお嬢様を誤解している人たちに、本当のお嬢様を知っていただきたいです。そうじゃないと、私は、私は……」
わあ、と泣き崩れるリリアにそっと手を置く。
きっと、私の余命のことを知ってしまえば、リリアをもっと悲しませてしまうだろう。
自分のことではなく、誰かのために涙を流せる心は大事にしてほしい。
「リリア、大丈夫だから。あなたが私のことをわかってくれていたら、それで十分なの」
そう、私は恵まれていたことに一人ではなかった。
思いがけずカイル様とネモフィラ畑に一緒に行くことができたし、ここまで尽くしてくれるリリアもいた。
もう思い残すことはない。最期は静かに眠れる場所にいたい。
「セシリアお嬢様、本当にお一人でよかったのですか?」
リリアは心配そうに私を見つめている。それもそうだ。「星のお祭りに一人で行きたい」と言ったのだから。
「ええ、そのほうが気楽だから」
「せめて私も同行させていただけませんか? ここ最近のお嬢様は体調もあまりよくないみたいですし……一度、ちゃんとお医者様に診ていただいたほうがいいと思うんです」
「ありがとう、リリア。でも大丈夫よ。それに帰ってきたらしばらく休むから。今日だけ許して」
そうお願いすれば、リリアは渋々頷いた。「絶対ですよ?」「約束ですよ?」「三日は横になってもらいますからね!」と条件を付けられたけれど。
本当は、カイル様と行けたらと思わなかったわけでもない。
けれど私たちは、別にどんな関係でもない。強いていえば、追放命令を下された私を、カイル様が置いてくださっているということだけ。
(……ちゃんとした恩返しもできなかった。きっと迷惑ばかりかけてしまったはずなのに)
私を匿うことで、カイル様の仕事に支障が出るのではないかと心配もした。
たまにお屋敷でカイル様を見かけて声をかけるけれど、会うたびにどっと疲れたような顔をしていた。
(あれじゃあ、どっちが余命宣告を受けてるか分からないわ)
苦笑が浮かんでは、馬車で街へと向かう。
お祭りに参加するといっても、紙に願いを描いて木の枝に結ぶだけ。
それでも今年が最後だから、せめて思い出にしたかった。
街は海が近く、独特の香りで満ちていた。潮風に当たることもあまりないけれど、海の近くに住んでみるのもよかったかもしれない。
「この願い事の紙って無くしたら絶対叶わないんでしょう?」
広場には子どもたちが集まって、願い事の紙を見せ合っていた。
「そうよ。だから無くしたりしないようにしないと」
「大事に持ってないと。だって、将来お嫁さんになれないと困るもん」
「私はお母さんの病気が治りますようにって書いたよ」
私が子どものころと変わらない光景だ。
願いを口にするだけで、なんだかキラキラと輝くような気がした。
しばらく街を歩いていると、次第に海面が見えてくる。もう月が浮かんでいるような時間だ。浜辺には家族や友人、恋人と一緒に海を眺めている人たちを多く見かけた。
(結局、ここに誰かと来ることなんてなかったな)
そんなことを思っていると、ひときわ盛り上がっている集団を見かけた。
中心にかつての婚約者である王太子殿下を見つけたときは思わず顔が強張ってしまった。
向こうもこちらに気付いたのか、一瞬固まった顔を見せる。
「どうしたんですか? お知り合いでも……」
その横にいたのは、あのときの聖女だ。どうやら二人は仲良くやっていたらしい。
「お前……追放された身分でよくも神聖な星祭りに顔を出せたな」
忌々しそうに私を見る王太子殿下の目。そういえば、こんな顔をよく向けられていたっけ。
「どうせ今も、他人を馬鹿にして生きているんだろう」
馬鹿にしたことなど一度もない。馬鹿にされてきたほうだ。
「まあちょうどいい。これまでの悪行を土下座でもして謝るっていうなら許してやってもいいぞ?」
声高々に宣告すると、周囲にいた人間がより一層盛り上がるようにはしゃぐ。
もちろんそんなことをするつもりはないけれど、だからといって変に盛り上がってるぐらいなら、頭でも下げてしまったほうが手っ取り早いのかもとも思う。
プライドなんてものはとっくになくなっている。
面倒だけど、今は謝って──
「きゃっ!」
そのとき、幼い子どもの声が聞こえた。
やたらとはしゃいでいた集団にぶつかってしまったらしい。「前見て歩け!」と怒号が響き、子どもは、わっと泣き始める。
よく見ると、その子は怒られたことに泣いたのではなく、海のほうを見て慌てたように走り出して泣いていた。
「待って、いかないで!」
あの声、そしてあの姿、どこかで見たことがある。
『私はお母さんの病気が治りますようにって書いたよ』
そうだ、あの子だ。
あのとき、話していたはずだ。紙をなくしてしまうと、願い事は叶わなくなってしまうと。
男とぶつかった拍子に紙が飛んでいってしまったのかもしれない。
そんなのはダメだ。絶対に。
何も考えず、私は海へと駆けだしていた。
紙は海面に浮かんでいる。届きそうだと思っても、波の影響で遠くへ流れていってしまう。
「ダメ……お願い、届いて……私の命をあげるから」
死ぬのは私でいい。もうじき死ぬ命なんて価値がないかもしれないけれど、それでもあの子のお母さんは生きててほしい。
ざぶざぶと海面をかき分けていくと、次第に足が届かなくなった。
ドレスが重い。ああ、せっかくリリアが綺麗に整えてくれたのに。
必死で手を伸ばす。届きそうで、届かない。
「私でいいでしょ……私の命をあげるから……だからお願い!」
ぐっと力をつけて手を伸ばすと、浮かんでいた紙に指が届いた。
(やった、取れた……あとは、戻るだけ)
けれど疲れなのか、はたまた死期が近いからか、視界が定まらなかった。
力が入らない。手も足も動こうとしなかった。
(せめて、この紙をあの女の子に……)
沈んでいく。
息が苦しい。
死ぬって、こんな感じ?
ああ、後悔ばかりだ。
この紙も、リリアのことも……カイル様のことも。
「セシリア!」
そのとき、誰かの声と、温もりが届いた。
誰だろう……知ってる人だ。でも目が開かない。
(お願い、この紙を……)
そこで意識が途絶えた──はずだった。
「……リア! セシリア!」
呼ばれていた。私の名前を懸命に呼ぶ人の声。
「カイル様……?」
見て、ハッとした。そこには全身ずぶ濡れのカイル様がいる。
「セシリア、俺がわかるんだな?」
「も、もちろんです……あの、どうしてここに……」
見渡せば浜辺だった。周囲に人はいない。
そこで、手元を見る。あれだけ追い求めた紙がそこにはない。
「紙が……」
「そのことなら、女の子に渡した。泣いて感謝していた」
「そう、ですか……よかった」
気が抜けて、また瞼を閉じそうになる。意識が薄れかけたその瞬間、じんわりと温かい光が体を包んだ。
もしかして、最後の願いでカイル様に会わせてもらえたのかもしれない。
紙に書いた願い事は、まだ木に結べていないのに。
それでも、死ぬ前にカイル様に会えて──
「……あれ?」
柔らかな光がカイル様の手から溢れている。その光が私を包み込むにつれ、痛みや寒さがすっと消えていった。
「もう大丈夫だ、セシリア」
カイル様の声はどこか安堵に満ちていた。
さっきまで鉛のように重かった手足が動かせるようになり、息苦しさも消えていく。体の奥深くにまで染み込んでいた疲労さえ、霧が晴れるように抜けていった。
「カイル様、これは……?」
驚いて彼を見上げると、カイル様は微笑んだ。
「セシリアの病を治す魔法だ。やっと成功した」
その言葉に、私は目を見開いた。これまでお屋敷に戻らなかったのは、ずっと私を治す魔法を探していたからだという。
「……本当によかった」
ぽつりと呟くカイル様の手が、そっと私の頬に触れた。その手はまだ少し震えていた。
「セシリアは、人のために、命まで渡してしまうんだな」
「え……?」
「ずっと、セシリアの願い事を見てきていた」
そう言って、カイル様は遠くを見つめた。その先には、街一番の大きな木がある。
「人のために願うその心にずっと惹かれていた。優しい心の持ち主だと」
「……ずっと、ですか?」
「子どもの頃から。おそらく、ネモフィラ畑に行きたいと書いたころから、セシリアの存在が気になっていたんだ」
「人の願いではなく、自分の願いじゃないですか……」
恥ずかしい。自分の過去とはいえ、消してしまいたい。
それでもカイル様は穏やかに首を振った。
「それは小さく書いていただけだろう。その隣に大きく”人々が幸せになりますように”と書いていた」
そうだっただろうか。よく覚えていない。
けれど言われてみれば、カイル様は、私の悪評ではなく、別のことを知っているような素振りを見せてくれていた。
「カイル様……ありがとうございます」
どれほどの思いで、ここまでしてくれたのか。その想いが胸にしみる。
気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。
「セシリア、これからは一緒に星祭りに行かないか?」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
私はそっと彼の手を握る。
「もちろんです、カイル様……!」
静かに、二人の手が重なったまま、星の輝く夜が更けていった。
了




