70 イレーヌの事情
アルチュールに呼ばれてイレーヌが応接室に来ると、父親のヴィスタル侯爵が手招きをした。
「イレーヌ、こちらに来なさい」
ヴィスタル侯爵は、ユークリッドの向かいの一人掛けソファにイレーヌを座らせる。
「トレファン侯爵、久しぶりでございます」
イレーヌはユークリッドに礼をとってから着席をする。まさか自分の縁談として来ているとは思いもしない。
「少し痩せたのではないか?」
ユークリッドの目には、イレーヌが噂に憔悴しているように見える。
「いえ、そんなことは・・」
イレーヌが笑顔をみせるも、その表情は固い。アルチュールは王宮の宰相室につめていたので知らなかったが、ヴィスタル侯爵はイレーヌが婚約解消して噂が流れだしたころから元気がないのを心配していた。
「イレーヌ、お前にトレファン侯爵から縁談の申し込みがあった」
ヴィスタル侯爵は娘の顔を見つめて告げた。
イレーヌは驚いてユークリッドを見たが、父とユークリッドの間では決まったことなのだと理解する。
けれど、イレーヌには受け入れる訳にはいかない理由があった。
「トレファン侯爵閣下は王家の血筋。とても私では」
言いながら、イレーヌの声は小さくなる。
ユークリッドは立ちあがり、イレーヌの前に来ると膝をついた。
「イレーヌ嬢が不安に思うのは、私との年齢差であろう。私自身が年甲斐もなくと分かっている」
たとえ悪い噂があっても、イレーヌならば若い男性が縁組を願うだろう。
だが、その男達にイレーヌを渡したくないと思ってしまった。
「お父様、トレファン侯爵と少しお話がしたいです。
すこしの時間だけでいいので、二人にしていただけませんか?」
イレーヌはユークリッドを見ずに、父親と兄に視線を向けた。ヴィスタル侯爵は何か言いたそうだったが、アルチュールに促されて部屋を出て行く。
パタンと扉が閉まる音がして、イレーヌは顔をあげてユークリッドを見つめた。その顔色は悪く、睫毛が細かく揺れ、唇は言葉を紡ごうと震えている。
ああ、私は振られるんだな。
ユークリッドは、イレーヌの様子に確信した。
「イレーヌ嬢、やはり私のようなおじさんでは嫌だろうか? 家のこととか気にしないで、気持ちを言って欲しい」
「違うんです。トレファン侯爵は素晴らしい方だと思います。知識も深く、馬車の中でお話を聞くのが楽しかったです」
震える声も、涙をためて瞬きする瞳も綺麗で、ユークリッドはイレーヌから目が離せない。
「私には資格がないから」
「君に釣り合う資格がないのは、私の方だ」
「違うんです」
ユークリッドの言葉に被せるように、イレーヌが言う。
その肩は震え、嗚咽交じりに言葉が続く。
「私は、トーマス・ダフネアにしか嫁げないのです。だから、婚約解消したら、どこにも嫁ぐことはできないのです。
ダフネア伯爵家での婚約者のお茶会で、トーマスは侍女達を下げて、部屋に鍵をかけて」
そこまで聞けば、ユークリッドにでも想像がつく。
「言わなくていい」
ユークリッドは震えるイレーヌを抱きしめた。
「部屋の外に出された侍女に助けを呼ぼうとしたら殴られて、抵抗すればまた殴られて、ドレスを引き裂かれ、痛くて、自分がみじめで。
両親にも兄にも気づかれないように侍女に口止めをした。
それからは、トーマスと二人にならないようにヴィスタル侯爵家か街でしか会わないようにしたら、トーマスはこれ見よがしに他の女性と親密にしているのを隠さないようになった」
イレーヌがユークリッドの腕の中で震えながら言うのが、ユークリッドには哀しい。
「トレファン侯爵は初婚で、汚れた私には嫁ぐ資格がないの。
それに、怖くって閨ができないかもしれない」
「イレーヌ」
ユークリッドはイレーヌの手を取り、手の甲に口づけをする。
「よく耐えたね。私だって無垢な身体じゃない。
だから、私の元に嫁いでおいで」
部屋に戻って来たヴィスタル侯爵とアルチュールが見たのは、ユークリッドにしがみついて泣くイレーヌだ。
ユークリッドは優しくイレーヌの髪をなでながら、怒りで叫びそうだった。
トーマス・ダフネア、殺してやる。
読んでいただき、ありがとうございました。
イレーヌは、浮気をする王太子にトーマスを重ね、心を病んだと噂が流れたナーディアに絶望をしたのです。




