秋山図(2)&河童(1)
斯くも巧妙に名画を評してみせる芥川の絵への鑑識眼は、それは優れたものなのでしょう。しかし万言を尽くしてみても一幅の絵を描き切ることはやはり出来ません。況や梵の心を、姿をや…です。これが畢竟、芥川の(のみならず我々小説家すべての)終生のテーマなのです。
※因みに下に掲載した、秋山図ならぬこの名画、これAIによって描かれたそうですよ(確かじゃないが)。しかしだとしたら筆跡と云い大したものですね。蛇足だが絵の美女が絵中で年を取って老婆となり、それで名画でなくなる…なんてことはないでしょうよ。飽くまでも見る人の目が、感性が退化したのです。名画は名画です。
※若い頃プラード美術館で見たヴァン・ダイクのピエタ…いつまでも心の中で色褪せることはありませんよ。
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和歌一首…我が小説宣伝⑤河童
自殺して河童の国に転生しパロディ現…シニカルならぬ
詞書:「河童」は芥川晩年の頃の作品。主人公は精神病院に隔離中の患者…という設定が意味深です。つまりこれは、この小説の執筆時に彼が自分の精神の錯乱ぶりを隠そうとしていなかったということです。むしろその錯乱自体が彼の人生と(執筆した数々の)小説へのシビアな問い掛け、最終的な、シビアな詰問となっているのです。まず、作品より抜粋した以下の問答を挙げてみましょう。そこでは芥川自身に見立てた河童の詩人トツク君が〝詩人として疲れていた〟がために「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。岩むらはこごしく、やま水は清く、薬草の花はにほへる谷へ」というゲーテの『ミニヨンの歌』を遺書代わりに残してピストル自殺をしてのけた次第となっています。




