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ぽんぽこ林業のたぬきはん

 クライナーの紫と水色を混ぜてみてどんな味になるのか調べているとき、ガサガサいうのが耳について、それで西田はようやく自分の横にお隣さんの出来ているのに気づいた。

 それは、○×公園の西側の芝生の、桜の木が主役という風情で幾本いくほんも並び立っているあたりのことである。おや、えらい気の早いもんもおんねんな、と西田は自分を差し置いて思った。

 三月の最後の週末ながら今年の桜に満開の気配がなく、花見盛りは来月ということになるらしい。

 西田は会社の仲間と一緒になって、花見というよりも酒を飲みに芝生へシートを広げていた。また、そういう一団は少なからずあるらしく、彼らが昼すぎになってここへやってきたときも、桜の幹のそばに広げられたシートとひとの姿はないではなかった。だれかれも花を見るというよりも酒を飲みに来ているのに違いなく、シートを広げ終えてしまったこういう連中がふと花見気分思い出したさに見上げる風光は、むなしい枝にほんのひとひらふた片ひらいているので十分なのだ。でも西田は一足ひとあし早い花見のそういう枝のなかにも、はじけるような明るい景色のあるのを知っている。枝にはたくさんのつぼみがある、そこには明るい希望が大切に保管されているはずなのだ。このつぼみは近い将来必ずよろこばしい未来を具現する。あのやわらかい花弁かべん、ふっくらした陽光を反射するというよりも内に含んで自ら明らむというような花弁、無限に咲いて無限に散るかと思われる花弁、桜の枝があたかもはつらつとした喜びに打ち震えるかのような染井吉野の爛漫らんまんは、年度のはじめを四月に持つ日本にとって始まりを象徴し、そのために始まりそのものであるかのごとくである。そうおもってまだ咲かない桜の枝の下に微醺びくんを帯びた精神をただよわせていると、彼はまだ訪れないながら爛漫たる様の約束されたつぼみの将来と同じ具合に、己が将来さえ明るいばかりに思われ、快い春風のゆりかごに始終しじゅう揺られる心地になる……。

 で、西田は、隣りに気配のあるにつけて、花見はいよいよさかりになるのだなと思った。花見盛りは人見盛りである。会社でついぞ見かけることのない若い異性を、こういう機会に無遠慮に眺めるだけの下品を身につけて久しい西田は、お隣さんに色気のあることを願って酔いのまわりつつある頭をそっちへ向けた。

 すると、お隣さんはたぬきだった。

 ずんぐりでむっくりの毛むくじゃらでありながら毛並みが上品なうえ、あろうことか西田と目があったとき、この獣はたじろぎもせずに、

「ああ、どうもこんにちは。お隣のほうつかわせてもらってま」

 と言った、親しみやすい会釈を添えて。それはこうべを垂れたときに、先に瞳の方が上向いて、こちらをうかがうようにのぞき込んでから頭をあげるといった具合である。が、たぬきの人相に慣れていない西田にとって、突き出た鼻に阻まれて全貌の見えにくい微笑みのために、あの口元が人語をしゃべったのだと思うと薄気味悪くもあり、また獣のごときも失することのなかった礼節を、人たるわれ不躾ぶしつけとあれば人のこけんにかかわろうとも感ぜられたから、かれは思い余ってこのようなことを口走った。

「丁寧な。こちらこそ、よろしゅうたのんます」

 で、たぬきも西田もなにひとつもの言わずただ対面するばかりになると、西田は重荷のいったん降りたような心地になって、たぬきの様相をしみじみ観察するいとまを得た。

 すると、たぬきの眼光の意外に鋭いことにいすくまれる思いがして、西田の視線は思わず伏目がちに、シートのうえへ逃れた。が、たぬきのシートもブルーの安物で、そこにのっている品物と言っても、別段たぬき臭いものはひとつもなかった。酒の缶、パックの焼き鳥、ピーナッツの小袋、それからビニールの袋があってその中にはまだいろいろの食べ物か飲み物がしまわれている、おそらくそれはこれから並べるもので、たぬきもまたひとが桜の木の下でシートを敷いたときにするのと同じように、お花見の準備をしていたものと思われる。西田は合点のいく心地を見出しつつも、むやみな好奇心からビニール袋に興味を惹かれた。いっぱいものを入れているにしてはところどころ折り目のピンとした袋で白いおもてにまるでくもりのない、すなわちその袋は()()のビニール袋であり、このたぬきはついさっきどこかのコンビニかスーパーで買い物をして、その足でいまここに佇んでいるのに違いない。そう思いいたってみると、たぬきがごとき獣にも不自由なくショッピングできてしまうお店というのはどこの店かいな、またどんな風に会計を済ませたのか、まさか葉っぱで化かした偽札を使いでもしたのではあるまいな、などと考えてみた。

 ところが眼前の獣はどうみてもただのたぬきだった。ちょっと慇懃いんぎんにものをしゃべるだけのたぬきで、三月の終わりごろには誰だってそうするように、桜の木の下でシートを広げているだけのたぬきなのである。たぬきはたぬきでたぬきなりの社会もあるだろう、と西田は思って、ふとこういうことが口をついて出た。

「すると、たぬきはんも仕事の都合でお花見でっしゃろなぁ」

「いやあ、ははは」とたぬきは笑って、こんもり入ったビニール袋をガサガサ言わせながら、「まあ、そういうとこですわ。そちらはんも仕事で」

「ええ、入りたてやおもてこんなんばっかりさせられますわ。ははは」

「せやかて、ちょっと急ぎ過ぎましたな」

 とたぬきは頭上のえだえだを仰いだ。青空はすっきりしていながら、桜の枝は黒々としてい、こんな寂しい枝なのも開花の時期に達していないつぼみのせいに他ならない。ひとたび開花すれば、この縦横じゅうおう奔放ほんぽう千枝ちえのことごとくは、清い彩りのかなたに沈んでほとんど存在せぬがごとくになる。こんなにも物静かにからだを広げ青空をひび割れのようにしている桜の枝は、盛りにあってはひとの目に留まらぬ些末さまつな影になる。そうすると、つぼみは桜の枝にとって、おのが未来を閉ざす不吉な腫瘍かもしれない……。

「えらいおそうなりまして」

 といつの間にかたぬきが名刺を差し出していた。

 西田は思わず腰をかがめて、慌てたまんま両手で受け取った。あまり性急に受け取ったから、たぬきの敷いたシートの方にかれの片足が一歩踏み入った。

「ぽんぽこ林業の……まずたぬさんですか。えらいすんまへん。わたしの方は持ち合わせのうて、わたしは――」

 と西田が名のろうとしたのもつかのま、

「西田はんでんな」

「は?」

 西田はひとかたならず驚いた。けれどもかれは、さっきからそうなのであるが、たぬきの声色の穏やかさというか、厚い体毛の、ときおり春風のためにふわふわする感じというか、どことなく親しみやすいような懐かしいような好意を覚えつつあった。

「いやいや、会社のかたがさっき話されとるのを、ついさっきですわ、下見にきたときに偶然聞いとったんで。ええ。あっとりまっしゃろか?」

「ええ、ええ、西田です。あっとります。ははは、そうでっか」

 西田はこれで打ち解けたような気がした。もうかれにとって目前のたぬきは獣にあらず、まず井たぬ輝さんという友人なのであった。

 で、親しみの募ったままに世間話を始めるつもりでこんなことを訊いた。

「そうするとぽんぽこ林業はんも、花見は今週末っちゅうことで決めておられたわけでんな。ほんまに、まだまだつぼみばっかりで残念でんな」

「いや、そうでもありまへんで」

 ここでたぬきはたたずまいをなおし、なかば胸を張るような具合に直立二本足らしさを強めた。――ぽんぽこぽんぽん――たぬきの肩はいっそうなだらかになって、あたかもこけしのような風情になる。そして、続ける。

「わてらはまあ、花見のつもりもあるにはあるっちゅーことも言えますねんけどなあ、わてらはまあ、ほどほどええ木を探しとるちゅーこともありまんねやわ。林業やらしてもろてまっさかいな」

「はあ……そらあ、えらい仕事熱心でんな」

 西田はたぬきの眼光の際立きわだって鋭くなるのに気づいて、ちょっと身の引き締まる感じがした。で、いっそう注意深くたぬきのおもてに視線をそそいだ。たぬきはひたいに汗をかかず眉間のしわも不明瞭で、その外貌から心情を会得えとくするのは難しいように思われた。

「仕事ちゅうのも大変でんな。とりわけひとの社会はいろいろ取り決めの多いことで。あの木はあかん、あっちも切ったらあかん言うて、なかなか商売いきまへんわ。せやからこっそり切らしてもろてますねんや。ひとのあんまりおらんうちに、ばっさりいかさしてもらいまっさ。ここらのもんは大概ええ木してまっさかい、ええ商売なりまっせ。そうでっしゃろ? ぽんぽこぽん」

 たぬきはいつの間にか巨人の風貌であった。酒の缶からしっぽが生えていた、焼き鳥のパックがジタバタうごめいて手足をだす、ピーナッツの小袋に目玉がぎょろっとする。そればかりかシートがぐらぐら揺れてめくれ上がり、片方をかけていた西田の脚が引っ張り上げられて、かれはあわや転びそうになった。ひとりでにガサガサ言っているビニール袋の中身もきっと無数のたぬきに違いない。

「ほんなら、西田はん。わてら仕事さしてもらいま」

「ちょおちいや」

 と西田が叫んだけれど、でっかいたぬきにつぎつぎ他のたぬきが抱き着いて、恐ろしく巨大な人の形を成した。その化け物の大きな手は、桜の幹を野球のバットでもつかむような具合にぴったり握った。その握り方がこの桜の木には根も葉もないという感じに、あたかも浅く打ち付けた杭を軽く引き抜くみたいに持ち上げて、木の根はあわれ土をこぼしながら青空のたもとに露見ろけんした。

 たぬきはこの桜の木をどしんと横たえた。それから獣は、片端は根っこの、もう片端はつぼみで一杯の千枝ちえの無造作なのを、それぞれ指さしながら、「チェーンソーだしなはれ」と叫んだ。

 ビニール袋に頭を突っ込んでいた子だぬきが顔を出して、みずみずしい葉っぱの束を掴みだした。そうしてお札みたいな帯の封を解いて、体いっぱい飛び跳ねて青空に投げつけた。ばらばら舞い上がっていく緑の葉っぱの鮮やかなのが一陣いちじんの風のなかに飲み込まれたかと思うとたちまち姿を変えて、みごとなチェーンソーの形を成した。それはウーウー唸って、紛れもなくチェーンソーの役目を担うのだった。

 見上げながら西田は、幹のよこたわっているのと、その枝と根っこをチェーンソーで切り落としていくたぬきの作業風景とを目の当たりにした。木片が舞って、幹とわかたれた枝が跳ねるように芝生の上に落ちた。その枝にはつぼみがついていた。つぼみは三つ四つが身を寄せあってついている。どことなく花の咲いたときの色を身に抱えていながらも、長いがくのためにその半分は青いという印象がある、枝のよこたわるままに頭を下に向けているせいか、芝生を分け入って土のなかへかえってゆきそうな風情になっている。そうして、切り捨てられたつぼみは枝ともども、チェーンソーの荒々しい働きのために、こけらをかぶって見えなくなった。

 暗いばかりだった桜の幹は皮をむかれて白けたようになる。製材の匂いが焼香のように嗅がれ、よこたわった桜の丸太はあたかも遺骸いがいだった。

「西田はん」とチェーンソーの唸りをとめたたぬきは、巨体のために西田を見下す格好になり、青空を背にして顔に影を作りながら、また少しずつ縮んでいきながら、「枝もつぼみも花さえも、しょせん幹のまえには価値などあらへん。桜の本体は幹でんがな。どうでっしゃろ? 西田はん、おまんはんどないおもてまんねん。若いつぼみも花開いたのも、青空へ体を広げる枝かて、切り捨てられるもんやと、そうおもいやらしまへんか。幹だけが、立派に削り上げられて、建材として永久に残りまんねん。そうでっしゃろ。西田はんは建築の会社に勤めてはりまんねやろ。どうでっしゃろな、どっかでわてらの切った木材が、西田はんの手に渡ることも、そらありまっしゃろな」

「あほな」

 と西田が叫んだ。が、声は出ていない。たぬきは西田の足元で四つん這いになっている。シートをガサガサ鳴らしてむこうへかけていった。ふと、かれはあたりをみた。桜の木は一本もない。ぜんぶたぬきがとっていったに違いない。空は夕焼けになっている。焼けるような西日がかれの頭の上に落ちてきて、かれは溺れそうになる。どこかで桜の千枝ちえのガサガサいう音が聞こえ、それは幾重いくえにも重なり飽和したようになる。たぬきのビニール袋のガサガサ騒ぐのが聞こえた――。

「社長。社長」と呼びかける声があった。それは西田の会社に雇われている女子社員の声である。「あ、起きられはったみたいや。もー、若い人みたいな飲み方しやはっから。あほやわぁ」

 ああ、寝とったんか、と西田は思った。かれの腰はたちまち痛んだ。からだを起こしてあぐらをかいたとき、膝の痛みも白内障の悪くなっているのもしばし忘れてしまうくらい、かれはびっくりした。その視界いっぱいに桜花おうかのみごとに爛漫な景色が広がっていたのである。かれは思い出した、会社の花見やったんや、ええ具合に週末が見頃やからみんなでいこかいうことになったんや。それにしても、えらい桜の満開なことやな、桜吹雪のみごとなことみごとなこと。どこみても、桜の色一色やないか。

 と、ここで西田はふと思いいたって、こんなことを言った。

「つぼみは夢か、いや、夢がたぬきかいな」

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