長閑で、平凡な日々を繰り返し生きてます。
人と話すと元気になる。ほんの数分でいい。そう思う。
例えば、ずっと引きこもって誰とも話さず寝てばかりでは、頭の奥がむず痒くなる。ベッドに打ち付ける頭。次第に首や肩も凝ってくる。
無性に、叫びたくなる。
そんな思いをする日があった。あれは、つらかったな。
さいわいなことに、私の日常の中でそんな日は少なく。帰ってきてくれる親が居る。
すこぶる体調の悪い日は、話すことさえままならない。体調の変化前後には、誰かが側にいて欲しい。
例えば、風邪の引き始め。急上昇していく熱に身体のだるさ。息切れに頭痛がやってくる時。
「上がってきた!」
「大丈夫か〜?」
くらいの会話はしていたいものである。なぜなら、寂しいからだ。寂しいと、免疫や体力・気力・食欲などすべてのパラメータが下がる。
よくわからぬ不安で。
こういうときに会話をするのは、不安を分け合うという行為に近いと感じた。
人と話すと安心する。
例えば、ゴミ捨てのときに、
「おはようございます」
「おはようございます」
と言うこと。
言葉自体は何でも良かった。一瞬でも、社会と繋がれた気がする。そういう浮ついた気持ちになれるのなら。
言葉自体にはなんの力もない。でも、どんどん頭の中で湧いてくるもので。消化不良を起こしたら、とてつもなく寂しくなる。
ふと、なぜ人は死にたくなるのだろう。消えたくなるのだろう。そんなことを考えられるようになったのも、人と話して余裕が出たからだ。
文明が前に進むたびに、自殺者が増えているという。おかしい。文明は人と人を繋がりやすくしたではないか。なぜ?
ここで問題を発見した。
人は何のために文明を築くのか。
資本主義社会は、事実上あらゆる分野で『競争』をしなくてはならない。どっしりと文明を構えるのではなく、流動させて景気を回さなければいけない。
それに失敗したら、行き着く先は……。
競争の中で人はたくさんの発明をしてきた。便利になり、人とも容易く繋がり、社会のシステムも仕上がりつつある。
キレイで美しく、完璧な世の中が出来上がった。
じゃあ、競争で敗れた人はどこに居るのだろう。
世界では『幸福度』というものが有るらしい。「自分は幸福でない」という人が、それとなく生きていられる国に私は住んでいる。
幸福度は下から数えたほうが早いそうだ。それはそうだろうなと思う。本当に不幸で見ていられない人は、数にならないからだ。
人間が理性的に生きていくためには、衝突のもとを絶たなければならない。
例えば、災害や病気。
これらを研究する人たちは、常に命懸けだ。彼らが何のためにそこまでして研究をしているのかはわからない。
彼らが正常に存在する文明は強い。それらを支える銀行や国会なども。強いて言えば、すべての人たちの存在こそが、かけがえのないピースなのである。
とまぁ、こんなことを言っている私といえば、ぐうすか寝ながら日々を過ごしている。
今日は、親と話しながらしゃぶしゃぶを食べた。楽しかった。豚肉と白菜を消費した。生きている。
こんなことを言いながら、「もっと幸せになりたい」などと宣うのだから、私は本当に幸せに恵まれているのだろうな。
競うことは止めても構わない。でも、やり甲斐や社会的軸を失うことにもなりかねないから、あまりオススメしない。
資本主義社会では、しがみついてでもなにか付加価値を見つけてみる。そこら辺に落ちている石や、捨てるはずだった布切れがお金に変わったりする。
文明を壊す銃弾や爆弾の値段が、一体いくらかは知らないが、花火の音を聴いて「風流だ」と言える。そんな国に生まれた。ならば、それを護るには、文明を前に進めるしか無い。
今はまだ、それしか方法がないのだ。
少し話して、気が楽になった。空を見た。長閑に霜降りの雲がもくもくと或る。雲の流れも気がつけば変わっていた。
こんなこと何度も思ってきた。これが私の平凡だ。しゃぶしゃぶおいしかった。また食べたいな。