痕
夕食を済ませても、リヒャルトは帰ってこなかった。
マリーは出来るだけ顔を合わせる前に部屋へ引っ込みたかったが、かと言って眠るにはすこし早い時間だった。
少し思案し、ある事を思い出す。
昼間に屋敷の中を歩いたとき、確か遊戯室にピアノが置いてあったはずだ。
楽譜があるかどうかまでは見ていないが、無くても就寝前の暇つぶしくらいにはなるだろう。
そう決め、マリーはさっさと階段へと向かった。
冷える空気の中、二十三段のそれを登りきって廊下を歩く。
扉を開けて覗いてみると、遊戯室のピアノは中々上等なものだった。
実家にもピアノはあったが、師である母が亡くなって以来久しく触れていない。
近寄ってそっと鍵盤に指を置くと、意外にもポーンと軽やかな単音が上がった。
マリーは、そのことに少し首をかしげた。
普通、ピアノは半年から一年に一度の調律がないと音が狂ってしまうはずなのだが。
まさかリヒャルトが弾くとも思えないが、しかしそうでなければ調律する意味もない。
(写真の事といい、何かがおかしいような……)
昼間と同じ、微かな違和感。
先ほどと同じようにそれを一蹴しようと首を振る。
(きっと気のせい、だからお忘れなさい)
自身に忘却を促し、椅子に腰を下ろして背筋を正す。
指慣らしのため、いくつか簡単な練習曲を弾くことにした。
幸いにも指は動きを忘れた訳ではないようだが、やはりしばらく弾かなかったつけは顕著に現れていた。運指を間違えては数小節戻ってやり直すということを繰り返す。
ようやく納得がいくところまで練習曲を引き終えたものの、楽譜は見つからなかったので記憶にある追 奏曲を指にのせる。柔らかな音色が、ゆったりと空間を揺らし始めた。
軽快な行進曲や優雅な舞曲を選ばなかったのは、やはり自分の心境によるところが大きいのだろうか。
そんな事を考えながら弾く追奏曲は、以前よりも重い音を帯びたようだった。
***
そろそろ一曲が終わろうかという時、背後から聞こえたぱちぱちという音でマリーは体を固くした。
振り返ると閉め忘れたドアの脇、いつのまにか帰っていたらしいリヒャルトが壁によりかかっている。
「うまいな」
投げ掛けられた賛辞に返事はせず、手早く鍵盤に覆いをかけて立ち上がる。
無言のまま彼の側を通り過ぎようとすると、右肩に手をかけられて阻まれた。
「つれないな、無視か」
マリーはその手を嫌悪感も露に振り払う。
「触らないで下さい」
「なかなか素敵に強気な言い草だ」
どこか面白がるような言葉にそちらを向くと、狼に似た目がマリーを冷ややかに見下ろしている。
それに怯んだ隙に手を引っ張られ、体を壁に押さえつけられた。
両手はそれぞれ顔と胸の横で固定される。
マリーがとっさの事に言葉を出せないでいると、リヒャルトはぞっとするような低い声で囁きかけた。
「俺はこの場でお前を手篭めにする事も出来る訳だが、そういう事は考えないのか?」
「……好きにすればいいじゃありませんか」
こわい、こわい、こわい!!
加虐心がありありと読み取れる言葉に悲鳴を上げそうになるのを、マリーはぐっと飲み込んだ。
紫水晶の瞳が潤みそうになっているのは分かっていたが、懸命にそれを抑えて言い返す。
怯えと反抗心が、僅かに低くなった声音に現れる。
「それで私の気持ちがどうなる訳でもありませんから」
「……面白くないな、泣けよ」
「あなたの前で泣くものですか」
顔は伏せない。そうしたらきっと涙がこぼれる。
嗜虐心を宿した琥珀色の瞳を見返して静かに、自分に言い聞かせるように言い放つ。
「どんなに嫌でもどんなに悲しくても、あなたの前で泣いてやるものですか」
リヒャルトは、それに返事をしなかった。菫色と飴色の視線が交差する。
数瞬の後、彼は突然興味を失ったようにマリーの手首を解放した。
膝から力の抜けたマリーは、その場に崩れ落ちる。
呆然とマリーが相手を見上げると、リヒャルトは既に何の未練もない様子でこちらを見てすらいない。
「気が変わった。別に暴行する趣味もないしな」
「ほどほどにして寝ろよ」と言い残し、リヒャルトは部屋を出て行った。
ブーツが廊下を叩く音が少しずつ遠ざかっていくのを聞き、マリーはスカートの裾をぎゅっと掴んだ。
もし今、リヒャルトを怒らせてしまっていたら?
(……考えたくない)
首を振って、嫌な考えを打ち払う。
その仕草にすら弱々しさが出ているのは、自分でもよく分かっていた。
白い手首には、強く握られた痕が赤く浮いていた。