違和感
翌日、カーテンの隙間から差し込む陽光でマリーは目を覚ました。
寝起きのために霞む目で確かめた時計の針は、既に昼近い時間を指している。
慌てて身支度を済ませ、慣れない廊下をさまよって食堂へとたどり着いた。
当然、リヒャルトの姿はない。
どうしていいか分からず辺りを見回すと、マホガニーのテーブルの上に何かが置いてある。
近づき手に取って確かめてみると、
「おはようお嬢さん。大層遅いお目覚めだが、まあ俺には関係なし」
そんな憎たらしい書き出しで始まったメモだった。
腹立たしいが読まない訳にもいかず、嫌々目を通す。
読み進めるごとに、眉根に皺が寄っていくのが自分でも分かった。
料理も掃除も、家の事は何もしなくていい。自分の面倒だけ見ろ。
ただし、迷子になられても困るので庭より外には出ないように。
家の中は勝手に歩きまわっていいが、俺の部屋には入るな。
大人しくしていれば乱暴な手段には出ないから安心しろ。
お前はただそこに居ればいい。
(……ペットか何かですか、私は)
あまりの馬鹿馬鹿しさにメモを投げ捨てたくなったが、何の解決にもならないと自身に言い聞かせ、普段より強い勢いでテーブルに置くにとどめた。
今日一度目のため息を吐き出す。
家事をしろと言われても困ることは間違いないが、これでは軟禁に等しい。
不意に、あの時の言葉を思い出す。
──「俺のものになれよ、お嬢様」
なるほど、確かに“もの”な訳だ。
不思議と、マリーを悩ませるいつもの憂鬱感はやってこなかった。
この状況で自分が頼れなくては、どうしようもないのだ。
(いつまでもくよくよしてはいけません、ローズマリー・ミュートス!)
気持ちを切り替えるために両の頬をぱちんと叩いた。
まずは朝食をとってから。それからでも、考えるのは遅くない。
***
湯を沸かす間に、ライ麦パンを薄く切り取っておく。
棚から探し出した茶葉で紅茶を淹れると、湯気と共に甘く芳醇な香りが広がった。
叔父と暮らしていた頃、使用人は週に数回来るだけだったので、大抵のことは自分で出来るようになっていた。
テーブルにつき、小麦から作られるものより酸味の強いパンを小さくちぎっては咀嚼する。
マリーは黒パンが嫌いではなかったが、一人でする食事がこんなにも味気ないものだとは知らなかった。
窓から覗くロルベアの空は、青く澄み渡っている。
故郷と変わらないそれを眺めているうちに、マリーはある事を思い出した。
(……そうだ、婚姻届は)
レイデン共和国における婚姻には、双方の同意の署名が必要になる。
クローネの法律に詳しい訳ではないが、仮にも隣国同士、そう大きく違うとも思えない。
もちろん進んであの男と結婚したい訳ではないが、一度ああやって言い切ってしまった以上、それは果たされなくてはならないはずだった。
そうでなければ、マリーの挟持が自分自身を許さない。
しかし昨夜、そんな話は全く出なかった。
「本当に……あの人は何を考えているのでしょう」
一人ごちてカップを口に運ぶ。
濃く明るい紅色をした液体は、いつのまにか冷め切っていた。
***
「……何もしなくていい、というのも中々困りものですね」
遅い朝食の片付けを終えてしまうと、途端にすることがなくなってしまった。
荷物や着替えの片付けなどは昨夜に済ませてしまったし、かといって出かける事も出来ない。
さて、レイデンにいた時の自分はどうやって暇を潰していたのだったか。
居間のソファでしばし考えて、思い当たったのは読書という言葉だった。
クローネ特有の言葉を覚えなくてはならないし、そのために読書は非常に有効な手段だ。
両親と暮らした家や叔父の屋敷には図書室があったが、ここにもあるだろうか。
「……まあ、じっとしていても仕方ありませんし」
散らかしたままのものが無い事を確かめ、マリーは居間を出た。
石造りの廊下は、レイデンにありがちな木造のそれと違い酷く冷たい。
それは春と共に嵐の訪れるクローネの気候上、仕方ない構造ではあったが。
部屋の配置を覚える目的も含め、マリーは屋敷内を散策し始めた。
誰も案内などしてくれないので、根気だけが頼りである。
(応接間、ホール、遊戯室、客室、客室……)
一つ一つドアを開いては、一階をくまなく歩く。
いくつか本の置いてある部屋はあったものの、書庫と呼べる部屋はない。
やむを得ず、階段を上る。
二階の廊下には窓から光が差し込み、昨晩の薄暗さと打って変わって明るい様子を呈していた。
(倉庫、客室、客室……、あ)
一つのドアに手をかけたところで、そこがリヒャルトの部屋であることを思い出し慌てて手を離す。
そっぽを向いて、書庫を探す作業を続けた。
(古い書斎、私の部屋……)
二階の端まで来てしまい、もう無いのかとマリーはあきらめかけた。
もう残っているのはこの部屋だけである。
ここでなければ、気が進まないがリヒャルトに図書館か書店に連れて行ってもらうよう頼むしか無い。
あの男の、加虐心に満ちた笑みを思い出した。
「……それは嫌です」
ふるふると首を振り、目を閉じた。祈るような気持ちでそっとドアを開く。
恐る恐る片目を開くと、マリーの気持ちが通じたのか、室内の棚にはところ狭しと本が置かれていた。
歓喜に紫の目を踊らせるマリー。
ようやく見つけた書庫に足を踏み入れると、室内では埃が目に見えるほど舞っていた。
思わずむせこみ、生理的な涙がにじむ。
あまりの空気の悪さに耐えかね、寒いのは我慢して奥の窓を開け放った。
冬の凛とした空気が室内に満ちる。
一息ついて、マリーは本棚に並べられた背表紙を眺め始めた。
***
歩き回っている内、マリーは妙な事に気づいていた。
どう考えても、人の暮らした形跡が少なすぎるのだ。
ほとんどの部屋は長らく開かれた形跡すらなく、扉の取っ手にも埃が積もっている。
それはリヒャルトが一人の期間が長かった、ということでまだ説明はつく。
しかし掃除すらしないというのも妙な話だ。
見たところ、居間や食堂などの普段使う部分は神経質といかないまでも片付けられているし、廊下にも埃など見当たらない。
奇妙な事はもう一つあった。一切の写真が存在しないのである。
絵画はいくつか見つけたものの、人が描かれているものは無かった。
(極端な人嫌い、とか)
一瞬そう考えもしたが、マリーは首を振ってそれを取り消した。
それならば、彼が自分をここまで連れてくるはずもない。
では、何故。
(まるで、躍起になって痕跡を消したかのような)
そこまで思考を巡らせた時、換気のために開けていた窓から寒風が吹き込んできた。
一気に室内の気温が下がり、背筋がうすら寒くなる。
「……きっと考え過ぎですね」
頷き、自らを無理矢理に納得させる。
幸い、好みの本はいくらか見つけていたので拝借することにした。
窓をしっかりと閉め、数冊の本を抱きしめて部屋を出る。
太陽は黄色を帯び始めていた。