大嫌い
街灯が照らす、葉を落とした街路樹の並ぶ街並み。
さすがは首都らしく、日が落ちても市内は人が多かった。むしろ夜にこそ賑わうのかもしれない。
その辺りは、どこの国でも変わらないのだろうか。
マリーはリヒャルトの後に小走りで続きながら、建物や看板を眺めた。
レイデンとクローネは公用語こそ同じだが、方言や独特の言い回しを含めると理解出来ないものも少なくない。
(つまり、言葉も勉強しなくてはいけないという事ですか)
そんな事を思い、マリーは少し肩を落とした。
歩調を落とすことなく、リヒャルトは街を抜けて行く。
二人はゆるやかな坂道を下り、やがて閑散とした住宅街へ差し掛かった。
背の高い針葉樹が月光を遮る道は、まばらな街灯があって尚暗い。
幽霊がいても何の違和感もない雰囲気に気圧され、マリーはきょろきょろと辺りを見渡した。
更にいくつかの角を曲がったとき、リヒャルトが急に立ち止まった。
着いて行くのに必死だったマリーは、前方の彼の背中にぶつかりそうになる。
「ちょっと、急に止まらないで下さい」
「ここだ」
背後からの抗議を無視し、リヒャルトは目の前の黒い門の取っ手に手をかける。
マリーは真っ暗な空を背景に立つ、その家を見上げた。
植えられた木々も花壇も完全に放置された、殺風景な庭を従えた暗灰色の町屋敷。
彼が一人で維持しているにしては幾分か広すぎると思える石造りのそれに、マリーはかすかな疑問を覚えた。
しかしリヒャルトがそれに答えるはずもなく、マリーを置いてさっさと玄関へと向かっていく。
見慣れない光景に目を奪われていたマリーは、闇に置いていかれるのを恐れて後に続いた。
家の主が鍵を開けると、きい、と重い扉が嫌な音を立てて開く。
リヒャルトは先に足を踏み入れ、明かりをつける。
一瞬眩しさに顔を背けたマリーに、彼は夜会で初めて声をかけてきた時と似た笑顔を見せた。
「ケルナー家へようこそ、ローズマリー・ミュートス」
いや、じきにローズマリー・ケルナーか。
マリーはその台詞で、笑顔の裏に含まれた黒いものを読み取る。
吹き込んだ冷たい風が、彼女の背中を撫でた。
***
「居間、バスルーム、食堂、台所、見れば分かるが階段、俺の部屋」
リヒャルトは廊下をずんずん進みながら、空いている手で左右の扉を指さして見せる。
しかしただでさえ歩くのが速いのに加え、廊下が薄暗いためあまり参考にはならない。
マリーは形式程度に、リヒャルトの説明になっていない言葉を聞いていた。
相手も反応など期待していないのか、会話は無い。
マリーがリヒャルトに向ける敵意を思えば、それも当然だったが。
二階への階段を上ったところで、リヒャルトが「そういえば」と口を開いた。
「食事は?」
「汽車で済ませました」
「それは好都合。俺は今からもう一度出かけるから、後は勝手に風呂に入って勝手に寝てくれ」
「……ええ、分かりました」
(また勝手な事を)
そう言いたいのをこらえて頷く。
廊下を進み、偶然にも叔父の屋敷でマリーが使用していた部屋と似たような位置でリヒャルトは立ち止まった。
「それから、ここがお嬢さんの部屋になる。元は客室だから、大抵のものはあるはずだ。
足りないものはまた後で言ってくれ」
そう言って濃いチョコレート色をした扉を開き、室内の明かりを点けるリヒャルト。
マリーは大人しく中へと続く。
ベージュ色の壁紙が貼られた室内には、セミダブルと思しき寝台と小さなテーブルに椅子が二つ、それに鏡台。洋服箪笥の隣、白いカーテンがかけられた大きな窓からは月の光が差し込んでいる。
なるほど、確かにさして不自由は無いだろう。
リヒャルトは寝台の隣に荷物を置き、その狼の目を細めて言った。
「それじゃあ、せいぜい良い夢を。マリー」
そのまま立ち去ろうとする彼を、マリーは「お待ちなさい」と呼び止めた。
「一つ言い忘れていました」
「何だ」
面倒くさそうに振り返った相手の瞳を、じっと見据える。
「夜会の時の言葉を訂正します」
──「クローネ連邦もその軍人の方も好きではありませんが、ケルナー中尉は嫌いではありません」
「世界で一番、あなたが大嫌いです」
「……それはどうも」
苛立つでも皮肉を返すでもなく、それだけ言うとリヒャルトは暗い廊下へとその靴音を消して行った。
マリーは彼の後ろ姿が薄い闇に溶け込んだのを見てから、静かに部屋の扉を閉じた。