Gute Reise
その日、レイデンには今年初の雪が降った。
マリーが乗る予定のクローネ首都を終点とする汽車は、既にホームに入っている。
旅立つ側か見送りか、駅では大勢の人々がそれぞれの別れを惜しんでいた。
その中にはマリーとアンソニーの姿もある。
「じゃあ、くれぐれも気をつけて」
「ええ。叔父様もお元気で」
「……マリー、やっぱり今からでも撤回する気にはならないのかい。
君に何かあったら、兄さんと義姉さんに申し訳が立たない。僕はしばらく身を隠す事だって」
「何度も言いましたが、これは私が自分で決めたことです。心配しないで、アンソニー叔父様。
ちゃんと手紙も書きますから」
「ローズマリー……」
未練を隠そうとしないアンソニーに、マリーは気丈な答えを返す。
その時、急かすような短い汽笛が数回鳴った。他の人々は慌てて車内に駆け込み始める。
マリーも足元の鞄を手に取り、叔父に花の咲くような笑顔を向けた。
「では叔父様、ごきげんよう」
「……」
アンソニーは答えられない。
マリーはそのまま振り返らずに、車上へ続くステップを登っていった。
しばらくあって、汽車は長い汽笛を鳴らしてゆっくりと動き始める。
窓からは手を振ったり別れの言葉を告げる人々の姿が覗くが、マリーの姿は見えない。
汽車は煙を吐き出し、スピードを上げ始める。
アンソニーは煙が見えなくなるまで、その後ろ姿を見送っていた。
***
切符を確かめ、マリーは汽車前方のコンパートメントへと向かった。
規則的に揺れる通路を、時折よろめきながら進む。
数回手すりを掴んだところでようやく自分の席を見つけ、コンパートメントに滑り込んだ。
四人用だが相席はおらず、マリーは一人きりになった。
荷物は膝の横に置き、座席に腰を下ろす。
カーテンを開けて窓を覗くと、見慣れた景色がどんどん遠ざかっていく。
幼い時の思い出まで離れていくようで、マリーは目を閉じた。
ややあって、車掌が切符の点検のために回ってきた。
手渡された切符を両面念入りに調べて納得すると、労働の喜びあふれる笑顔を付けてそれをマリーに返してくれる。
「よいご旅行を」
「……ええ、ありがとうございます」
去り際にそう言い残した車掌に、マリーは内心自嘲しながら微笑んだ。
(いい旅行?無理です)
ため息してから鞄から読みかけの新聞を取り出し、視線を落とす。
読み進んで行くうちに、その内容に思わず眉をひそめた。
「……酷いことを」
ニ面に掲載されている連邦側に拘束された作家のリストには、アンソニーと交流があったはずの名前がいくつか挙げられていた。拘束理由は、反クローネ的な作品を公開したこと。
(反クローネ的であると言うなら、私もそうでしょうに)
あの中尉は何を考えているのか。
マリーは新聞を畳み、数日前の出来事を回想し始める。
あの後リヒャルトは一つだけ指示を残し、一足先にクローネへと戻って行った。
いわく、駅までは迎えに行くので、後日送る切符の汽車に乗ってクローネ首都まで来い。
後の事は来ればわかる。
言うだけ言うと、リヒャルトは例の食えない笑みを浮かべた。
「ではまた数日後に、マリー」
その馴れ馴れしい呼び方に腹がたっても、マリーはただ相手に冷たい視線を向けただけだった。
***
クローネの首都、ロルベアに到着したのは夕日が落ちてからのことだった。
いつの間にか睡魔に攫われていたらしいマリーは、目をこすって姿勢を正す。
気の早い乗客になると、既に降りる支度を終えて通路に並び始めていた。
マリーも手早く広げていたものを片付ける。
汽車が止まる最後の揺れを皮切りに、ホームには大量の客が降り立った。
それに巻き込まれる事を嫌い、マリーは数分の間コンパートメントに留まることにする。
窓の外に視線を向け、ある程度客が掃けた事を確かめてから通路へ進む。
ホームに降り立ってみると、ロルベアは雪こそ降っていないものの、気温はレイデンのそれより随分低かった。
外灯に照らされた駅には、多くのレイデン人が悪趣味だと評する黒服の姿がある。
そしてその中には当然。
「……リヒャルト・ケルナー」
あの男を真っ先に見つけてしまった事が嫌で、マリーはきゅっと唇を結んだ。
***
「ロルベアにようこそ、お嬢さん」
マリーは、わざとらしく微笑むリヒャルトから目を逸らす。
挨拶も返さず、代わりに嫌味を投げた。
「わざわざレイデンまで追ってきたり駅まで迎えに来たり、随分とお暇なようですね。ケルナー中尉」
「ええ。ガラスの靴を落として行って下さらなかったので、探すのはいくらか骨が折れましたよ。お嬢さん」
全く気にしていない様子の相手を睨みつけたいのを我慢する。
マリーが口をつぐむと、リヒャルトはああそれから、と付け足した。
「これからはリヒャルトと呼んでくれ。いつまでもケルナー中尉じゃ水臭い」
「別に、あなたに何の親近感も抱いていないのですから水臭くて結構です」
つんとそっぽを向く。
するとマリーのそれより随分大きな、白い手袋の嵌った手で頬を挟まれた。
怯みそうになるのをこらえ、身長差のある彼を見上げる。
「何ですか」
「どうもローズマリー嬢は求婚したのが自分だと忘れてるようだから、思い出してもらわないとな」
「……失礼しました、リヒャルト」
「それでいい」
にや、と笑って手を離すと、リヒャルトはマリーの手から荷物を引きとって歩き始めた。
マリーは慌ててその後ろ姿を追う。
「どちらへ?」
「もちろん我が家に。そんなに遠くはありませんが、少々ご足労願うことになります」
話しながらきびきびと歩くリヒャルト。
そもそも歩幅が違うため、マリーは自然と小走りになる。
この男はそれを知っているに違いない。
マリーはむっとしたが、ゆっくり歩いて欲しいと頼むのも癪に障るので黙って続く。
リヒャルトは一度だけ振り向いて、その姿を面白そうに眺めた。