招かれざる客
「ローズマリー、せめて食事くらいはちゃんと……」
「放っておいて下さい」
カーテンを閉めきった自室の寝台で丸くなっているマリーは、ドアの向こうから遠慮がちにかけられた声をぴしゃりと拒絶した。
厚い樫の扉に隔てられて見えないが、間違いなくアンソニーは肩を落とし、居間あるいは自室へと戻っていったことだろう。
(ごめんなさい、叔父様)
心のなかで叔父に詫びる。
優しい彼のことだ、出席者から騒ぎの話を聞いて自分を責めているのかもしれない。
幸い、細かな部分までは伝わっていないようだが。
あの夜会は既に二日前の出来事となっていた。
屋敷に逃げ戻ってすぐに部屋にこもったマリーは、最低限の水とパンは口にしているものの、食事をする気にすらなれなかった。
自分の行為が叔父を責めていることに対し、かすかな罪悪感を覚える。
しかし今現在、何よりマリーの心を占めていたのは怒りと屈辱だった。
(「俺のものになれ」ですって?)
ぎりっと唇を噛む。
あんな形での注目を受けて尚社交の場に顔を出せるほど、マリーの神経は太くなかった。
重ねて、原因が原因である。
あの瞬間を思い出し、泣き出しそうになるのをマリーは必死でこらえた。
泣いてはいけない。そんな事、あの男に負けたも同然だ。
不意に喉の渇きを感じ、気だるい体を起こして立ち上がる。
重い足をひきずるようにし、自室の鍵を開けて廊下へと出た。
数点の絵画が飾られた廊下はマリーのお気に入りだったが、それにも目が向かない。
階段を下り、食堂へと向かう。
がらんとした食堂に、叔父の姿はなかった。
テーブルに置かれた水差しに、そっと触れる。
自身の名前、ローズマリーの花が描かれた陶器製の物である。
それが母のお気に入りだったことを思い出し、マリーはまた憂鬱に襲われそうになった。
その時、しゃららんと軽やかな玄関の呼び鈴が聞こえた。
二階にいるらしい叔父の声が響く。
「すまないマリー、すぐに行くから出てくれないか」
「分かりました」
喉のひりつきを我慢し、玄関ホールへと向かう。
コンコン、とノッカーの音が響いていた。
真鍮の鍵を開け、ドアを開いて会釈する。
「お待たせしました」
「どういたしまして」
返ってきたのは、どこかで聞いた覚えのある声だった。
──「俺のものになれよ、お嬢様」。
認識を拒否しようとする体を抑えて顔を上げると、嫌でも客の姿が目に入る。
銀髪に琥珀色の瞳、そしてローズマリーが毛嫌いする黒い軍服。
招かれざる客、リヒャルト・ケルナーがそこにいた。
「……っつ!!」
「ごきげんよう、ローズマリー嬢」
厭味ったらしくも丁寧に投げかけられた挨拶に、屈辱の記憶がよみがえる。
とっさにドアを閉めようとするも、すかさず軍靴が隙間にねじ込まれた。
丈夫な扉が軋みそうな攻防を続けながら睨み合う二人。
「何をしにここまで来たのですか!?」
「俺があれ位で諦めると思ったのか? 俺は気の強い女が好きなんだ」
「お引き取りください! しつこい男性は嫌いです!!」
皮肉にも先日の件で証明されていることだが、体格のいい青年に娘一人の力が適う訳がない。
じわじわと隙間が広がり、マリーの顔色には怯えが現れ始めた。
リヒャルトの両眼の琥珀が獰猛な笑みを宿す。
「マリー? いったい誰が来たんだい?」
その時、やけに遅い姪が気になったのか、アンソニーが玄関ホールに繋がる階段から姿を表した。
途端にリヒャルトは態度を変える。
「突然の訪問を失礼致します。アンソニー・ミュートス氏ですね?」
微笑も爽やかにリヒャルトがそう問うと、アンソニーは素早く訪問者の徽章に目を走らせた。
「ええ、確かに私です。連邦の中尉殿が何か御用ですか?」
黒い軍服を警戒したのか、注意深く尋ねるアンソニー。
それに対しリヒャルトは、自身にじっとりとした視線を向けているマリーを完全に無視して答えた。
「いえ、実はローズマリー嬢に先日の返事を伺いに」
「は? ……ともかく、お入りください」
何のことかと理解しかねながらも、アンソニーはリヒャルトを招き入れる。
マリーは不服さを露にしたが、彼女の叔父はそれに気づかない。
勝ち誇ったようにこちらを見る青年を出来るだけ視界に入れないようにし、マリーはしぶしぶ二人の後に続き、扉を閉めた。
***
主人と客のために用意された珈琲が、客間に湯気と香りを振りまく。
壁際の長椅子にマリーとアンソニーが、テーブルを挟んで窓際のソファにリヒャルトが座っていた。
郊外の冬は、都市部のそれに比べていくらか気温が下がる。
しかしミュートス家の客間はそれとは関係ない理由で冷たい空気を呈していた。
主に、マリーがリヒャルト・ケルナーに向ける視線の冷たさである。
しかし彼女の叔父と軍服を纏った青年は、それを気にしない様子で会話を続けていた。
飲み物にすら触れず話す姿に、先程の凶悪性は欠片も見て取れない。客の態度としては申し分ないだろう。
マリーにはそれが気に入らない。
「ところで、ミュートス氏。貴方は高名な画家でいらっしゃる」
「いえ、私はそんな……。とんでもありません」
ひと通りの無難な挨拶を終えると、リヒャルトは相手の職業に触れた。
大人しい性質のアンソニーは、一瞬戸惑った表情を見せてから答える。
「自分も何度か貴殿の絵を拝見しました。『眠る月』、『ミュゼット』、『ゴリアテ』。
芸術に明るいわけではありませんが、どれも素晴らしい作品です」
「光栄です」
(怪しい)
賛辞と謙遜を交わす二人のそばでマリーは眉をひそめた。
この嫌な男が、何の意味もなくこんな会話を続けるとは思えない。
マリーの勘は的中した。
一通りの作品を褒め終えると、リヒャルトはわざとらしくため息をつきながら額に手を当てた。
「個人的には非常に残念です。貴方の絵が表現規制法に抵触する可能性があるなど」
「なっ……!」
「レイデン共和国は一切の表現の自由を保証しているはずです!!」
絶句するアンソニーに代わり、マリーはテーブルに身を乗り出すようにして食ってかかった。
リヒャルトはそれを愉しそうに眺め、せせら笑うように言った。
「おや、ローズマリー嬢。新聞は読まれませんか? 現在レイデン共和国は、我が連邦の従属国となっているのですが」
明らかにこちらを小馬鹿にしている相手を、キッと睨みつける。
「貴方という人は……!」
「ところで、自分は規制を担当する局に古い友人がいるのですが」
マリーを無視してリヒャルトは突然、天気の話でもするかのような調子で口を開いた。
「気の良い友人でしてね。
人の幸せを素直に喜び、人の不幸を悲しんでやれる気持ちのいい男なのですよ」
「……それが、私に何の関係が」
「例えば自分に結婚の予定でも出来れば、彼は非常に喜んでくれるでしょうね。そう」
うっかり規制関連の書類を紛失するくらい。
リヒャルトがそう言い終えると同時に、一気にアンソニーの顔から血の気が引いていく。
「身の安全と引換えに姪を売れと言うのですか!?」
「おや、何の事だかわかりませんね。自分はただ友人の話をしただけですが」
蒼白な顔で唇を震わせる哀れな画家を鼻で笑うリヒャルト。
マリーはといえば、この状況の中、どこか冷静に事態を見つめていた。
この男は本気だ。
彼が何故そんなに自分を欲するのかは分からないが、ここでどうにか逃げきったとしても、手段を選ばず自分を捕らえに来る。
もし叔父が拘束されたら、一人になった私を今度こそ逃がしてはくれない。
それならば。
「……分かりました。リヒャルト・ケルナー、私と結婚しなさい」
「ローズマリー!?」
「叔父様は黙っていてください。これは私が決めたことです」
静かに、しかしはっきりとした口調で言い切った相手を、リヒャルトは意外そうに見つめた。
顔色を変えた叔父を手で制し、マリーは改めて招かれざる客を睨みつけた。
椅子から立ち上がり、窓際の彼へと歩み寄る。
ソファに腰掛け、両の手を組み合わせているリヒャルトを見下ろしてぴしゃりと言う。
「勘違いしないで下さい。私は叔父のためにそうするのです。隙あらば脇腹を刺されるものと思いなさい」
「……さっきも言っただろ。俺は気の強い女が好きなんだ」
にや、と満足げな笑いを浮かべ、リヒャルトはマリーの腕をつかむ。
固まりそうになるのを隠し、マリーは強気に相手を睨み続けた。
曇り空から差し込む光が二人の顔を照らす。
アンソニーは、既に事態が自分では収拾出来なくなった事を悟り、がっくりと項垂れた。