くびき
「今年こそゆったりした服が主流にならないかしら。これまでずっとお硬くて古臭い服ばかりだったんですよ、信じられます? ……あ、別に太ったことをごまかそうとしている訳じゃありませんよ。ええ、ありませんとも」
「……あの」
「これなんかもシックな感じでいいかもしれないわね。いつもより大人っぽく見えますわ。でもケルナーさんはもっと可愛い方がお好みかも。マリーさんはどう思われます? やっぱり暖かい色の方がお好きかしら?」
「ソフィアさん」
「あら、どうされたの?」
ソフィアは次から次へと気に入ったデザインの服を探り出し、それらを片っ端からマリーの胸に当てていく。柔らかなシフォンブラウスやモヘアつきの上衣、花びら色をしたレースのドレス。されるがままのマリーはろくに口を挟むことも出来ず、まるで着せ替え人形の様相を呈していた。
コートを着せられ連れ出され、それが外で話をするためだと言うならまだわかる。けれど事態も理由も飲み込めないままにやってきたのは、この小さな洋装店だった。心底楽しそうな様子で佇んでいるソフィアに、マリーはおずおずと問うた。
「いったいどうして服選びなどなさっているのですか?」
「それはもちろん着飾るためよ」
会話が微妙にかみ合っていない。
マリーがなんとも言えない顔で佇んでいる間にも、ソフィアは自分の服を探したりといきいき動き回っている。彼女が近くの棚を物色している間に、マリーはあらためてミルク色の灯りでつつまれた店内を見回した。幾多の引き出し、芳しいような埃っぽいような独特の匂い。奥のカウンターでは女主人がなにかに針を通している。壁いっぱいにしつらえられた棚には無数の生地や服飾品が並んでいて、こういった場所に不慣れなマリーはなんとなく居づらさを覚えていた。
それに、自分がどうして連れだされたのかもまだわかっていない。マリーはちりちりとした心細さに駆られ、入り口に目を走らせた。時折からころとドアベルが鳴りはするが、基本的にふたりの会話を遮るものはない。悪い言い方をすれば、いかな話を仕掛けられても逃げようがない。ソフィアはまた一着なにかを見つけ出し、いまだ戸惑い顔のマリーにあてがう。
「これはどうかしら。さっきまでの中で一番だと思うのだけど」
相当自信があるのか、ソフィアはマリーをいそいそと姿見の前に連れて行く。マリーはよく確認もしないまま、少々引きつった表情で鏡の中の自分に視線を向けた。ソフィアが勧めてくれた一着は、なるほど確かにぴったりだ。まるでマリーの顔立ちや体に合わせたかのようなそれは、胸元にベルベットのリボンを結んだ上品な型のワンピースだった。
「気分転換を、と」
ほうと息をつくマリーの隣で、姿見のソフィアは赤みの強い金髪を一振りして微笑んだ。その表情には親しみと優しさがふわりと重ねられている。
「お願いされましたの。……なんて、言わなくてもわかりますよね。服のことでも考えてろってことなのかしら。素敵ですわ」
「……リヒャルトが、ですか」
マリーは小さな声でソフィアの言葉を反芻する。
リヒャルトが心遣いをしてくれた、そのことが嬉しかった。嬉しい、と素直に思えたことが嬉しかった。
けれどマリーの背中には、既に幸福感でも充足感でもない別の感情が忍び寄りつつあった。マリーは頬に差した薄紅を消し、複雑な表情で黙りこむ。するとソフィアはマリーの肩に触れ、どこか探るような目で顔を覗き込んできた。
「もしかして、この期に及んでまだ『好きになってはいけない』なんて考えてらっしゃるのかしら」
「……いいえ、まさか」
マリーはゆるりとかぶりを振ったが、その頬にはわずかに暗色が表れている。ソフィアは痛いくらい図星を指していた。
今マリーをちくりちくりと蝕んでいるのは、冷たい鎖のような罪悪感と背徳感だ。リヒャルトのことを考えると、自分が恋に落ちていることを嫌でも自覚させられる。その温かい気持ちを切り捨てられないことくらい、よくわかっている。けれどそのたび、暗い感情がマリーの足元に絡みつくのだ。
あんなに自分を可愛がってくれた両親よりも、クローネの将校を選ぶのか。そう問い詰められているような陰鬱さに襲われる。それこそが一番重いくびきだった。
去った者の考えを勝手に決めつけ、その上それを振り払ってしまおうともがいてばかりいる。そんな厭らしい自分が憎らしい。いまやこの堂々めぐり自体がマリーを縛る鎖と化していた。
マリーは鏡の中から余裕を秘めた笑みを見せる。
「そんなことで思い悩む訳にはいかないでしょう」
嘘ではない。けれど、決して本心ではなかった。
いつまでも気に病んではいられない。けれどそうせずにはいられない。自分だけが幸せになろうだなんて、そんな都合のいい考えが通るはずがない。
そこまで考えたときマリーは気づいた。鏡に映ったソフィアは、まるで拗ねる子どもを見るような目でこちらを見ている。
「マリーさんは勘違いしているわ」
ソフィアは悲しそうに言った。面食らったマリーが反応できないでいると、彼女はさらに続ける。
「誰を好きになったら減ってしまうとか、何をしたから嘘になってしまうとか、愛ってそんなにけちなものじゃないわ」
「私はそういうことを言っているのでは」
「私が言ってるのはそういうことよ」
ソフィアは静かに首を振る。その意味がわからなくて、マリーはおろおろするばかりだった。いったい自分がなにを求められているのか、なぜ諭されているのか、いくら考えても理解出来なかった。
マリーより十も年上の彼女は、なかば自分に言い聞かせるようにしてかぶりを振る。
「お説教できる立場じゃないってことくらいわかってます。人の恋路に口を出すのが無粋だってことも知ってるわ」
でも、とソフィアはつぶやく。
「でもそれじゃ、あまりにケルナーさんが報われませんわ」
言葉でぶたれたような気がして、マリーは相手を呆然と見つめた。
「それ、は」
かすかな声でつぶやく。『それ』について、マリーは今まで考えたことがなかった。
果たして自分は苛立つ彼を、憂い顔の彼を、慰めたいと思ったことがあっただろうか。わかろうとしたことはあっても、応えようとしたことはあっただろうか。本当に自分の選択は正しかったのだろうか。足元がぐらつくような、強烈な不安が体を駆け巡った。
涼やかな金属の音がして、深い思考の淵に沈みかけていたマリーは我に返る。奥にいる女店主が針を落としたらしかった。マリーがうっかり手放しかけたワンピースを預かると、ソフィアはさっきまでの重たげな空気が嘘だったかのように含みのない笑顔を見せる。
「ここを出たらどこかでお茶にしましょうよ。甘いものが欲しいわ」
マリーは揺らぐ面持ちでソフィアを見つめ、ついで勧められた服に目を落とす。
それを着ておかえりなさいを言ったら、リヒャルトはどんな反応をするだろう。褒めてくれるだろうか。あるいはふたりで出かけようと言われたときに着てもいい。いずれにせよ、マリーに何らかのきっかけをくれはしないだろうか。
紫瞳を向けられたソフィアは、「どうかしら」とでも言いたげに微笑みながら首をかしげた。
「……ええ、ぜひ」
ゆっくりとそう答えて、マリーは今日初めての素直な笑顔を見せた。
あと数日でリヒャルトが戻る。それが何を意味しているにせよ、マリーには待ち遠しかった。