夜会 (3)
「お上手、と言っては失礼に当たりますか」
「いいえ、ありがとうございます。ケルナー中尉もお上手でした」
「光栄です」
曲が終わると、リヒャルトは意外な程にすんなりと引き下がった。
「いつまでもあなたを拘束していては、周囲に恨まれるでしょうから」
そう言って背を向けられると、何故か胸が締めつけられるような息苦しさを感じた。
「あの、ケルナー中尉」
気づけば、彼の軍服の裾をつかんでいた。
振り返ったリヒャルトの驚いた表情で自分が何をしたのか気づき、マリーは慌てて言い訳する。
「その、もしよろしければもう少しお話を……も、もうすぐ中休みにはいる時間ですし。
もちろんお忙しいのは存じています……あ、あの、はしたない女だと思わないでください」
狼狽えるマリーをしばし呆気に取られた様子で見ていたリヒャルトだったが、我に帰ると、その形の良い唇に微笑を浮かべた。
「あなたがお望みなら、何時間でも」
***
「あら、お母様にダンスを?」
「ええ、幼い頃に仕込まれました」
「それであんなにお上手だったのですね」
「とんでもない」
グラスに手に、談笑を交わす二人。
婦人専用の椅子に一人腰掛けるのも気が引けたため、他の招待客の邪魔にならないよう隅に寄っての立ち話だ。先程リヒャルトが取ってきた飲み物は、マリーに気を遣ったのか二人とも酒精が含まれないものである。
口当たりの良い液体を口にしながらの会話は楽しかった。
マリーは聞いたことのない話に目を丸くしたり、あるいはレイデンの細かな噂などをリヒャルトに聞かせたり、終始顔をほころばせていた。
(こんなに笑ったのはいつぶりでしょう)
そんな事を思った矢先、一人の男が二人に近づいてきた。
纏っているのは、リヒャルトと同じ黒い軍服である。
深い蒼色のドレスが映える、マリーよりいくつか年上らしい背の高い女性を連れている。
男はリヒャルトの知り合いらしく、内容は聞き取れないが親しげな様子で言葉を交わしていた。
マリーは退屈しているのがばれない程度に視線を逸らす。
蒼いドレスの女性も、同じく退屈そうな様子を見せていた。
その時、同伴するマリーに気づいたらしく、男はこちらへ不躾な視線を向けながらリヒャルトに何事か囁く。
途端、リヒャルトは眉を潜めて早口で言い返した。
追い払う仕草をされた男は肩をすくめ、軽い会釈をして去っていった。連れの女性もそれに続く。
むっとした表情を隠せないマリーに、リヒャルトはすまなそうに言った。
「申し訳ありません、同僚が無礼を」
「別に……お気になさらず」
あなたに心配されることではありません、と言外に漂わせる。
するとリヒャルトは顔を曇らせ、悲しげに言った。
「……こうやって、連邦も私も貴女に嫌われていくのでしょうね」
その唐突な言葉にマリーは驚いたが、リヒャルトがあまりに憂鬱そうだったので、迷った挙句言葉を選んで口を開いた。
「……クローネ連邦もその軍人の方も好きではありませんが、ケルナー中尉は嫌いではありません」
言い終えてから気恥ずかしくなり、マリーはそっぽを向いた。
リヒャルトはと言えば、数秒間相手をまじまじと見つめた後、くはっと小さく笑った。
「これは……予想外、というか予想以上だな」
「……?」
何かおかしなことを言ったかしらと首をかしげるマリーをよそに、リヒャルトは俯き、くつくつと笑い声を混ぜながら続けた。
「あなたは本当に可愛らしい」
「あの……ケルナー中尉?」
マリーが不審に思い始めたのとほぼ同時に、リヒャルトが顔を上げる。
その表情にマリーは凍りついた。
笑ってはいるものの、今までの優しげな微笑ではない。
琥珀の瞳にどこか凶悪な光を宿したそれは、獲物を見つけた獣の笑みだ。
「俺にころっと騙されてるところも気に入った」
「なっ……」
数分前までの丁寧な物腰から、がらりと変わった口調。
後ずさろうとした刹那、逃がさないと言わんばかりに手首を掴まれる。
そのまま引っ張られ、気づいたときには琥珀の両目が目の前だった。
獣によく似たそれが恐ろしくなって、反射的にぎゅっと目を瞑る。
「……っん……!!」
唇に触れる、柔らかい感触。
驚くよりも先に嫌悪感と恐怖が走り、マリーは思い切り相手を突き飛ばした。
「おっと。……つれないな、ローズマリー嬢」
小娘の力ではよろめきすらしないのか、せせら笑うようにリヒャルトはそう言った。
半ば呆然としているマリーの顎をくいと持ち上げ、耳元で低く囁きかける。
「俺のものになれよ、お嬢様」
マリーはそれに返事をしなかった。
完全に騙されていた。その怒りと屈辱で、ただ体を震わせていた。
リヒャルトはそれを愉しそうに眺める。
マリーはキッと相手を睨みつけた。
人を欺き、あまつさえ唇まで奪っておいて。
「この……」
その上、「俺のものになれ」ですって?
「この……無礼者ッ!!」
「がっ」
鋭い破裂音とマリーの怒号が響く。
気づけば、有らん限りの力で相手の頬を張り飛ばしていた。
予想だにしない反撃だったのか、今度こそリヒャルトは数歩よろめく。
紫水晶を涙で潤ませ、肩で息をしながら掴まれた場所を埃でもついたかのように払い、ようやくマリーは我に帰った。
周囲の客は動きを止め、呆然とこちらを見ている。
「あ……」
みるみるうちに、マリーの顔が真っ青になる。
取り返しのつかないことをしてしまった。
一歩二歩と後退り、何が起こったのか把握しきれていないリヒャルトに背を向ける。
不審に思った主催者が来る前に、ローズマリーは一目散にその場から走り去った。
***
ミュートスの令嬢が走り去ってしばらくしても、客達は興奮気味に噂話を続けていた。
騒ぎの中心にリヒャルトがいる事に気づき、先程の同僚が駆け寄ってくる。
「おい、何があったリヒャルト。頬をどうした」
「……猫を虐めてたら引っ掻かれた」
「はあ?」
訝しげな同僚をよそに、リヒャルトは小さく笑った。