痛み
ひと通り破片の始末を終えたリヒャルトは、再び腰を下ろすと皮肉げなため息を吐き出した。
「馬鹿か」
「お黙りなさい」
手伝おうとした途端、座っていろと一喝されたマリーはむっとした顔で言い返す。その苛立ちには、己の失態に対する羞恥や動揺も混ざり込んでいた。どうして自分がこんなに慌ててしまったのか彼に知られたくはなかったから、マリーは精一杯の虚勢を顔に貼りつける。だいたい、この前全く同じことをやった彼に言われる所以はなかった。
リヒャルトはまだまだ言い足りない様子だったが、ひとまず暴言は捨て置くことにしたらしい。呆れ顔のまま首を振ると、かつんと音を立ててテーブルを小突いた。
「……まあいい、足を出せ」
一瞬何を言われたのか理解出来ず、マリーの顔が当惑に染まる。一呼吸置いた後、マリーは顔色を変えて瞠目した。
「はしたない!」
「勘違いするな、足に興味はない。……さっき零れたときにかかっただろうが。火傷してないか見るだけだ」
思わず叫んだマリーだったが、予想外の正論に言葉に詰まる。カップを取り落とした際、少々熱湯が飛んだのは事実だった。しかし靴を履いていたからさほどの熱さは感じなかったし、特に痛むという自覚もない。それに、人前で足を晒すなどというみっともない真似だけは避けたかった。
マリーは正論には正論で、とごく当たり前の抵抗を試みる。
「……後で部屋に戻ってから見ておきます」
「後回しにして面倒なことになる方が困るんだ」
マリーのささやかな反論はあっさりと切り捨てられた。いいからさっさとしろと言外に匂わせ、リヒャルトはこちらをじろりと見やる。
「それとも無理やり剥ぎ取った方がいいか?」
「わ、分かりましたから!」
危険な響きをはらんだ言葉に、マリーは慌てて首を振る。絶対にこちらを見ないよう彼に念を押してから、マリーはそろそろと右足を椅子に横たえた。靴を脱ぎ、するりとレースの靴下を抜き取れば、なめらかな肌が露出する。他にも増して真白い足の甲に、赤味は見受けられなかった。わざわざ見せるまでもない。マリーはほっと息をついた。
「ほら、大丈夫です。あなたに見せるまでも……何ですかリヒャルト」
テーブルの反対側からリヒャルトが歩き寄って来ていた。マリーの怪訝な顔にも構わず、彼はその場で身をかがめる。リヒャルトはそのまま割に丁寧な手つきでマリーの右足に触れた。持ち上げられた足にふわりと温かみを感じ、心臓が大きく跳ねる。それを悟られまいとマリーが声を上げかけた時、リヒャルトはふと表情を緩めた。
「……これなら平気そうだな」
明らかな安堵の響きをもった言葉に、マリーは答えなかった。出来るだけ彼を見ないようにしながら、知らぬ間に乾いていた喉から無理やりに言葉を搾り出す。
「離してください。大丈夫ですから」
自分で思ったよりもずっと硬質な声だった。リヒャルトは一瞬ぴくりと顔を引きつらせ、無言のままにマリーの足を押しやる。彼の端正な顔立ちから先程の温かさは消え、いつもの頑なな表情に戻ってしまっていた。それでもマリーは弁解せず、靴を履き直すふりをして顔を伏せた。
いくら必死に恋心を殺そうとしても、こうして不意の優しさを見せられると駄目だった。自分で自分の首を絞めている矛盾に耐えられなくなる。
本当は彼の名前を呼びたかった。隠した心も憂いも打ち捨て、思いの色を告げてしまいたかった。その手に自分のそれを重ねられたら、どんなにいいだろうかと思った。けれどそう出来ないことを痛いほど理解していたから、マリーはただ黙っていることしか出来なかった。
宵闇を溶かし込んだような重たい静寂が、呼吸をすら苦しくさせる。マリーはゆるゆると足を下ろし、服の裾を強く掴んだ。
何も言えないのは、矜持のせいでも何でもない。マリーの弱さだ。自分が自分でいられなくなることを恐れる、ただの脆さだ。それを認めたくない意固地さのために、爪が手のひらに食い込む。リヒャルトは固い表情のまま、部屋を後にしようとしていた。
このまま何も言わなければ、彼とマリーの距離はまた広がるだろう。けれど迂闊なことを言ってしまえば、マリーの存在にヒビが入る。膝に置かれたマリーの手は、小刻みに震えていた。
うつむいたままの耳に、扉を開く音が聞こえた。マリーはきゅっと結んでいた唇をほどき、懸命に声を搾り出した。
「待ってください」
足音が止まり、リヒャルトがこちらを見たのが分かる。怪訝そうな顔をしているであろうことは予想がついた。マリーは気恥ずかしさに顔を上げることも出来ないまま、ひどく働きのにぶった頭で言葉を選ぶ。
「お出かけ、楽しみにしています」
小さな小さなその声は、今口に出来る精一杯だった。しんと静まった室内に、強い風の音だけがかすかに届く。マリーは即座に今しがたの発言を後悔した。
聞こえていなければいい。今ならまだなかったことに出来る。彼が都合よく聞き逃してくれたらいい。ほのかな期待と不安に頬が火照った。
身動きも出来ないでいるマリーに、ふと足音が近づく。リヒャルトはふわりとマリーの頭を撫でると、もう一方の手で栗色の髪を一房すくい取った。柔いそれを指先で弄ぶようにしながら、リヒャルトもまた、言葉を選んでいるようだった。
「……俺もだ」
リヒャルトは最後にマリーに上を向かせて、短くそう告げた。複雑な感情をにじませた琥珀色と目が合う。一瞬また口づけられるのかとマリーは不安げなまなざしを向けたが、リヒャルトは触れた箇所にわずかな体温を残しただけだった。立ち去る彼の背中をぼんやりと見つめていたマリーは、扉が閉まる音で魔法が解けたように我に返る。何かを期待していた自分に気づき、激しい自己嫌悪と羞恥心に襲われた。
ジンと淡い疼きが胸を刺す。胸の奥をついぞ感じたことのない痛みに苛まれ、息が出来なくなりそうだった。
マリーは今にも泣き出したいような気持ちになり、ふるふるとかぶりを振る。寒い雪夜にどこかで猫の鳴き声がした。