熱、混乱、誘い
一度気づいてしまったら、自分自身への欺瞞を押し通すことすら出来なくなった。赤みの差した目元に触れて熱を冷ましたいのに、それさえままならない。自分の気持ちを否定しようとする理性よりも、恋に焦がれる感情が勝ってしまうのだ。激しく脈打つ胸に痛みすら感じて、マリーは菫の双眸を固く瞑った。
体の内で「どうして」が渦を巻く。答えは嫌というほど知っていた。マリーは、リヒャルトに恋をしている。
ただ侮蔑と拒絶を繰り返すだけ。そんな不毛な関係だったはずなのに、そこから抜け出したいと思う自分がいた。そんなものは錯覚だと、リヒャルトには微塵の好意も抱いていないと、そう言い聞かせても、マリーの胸に宿る気持ちは紛れもなく恋だった。決して受け入れられないその感情は、けれど今何よりも確かなものだ。
マリーは口を塞いでいた手をおそるおそるどけて、ゆっくりと息を吸い込む。濃密な冬の空気が肺に満ち、少しだけ熱が抜けた。
(私は馬鹿だ)
座り込んだまま、マリーはきりりと唇を噛んだ。柔い唇に小さく赤色がにじむ。頬にはまだ熱が残っている。今のマリーは、この上なく情けない表情をしているに違いなかった。マリーは手の甲を顔にそっと押しつけて、逃避のように目を閉じた。
いったいいつから、自分で自分を騙すようになったのだろう。それは逃げること以外の何物でもないと、どうして気づかなかったのだろう。逃げて逃げて、入り込んだのが行き止まりだなんて愚かしいにも程がある。
無意味な逃避行の間に宿った熱は、マリーにはどうしようもないくらい育ってしまっていた。
今までマリーをローズマリー・ミュートスたらしめていた鉄壁がただの殻に変わり、ぽろぽろと剥がれ落ちていく。これではいけないと、嫌でも理解せざるを得なかった。
マリーは震えそうな手で体を支え、ゆっくりと立ち上がる。出来るだけ深い呼吸をして、扉の冷たい取っ手に触れた。
***
そばにいるとどきどきして、頬が熱くなって、どうしていいか分からなくなる。
冷然とした顔を取り繕ってはいたものの、ついさっきそれに気がついたマリーにとって、リヒャルトと二人で夕食を済ませなくてはならないというのは非常に辛いものだった。それなりの手間がかかったはずのアウフラウフもほとんど味が分からず、わだかまる気持ちに拍車をかける。きっと砂を噛んだらこんな気分になるのだろう。どことなく暗いマリーの雰囲気に呼応するかのように、食堂の空気が冷え込んでいくのが分かった。
マリーは向かいのリヒャルトに目をやり、慌てて興味がないふりをした。既に食べ終えたリヒャルトは、つまらなそうに写真の多い雑誌をめくっている。マリーには見向きもしない。単に気づいていないのか、知った上での無視なのかは分からなかった。
(おかしな人)
じき片づきそうな皿を前に、マリーはそんなことを思った。
理由もなくむすっとしている彼を見ていると、時折ひどく塞ぎこむことがあった叔父を連想させられる。アンソニーの気質もなかなか難しいところがあったが、リヒャルトのそれは更に理解しがたい。
傲岸不遜。慇懃無礼。少々いいのは顔くらい。自分でもどうして彼にどぎまぎしているのか分からなかった。
最後まで無味だった夕食の皿を脇に寄せ、気づかれないようこっそりとため息する。
たとえば世界に『運命の相手』なんてものが存在するとして、それがマリーにとってのリヒャルトであるはずがない。そうであってはいけないのだ。
だってそんなこと、許される訳がない。
「ねえリヒャルト。実は私、あなたを好きになってしまったようなのです」なんて、そんな馬鹿げた台詞、口が裂けても言える訳がない。
マリーと初恋相手との間には、確執が多すぎた。
そのことを考えると、きゅうっと胸を締めつけるような苦しさに襲われる。マリーは持ち前の気丈さと矜持でそれを必死に覆った。
不意に、雑誌に視線を落としたままのリヒャルトが口を開いた。
「さっきの話なんだが」
「はい!?」
思惟に沈んでいた意識を突然引っ張り上げられ、マリーはびくりと顔を上げた。驚きで裏返った声に、リヒャルトが口端だけで馬鹿にしたような笑みを作る。
「何か後ろめたいことでもあるのか?」
「ご心配なく、あったとしてもあなたには絶対に言いませんから」
会話が長引くことによってぼろが出るのを恐れるあまり、マリーはことさら噛みついてしまった。核心に触れられることを嫌うため、思ってもいない台詞ばかりがすらすらと出てくる。薄氷の上を渡るような会話には、早々にヒビが入り始めていた。
当然、堪え性のないリヒャルトはお返しに皮肉っぽい笑みを浮かべる──はずだった。
しかし、
「……まあ、そんなことはどうでもいい」
リヒャルトは何かに急かされたように雑誌を閉じると、難しい顔で椅子に座り直した。
予想していた反撃のなかったマリーは、なかば拍子抜けしてぱちぱちと瞬きする。会話することへの緊張感よりも、言い返してこない意外さの方が大きかった。
マリーの困惑を慮る気の全くなさそうなリヒャルトは、マリーを見もせずに言った。
「珈琲が欲しい」
「……本題はそれですか?」
「まさか」
わざとらしく肩をすくめる仕草にも、どことなくいつもの嫌味っぽさが欠けていた。
自身に負けず劣らず不自然さが目立つリヒャルトに違和感を覚えながらも、マリーは仕方なく腰を上げる。
「今回だけですよ」
リヒャルトは黙ってひらひらと指を泳がせた。
器の用意を整えて水の沸騰を待つ間、マリーは壁にもたれて真剣に考える。いったいリヒャルトはどうしたと言うのか。マリーが平静でいられないのには理由があるが、リヒャルトの不自然さにはまるで心当たりがない。言いようのない奇異のせいか、なんとなく沈黙が長く感じられた。
「ネーベルブルク行きの用事が出来た。来週いっぱい家を空ける」
薬缶がしゅんしゅんと音を立て、マリーがそれを火から取り上げた時、リヒャルトは再び口を開いた。その唐突さにマリーは首をかしげ、準備していたポットに湯を注ぐ直前で手を止める。
リヒャルトが挙げた地名は、クローネ西部の州のそれだ。地理にそこまで詳しくはないが、ロルベアからは決して近くない。
いきなりの報告に戸惑うマリーに、リヒャルトはさらに続けた。
「留守番は出来るな」
「いくつだとお思いですか」
強がりを返事の代わりにして、マリーはそっぽを向く。濃く立ち込めた苦い香りが、なんだかとても不愉快に感じられた。不快感の原因がその報告にあることを知ってはいたが、認めきれるはずもない。マリーはつんとした表情のまま、あまり好きでない珈琲が抽出されるを待った。
二人しかいない部屋に、重たげな沈黙が落ちる。マリーは努めていつも通りの声で問うた。
「お話はそれだけですか」
「……いや」
リヒャルトはいつになく歯切れが悪い。
「それで、二月に入ってからの話になるんだが」
「ええ、なんでしょう」
いい加減お互いの不自然さに辟易していたマリーは、簡単な相槌を打ちながら二人分のカップを運ぶ。まるで二人の間に壁でもあるかのように、リヒャルトは決してマリーのことを見ようとしない。
マリーが細心の注意を払ってカップをテーブルに置こうとした時、リヒャルトは言った。
「待ち合わせて食事にでも行くか」
「…………はい?」
たっぷりの沈黙を挟んで、マリーは少々間の抜けた声で答えた。菫色の視線がリヒャルトに向けられ、手元が留守になる。
何かが落下して割れる嫌な音がした。