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言えない

 気まぐれにその姿を現す六花は、宵闇に再びちらつき始めた。

 布一枚で冷気と隔てられた足がとても寒くて、マリーはちらりと床を見やる。いつもなら必ず擦り寄ってくるはずのクライネだが、今日はそれがない。やたらと外に興味を示すので、先程玄関を開けてやったのだ。おそらく、辺りを気ままに散策して戻ってくるのだろう。愛くるしく温かい毛玉の不在が、何だか寂しく感じられた。

 マリーは今、本が詰め込まれた二階の角部屋にいる。初めてこの部屋に足を踏み入れた時を思い出し、マリーはぐるりと周囲を見回した。依然として狭苦しくて埃っぽい。手入れが行き届いているとは言いがたく、明らかに家の主から必要とされていない部屋だ。

 息を吐き出すと、わずかに白くけぶった。マリーは手に取っていた一冊を棚に返し、踵を返す。扉の閉まる音が、やけに大きく感じられた。

 リヒャルトはもうじき帰るだろう。夕食の準備は既に済ませてあるし、片づけるべき箇所も見当たらない。


(後は──)


 マリーは伏し目がちに、かつかつと足音のたつ廊下を歩んだ。相変わらず、この家に写真は見当たらない。その理由を、マリーは知らない。

 後は、マリーの内心だけが問題だ。正確には、リヒャルトにいつも通り接せられるかどうかが。今のマリーにはその自信がなかった。

 マリーは知らない。リヒャルトが何を思い、何を抱えているのか、腹立たしいほどに知らない。その事が一層不安を煽る。ちくりちくりと、憂いが胸を刺すようだった。

 窓から覗く雲がかった月が、マリーの横顔にほの暗い影を落とす。マリーは足を止め、自らの頬を軽く叩いた。紫瞳を閉じ、小さく息を吸う。

 自信があると言ったら嘘になる。けれど、少なくともマリーは自分の感情と向き合う必要がある。自分と対峙することすら放棄して、何の矜持を守れるというのだ。

 マリーは再度深く息を吸い込んで、うっすらと乱れた髪を指で整えた。大人になりきれない横顔が窓に映り込む。

 玄関の方から音が聞こえた。



---



「おかえりなさい」

「ああ」


 寒夜のロルベアは、居室を一歩出れば冷気が肌を刺す。マリーは上着を肩に羽織って玄関ホールに顔を出した。無愛想に返事をするリヒャルトの顔には疲労の色が濃い。雪に濡れたのか、ごわごわした生地のコートにはところどころ色濃い斑点が散っている。まだあちこちに纏わりつく雪片が気に入らないらしく、リヒャルトは眉根を寄せて肩を払ったりしていた。

 今朝の出来事などまるでなかったかのような態度にマリーは少し落胆し、慌てて馬鹿げた考えを追い払った。強調する意味でぷるぷると首を振る。断じて不埒なことなど考えていない。誓ってもいい。

 マリーが一人そうしている隣を、気にも留めない様子のリヒャルトがさっさと歩いて行く。華奢な肩が彼の体に触れそうになった瞬間、マリーは反射的に身を逸らした。さすがにその動きは目についたらしく、リヒャルトが怪訝そうな表情で振り返った。


「何やってる」

「あ、あなたに近づくと何をされるか分かりませんから」


 たどたどしくマリーが繕った言い訳を、リヒャルトは鼻で笑った。


「ご挨拶だな。それとも、期待の裏返しか?」

「都合のいい解釈もいい加減になさったらどうです? そんな訳ないでしょう。私はあなたが」


 「嫌いなのですから」。

 そう続けようとしたのに、何かが喉につっかえてマリーは黙り込んだ。なんだかひどい違和感があって、ある一言だけが口から出てこない。なんとなく落ち着かない感触に、マリーは上着の胸元をぎゅっと握りしめた。つんと背けた視線も、自然に下を向いてしまう。唐突に沈黙したマリーを、リヒャルトが不審げな目で見下ろす。


「えらく挙動不審だな」

「あなたの気のせいです。それより、早く着替えてきて下さい」


 どくん、どくんと落ち着かない胸を押さえ、マリーは無理やりに話題の転換を促す。

 そんな事でリヒャルトを欺き通せる訳もなく、けれど彼は怪訝そうながら居間の方へと姿を消した。ひとまず安心したマリーは深いため息をつき、ちっとも目標を果たせていない自分を叱咤した。

 「嫌い」だと一言言ってしまえばそれで済んだものを、まごついてその機会を逃すだなんて。我ながら呆れてしまう。強気なローズマリー・ミュートスはどこへ行ってしまったのか。

 けれど原因が自分自身にあることくらいよく分かっていたので、マリーは未だ騒がしい鼓動を確かめるかのように胸に手を置いた。知らず知らず力の込もった爪が、布越しに食い込むのを感じる。

 ある意味、夜会で初めて彼と出会った時と似たような症状だった。リヒャルトを見ると胸の鼓動が早まって、目を合わせることすら難しい。こんな状態では普通の会話もままならない。

 だんだん逃げ場のなくなってきたマリーはむっと唇を結び、この後のことを考えた。まさか夕食を避ける訳にはいかないし、かと言って『いつも通り』に振舞うのも無理だろう。

 とにかく、余計なお喋りをしないこと。マリーは自分に言い聞かせた。そうすれば、少しは冷静でいられるかもしれない。リヒャルトのことだから、やたらに干渉してくるような真似はしないだろう。多少不可解に思われることくらいはあるかもしれないが。

 けれどその結論に落ち着いたのもつかの間、薄暗い廊下を歩くマリーに死角から声がかけられた。


「ああ、それから」

「きゃあっ!?」


 みっともない悲鳴を上げて、マリーは肩に触れた何かを振り払った。当然それはリヒャルトの手で、向こうは向こうなりに驚いたらしい彼は憮然としていた。


「……言い訳は?」

「させて下さるのですか?」

「させて下さると思うのか?」


 リヒャルトの声は皮肉たっぷりだった。そろそろ本格的に不審感を抱かれているらしく、マリーを見下ろす琥珀色の双眸はひどく冷たい。いつもなら「だったら最初から聞かないで下さい」皮肉を返すところだが、マリーはじっと黙って目をそらす。それがまた気に障ったらしく、リヒャルトは小さく舌打ちした。


「さっきからどうしたお前」


(──誰のせいだと)


 一瞬頭をもたげかかった反抗心も、すぐに『違和感』に呑まれてしまう。息苦しくて居た堪れないマリーは、胸元を押さえたまま構わずリヒャルトの隣を抜けようとした。


「待てよ」

「ちょっと、放しなさ……っ」


 リヒャルトは鼻白むマリーの手首を捕まえ、もう片方の手で挑発的に顎を持ち上げた。無理やり上を向かされたマリーの耳に、苛立った声が届く。


「言いたい事があるならはっきり言え」

「別にありません」


  自分でも驚くほど硬い声が出て、マリーはふいと長い睫を伏せた。うるさいくらい、小さな胸がどきどきする。こんなに鼓動が大きいと、リヒャルトに聞こえてしまうのではないだろうか。何気ない風を装ってはいたが、マリーは内心気が気でなかった。そんな事など知るはずもないリヒャルトは、頑なに拒むマリーの顔を睨むように見つめていた。


「マリー」


 不意に、リヒャルトがマリーの名を呼んだ。マリーは顔を上げないまま、びくりと肩を震わせる。


「……そんなに嫌か」

「っ……」


 拗ねたようで、怒ったような声だった。マリーは反射的に彼を見上げ、そしてすぐに視線を落とした。

視線のあった目に淀みはなく、彼の本気を窺わせた。胸の鼓動は早まるばかりで、締めつけられるような苦しい気持ちになる。

 『恥ずかしい』とは少し違う。『怖』くはないし、『嫌』でもない。もちろん、『嬉しい』訳では絶対にない。強いて言うなら、それはきっと『切ない』に近い感情だった。

 マリーには、どうしてもそれを認めることが出来なかった。


(だって、だって、だって)


 マリーは心の中で、いくつも理由を並べ立てた。

 リヒャルトは少なくとも好きになっていい類の人物ではない。意地悪だし、マリーが好きだと言うくせに放っておくし、内面に少し踏み込もうものなら拒まれる。いっそ「大嫌い」だと言ってしまえばそれで片づくだろう。

 けれどマリーは、その言葉を口に出さなかった。出せなかった。はっきり「嫌い」だと言い放ってしまえばいい。その一言で、マリーは楽になれる。それなのに。


(……言えない)


 どくん、どくん。他の音すら飲み込んでしまいそうに感じられる胸の音を聞きながら、マリーは唇を噛んだ。暗いから目立たないだろうが、もうとっくに頬は赤くなっているに違いない。


 先程から、「嫌い」の一言だけがどうしても出てこない。

 何故ならマリーは、


「い、嫌じゃ……ありません、けれど」


 耳まで真っ赤に染め上げられたマリーは息を飲んで、震える声でそう言った。紫瞳を固く閉じ、リヒャルトの手を振り払う。ようやく自由になったマリーは、ばたばたと足音が立つのも構わずリヒャルトに背を向けて、一目散に逃げ出した。それもまた、彼と出会った日と似たような行動だった。リヒャルトは追いかけてこなかったから、彼がどんな表情をしていたのかは分からなかった。


 やっとの思いで部屋に逃げ込んだマリーは扉に背を預け、声が漏れないよう口元を覆った。どきどきとうるさい胸の音は、もうどんなに頑張っても静まる気配を見せない。

 もうどうしようもない。

 ローズマリー・ミュートスは、リヒャルト・ケルナーに恋をしていた。

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6/25 お礼閑話更新しました。(一種類)
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