雪の道 (2)
「……はあ」
わずかに白い息を吐き出して、マリーは“クローネの恋人”から離れた。喉をひりつかせる風は埃っぽく、からかうように襟巻きを揺らす。何気なく見上げた首都の空は重たく、今にも落ちてきそうだった。
当てのない一人歩きは、ほとんど街の外れに差し掛かっている。寂しくなり始めた看板の群れに異国の文字が混じっているのを見つけ、マリーはある事を思い出した。
随分前、確か叔父がしてくれた話だったか。遙か東方、長い海を越えた先にある国には、“コトダマ”という概念があるそうだ。詳しい事はよく知らないが、言葉に宿る不思議な力が事象にも影響を及ぼすという信仰の一種らしい。例えば口に出した事柄が現実に顕現したり、人の運命を左右するといった風にだ。
そんな話を急に思い出したのは、やはり現在の心境に由来しているのだろうか。
「嫌い」の一言で彼を嫌えるなら、どんなに楽な事か。
それなら悩まなくて済むし、傷つく事もない。
浮き出る雪の塊に躓かないよう用心しながら、マリーは尚も考えていた。
自分の心を自由に切り取れたらいいのに。
ややこしい部分をバターのように断ち切り、どこかへ放り捨てられたらいい。
それなら、こんな苦しい思いなどしなくて済む。
(今だって、別に)
愛している訳じゃない。
ただあれ程嫌っていた相手にちょっと優しくされたから、調子が狂っただけだ。紛乱と恋を混同してしまっているだけだ。
きっとそれだけだ。
けれどそう言い聞かせる自分自身がそれを嘘だとよく知っていたから、胸に宿った迷妄は余計に大きくなる。
そうこうしている間にも太陽は既に随分と傾いており、街には淡い鬼火にも似た灯りが現れ始めていた。そろそろ帰らなければ、辺りが真っ暗になってしまう。街路樹の生い茂る住宅街などは一層歩きづらくなるだろう。
結局、半日を無駄に費やした訳だ。胸に重いものを抱えたまま、マリーは踵を返した。
さすがにもう迷子になることはない。足元の雪がさくさくと小気味いい音を立てる。その楽しげなリズムついでに、リヒャルトの事を頭の中から追いだそうと試みたその矢先、
「リヒャルト」
不意に聞きなれない声がその名前を呼んだので、マリーは思わず肩を震わせた。歩みを止め、ぎこちなく肩越しに振り返る。ちょうど一組の男女が笑いあいながら通って行く所だった。
どうやら先程の声は、女が夫らしき人物を呼んだものだったらしい。外見からして、互いに三十代半ばといったところか。女性と腕を組み、色濃い赤毛をしたその男性は、リヒャルト・ケルナーとは似ても似つかない。マリーは何となくむっとして顔を背けた。わざとらしい程甘ったるい女の声が、次第に遠ざかって行く。マリーは二三度首を振って、つんと澄ました顔を作った。先程よりも歩調をやや速める。
“リヒャルト”は別段珍しい名前ではないから、確率的には大いにあり得る事だ。むしろこの場でリヒャルトに出くわす事の方がよっぽど有り得ない。ただ、数秒前の出来事がマリーにとっては面白くない話だというだけで。
溶けて薄く濁った雪がブーツを汚した。それを苦々しく思いながら、マリーは歩き続ける。四六時中リヒャルトの事を考えている必要なんて無いのに、結局は彼に毒されている。
(……苛々する)
決して誉められた事ではないが、舌打ちの一つもしたくなる。
この世で最も近しいはずの自分自身が、こうも思い通りにならないだなんて。
迷った羊も同然だ。
矜持ばかりが高くて、その癖帰り道も分からない。
いつかは狼に見つかって食べられてしまう。
小さな笑みがマリーの頬をくすぐった。そんな詩的な事を考える余裕がまだあったのか、と。
今はとにかく、リヒャルトの顔が見たかった。澄ました顔をして、「大嫌い」だと言ってしまいたかった。ひょっとしたら、彼を本当に嫌いにもなれるかもしれない。
あるいは、目を合わせる事すら難しいのかもしれないが。
マリーはきゅっと顔を上げる。
さくさくと軽やかな音を立てながら、少女は雪の帰路を辿った。