雪の道 (1)
つまらない。つまらない。つまらない。
千鳥格子のマフラーを巻き直し、少女はむっと唇を結んだ。
目の前に広がるのは、どこまでも緻密に敷き詰められたロルベアの石畳だ。
もっとも、厳寒の今は雪片に覆われて見えないが。
木の葉を連れたゆるやかな旋風が、灰色にも見える襟巻きの端を弄ぶ。
粉雪にまぶされたクローネの街並みがマリーには不満だった。
肌を裂くような寒風のせいではない。
季節や土地柄を鑑みれば仕方ない事だし、冬将軍の熱心な仕事ぶりを不快だとは思わない。
では何故か。
純粋に面白くないのだ。
街角で宣伝されている映画には興味が湧かないし、黄金色をした焼き菓子を買う気にもなれない。
書店を覗いてはみたものの、手に取る程読みたいものはなかった。
そんな実のない拾い歩きが、かれこれ数時間も続いている。
緩慢な歩みの中、僅かに視線を落とす。
(それもこれも、全部リヒャルトが悪いのです)
今日一日だけで何度目になるだろう。
天敵でしかなかったはずの彼に責任を押し付け、マリーは足を止めた。
整然と澄ました音楽堂の玄関は、立ち休むのにちょうどいい。
少女が佇むすぐ脇を、動きやすいコートに身を包んだ少年たちが駆け抜けて行った。
楽しげに雪投げをして遊ぶ姿をどこか遠くに見つめ、マリーは小さなため息をつく。
数瞬も待たず、白い憂鬱は溶けるように姿を消した。
長い息の原因を思い、少女は暗色の空を見上げる。
何もかも、あの琥珀色の目をした青年のせいだ。
リヒャルトの事を考えると、他の事が何も手につかなくなってしまう。
何だかぼんやりするような、息苦しいような、まとまらない感覚が思考の邪魔をするのだ。
(今まで、こんな事なかったのに)
今まで社交の場でたくさんの男性を見てはきたが、決して苦しむような事などなかった。
一度たりとも、心乱されはしなかった。
ましてや、あんな男相手に。
けれどそれを否定しきれないのは、他でもない自分自身だ。
例えば、色素の薄い睫の長さ。
存外に優しい手つき。触れた唇の体温。
全て鮮明に記憶している自分が腹立たしくて、雪を蹴るという不作法な行動にすら出たくなる。
自分の中で暴れまわる感情が煩わしい。
(ああ、もう。馬鹿みたい)
娘が男の事ばかり考えているなどと知ったら、父母は一体どう思うだろう。
しかも、その相手がクローネの軍人だなんて。
無意識のうちに力の込もった足が、一層強く雪を踏みしめる。
氷結した小さな水溜まりが、ぱりんと乾いた音を立てた。
喉に痛い風に乗って、どこからか歌が聞こえた。
***
ふと広場の時計台を見上げれば、ここに留まってから三十分程が経過していた。
ただじっと立ち尽くす娘の姿は、周囲からさぞ間が抜けて見えた事だろう。
マリーは羞恥に頬を染めて俯いた。
ややあって、深い嘆息と共に顔をあげる。
過ぎた事は仕方ない。この後は胸を張って歩けばいい。
それがミュートスの娘というものだ。
冷たい空気を大きく吸ったマリーは、向かいの通りにあるものを見つけた。
よく見えないが、建物の壁に白黒のポスターが貼られている。
何となく、その大きな張り紙に見覚えがある気がした。
北風が栗色の髪を揺らす間に、短く思案する。
しばしの逡巡の後、行き交う車や馬を慎重に避け、マリーは道を渡った。
先程より幾分軽い足取りで建物に近寄る。
そして、何故見覚えがあったのか理解した。
それは“クローネの恋人”と称される、若い俳優のポスターだった。
確かソフィアが彼を大いに贔屓にしていたはずだ。
マリーは何となく足を止め、端正な顔が大写しになっているそれを眺めた。
唇に指を添え、こちらを見つめている青年の写真の下にはこうある。
「“初めて”の甘さをいつまでも」
あまり趣味がいいとは言えない一文を声に出し、マリーは顔を顰めた。
いくつか花の名が連なっている所からして、香りつきの口紅の宣伝らしい。
“初めて”というのは口づけの事だろう。
世間ではよく、「口づけは甘い味がする」と言うからだ。
(それにしても)
民間の噂はいい加減だ、とマリーは思った。
ポスターにくるりと背を向け、赤煉瓦の壁にもたれる。
辱めでしかない“初めて”の事など憶えていないが、二度目は苦い珈琲の味がした。
どこかの作家に倣えば、あるいはそれが恋の味だったのかもしれないが。
柔らかい手袋の填まった掌で、ごしごしと唇をこする。
「……恋」
ぼんやりと、その単語を呟く。
漠然としたその言葉。一度は誰もが囚われるという激情。
年頃の娘で憧れない者などないし、マリーとて例外ではなかった。
けれど。
往来が多い場所だというのに、マリーは不意に泣き出したいような気持ちになった。
だって、駄目だろう。
唇を強く噛み、右手に握っていたバッグを抱きしめる。
周囲の喧騒が、その姿を消したように思えた。
心の隅で、彼が彼でなかったなら、などとつまらない事を考える。
矜持の高いローズマリー・ミュートスは、それを心底情けなく思った。
震える紫の瞳の端に、六花がちらついた。