不意打ち
ドレープカーテンの隙間から漏れる微かな日差しが、朝床にやんわりと目覚めを促す。
横顔に朝日を受けたマリーは、二三度眠たげな瞬きをしてから身を起こした。
硝子をすり抜け、朝鳥の鳴き声が小さく聞こえている。
部屋は薄暗く、時刻は未だ知れない。
たびたび太陽に敬意を表する訳にもいかないため、マリーは窓掛けへと腕を伸ばした。
厚い布を押し分けると麗らかな日光が入り込んできて、思わず瞳を細める。
外は、絵に描いたような快晴だった。
マリーは、知らず口元に仄かな笑みを浮かべる。
体は昨日よりずいぶん軽く感じられた。
これなら起き上がって、好きに動けるだろう。
天候も至って理想的だ。
買い物に行くのもいいかもしれない。
ブーツの音が鳴る石畳に思いを馳せながら、マリーは今日着る物の事を考えた。
きっと、昨日やたらどきどきしたのは疲れていたからだ。
てきぱきと着替をすませたマリーは、階段を降りながらそんな事を思った。
けれど体調は良くなった。
だからきっと、今日からはいつも通りでいられる。
いつも通り、強気で矜持の高いローズマリー・ミュートスに戻れる。
そんな確信と決意を胸に秘めながら、マリーは一階の廊下の窓に目を留めた。
つかつかと歩み寄り、それを大きく開け放つ。
一陣の風が、枯れ草の匂いを連れて吹き抜けた。
冷たく爽やかな大気を孕んだ栗色の髪がなびき、若い柔肌に影を作る。
マリーは控えめなくしゃみを一つだけして、再び歩き出した。
***
「おはようございます」
「……体調はいいのか」
「ええ、おかげ様で。貴方こそ、随分眠そうですね。夜更かしでもしましたか」
「幾つだと思ってる。大きなお世話だ」
既に紅茶に手をつけていたマリーが柔らかな微笑を作ると、リヒャルトは挨拶を返すより先に問うてきた。
眠いのか、しきりに手のひらで目を擦っている。
先に起きていた分、余裕のあるマリーは悠々と答える。
リヒャルトはこちらを一睨みして、珈琲を取りに行った。
テーブルの上には、マリーが揃えておいたライ麦パンや林檎、簡単なスープという朝食らしい皿が並んでいる。
二人の間には、先に下りてきた方が用意しておくという決まりがいつの間にか出来上がっているからだ。
とは言え、好みの違いがあるので飲み物の面倒までは見ない。
湯は先程沸かしたばかりだったので、リヒャルトは間もなく自分のカップを片手に戻ってきた。
彼はそのまま、マリーの斜め前に席を取る。
これも、既にお決まりとなっている事だった。
お互い食事中に喋りたがる方ではないから、しばらく沈黙が続く。
(多分、これでいつも通り)
多少口論は減ったかもしれないが、それはむしろ喜ぶべきだろう。
マリーはそう自身を納得させ、手元のパンを小さくちぎった。
いつも巧みに朝食の匂いを嗅ぎつけるクライネは、珍しく姿を現さない。
まだどこか暖かい場所で丸まっているのだろうか。
少女がそんな埒もない事を考えている間にも時計の針は歩みを止めず、刻一刻と時間は過ぎて行く。
朝食を楽しむ物とは考えないらしいリヒャルトは、既にてきぱきと片付けに入ろうとしていた。
時間帯からして皿洗いなどはマリーがこなす事になりそうだったが、体調が戻って多少寛大な気持ちになっていたので別に構わなかった。
そこそこに機嫌もいいまま、少女は紅茶を口に流し入れる。
さて立ち上がろうかという時、裾の長いコートを左腕にかけたリヒャルトがマリーを呼び止めた。
「マリー」
「はい?」
名を呼ばれた少女は、柔順に顔をそちらへ向ける。
するとごく自然な動作で右頬に手をかけられ、マリーの形の良い顎がくいっと持ち上げられた。
驚きよりも意外さが先立ち、目を見開く。
気づけば腰をかがめたリヒャルトの顔は目の前で、頬にかかる息を感じる間もなく、当たり前のように唇を重ねられた。
ほんの数瞬、吐息と吐息が混ざる。
仄かに苦い香りが、そのどこか曖昧な感覚を現実的にしていた。
しかしその意味を深く考えるだけの時間は与えず、押し当てられた唇はあっさり離れていってしまう。
「行ってくる」
リヒャルトはまるで今の数秒間など無かったかのように、平然とコートを羽織って言った。
マリーはと言えば、未だ突然の出来事に固まったままだった。
何が起きたかもよく分からないまま、呆然と数秒が過ぎていく。
彼が取手に触れる小さな音でようやく我に返り、マリーは相手を呼び止めた。
「今晩は遅くなりますか?」
「いや、特には」
「でしたら、夕食は貴方を待ってからにしましょう」
「悪いな」
つかの間夫婦めいた会話を交わした後、マリーは片付けのため席を立った。
リヒャルトは一つ頷き、振り返らずに食堂を出て行った。
次第に遠ざかる足音を背景音に、マリーはテーブルの上に手を伸ばす。
「……あら」
僅かに眉宇を寄せる。
何度やってみても、皿はつるつると手から逃れ出てしまうのだ。
両手を胸元に寄せて見れば、微かに震えている。
そこでようやく自分が動揺している事に気づき、マリーは思い切り首を振った。
微かな匂いの移った口元を押さえ、否定を求めて辺りを見渡す。
玄関の扉が閉まる音が遠くに聞こえた。
(落ち着かないと)
はしたないのは分かっているが、ともかく冷たいものが欲しくて洗面所へと駆け出す。
幸い、見る者は誰もいない。
けれど、それがかえって自分に追い打ちをかける結果となってしまった。
慌てて洗面台に駆け込んだマリーは、即座に鏡から顔を背ける。
そこにいたのは、みっともない程真っ赤に染まった頬をした少女だったからだ。
前に立ったものをそのまま反射する鏡は素直な事この上なく、それだけにたちが悪い。
本人が望まないものまで、お節介にも見せつけてくる。
マリーは両手で顔を覆い隠し、その場にしゃがみ込んだ。
纏っていた柔色のワンピースに皺が寄る。
(……リヒャルトの馬鹿)
指の間から無機質な床を覗いて、マリーはぷるぷると首を振る。
嫌いだ。リヒャルトなんて嫌いだ。
既に幾度となく口にした台詞を、説得のように繰り返す。
だって彼は、いつもマリーを混乱させる。困らせる。
けれど自分に言い聞かせる他にない位、マリーが切羽詰まっている事も確かだった。
(……あんな人、好きになってはいけないのに)
思わず座り込んだ床は、冷たかった。