風邪ひき(2)
冷たい指に額をまさぐられる感触で、マリーは目を覚ました。
ひんやりとした温度は心地良く、視界にかかった霞が徐々に晴れていく。
頼りない目を擦り擦り体を起こしかけると、「いいから寝てろ」という声がかかった。
マリーは構わず左の肘を立て、深い紫色の目を声の主に向けた。
動いたはずみで上掛けが腹部にずり落ちる。
マリーが眠っている間に入ってきたらしく、リヒャルトはそっと少女の額に触れていた。
傍らに膝をついているようで、マリーの顔より少し下にリヒャルトが見える。
開きっぱなしの扉からは、薄橙をした廊下の灯りが入り込んでいた。
少し高めの体温は相変わらずマリーに気怠さを押し付けているものの、相手を満足させる程度に下がっていたらしい。
リヒャルトはマリーの額に手のひらを重ねたまま、ぎこちなく尋ねてくる。
「どうだ、体調は」
「朝と比べれば、随分よくなりました」
「そうか」
夕方に水菓子を囓って以降、浅い眠りを繰り返していたので、唇は渇いて艶を失っている。
そのためもあり少しかすれた声で答えると、リヒャルトが軽く頷いた。
その顔色から安心が伺える事が何だか気恥ずかしくて、マリーは彼の手を払いのける。
「ノックくらいしたらどうです、無礼者」
「三回やって返事が無かったんだ。無罪だろ」
何を今更、とリヒャルトは顔をしかめた。
彼はしばらく前に帰ってきたらしく、まだ着替えてはいないものの、襟元からネクタイは抜かれている。
何かしら会話が途絶えること数瞬。話題に困ったマリーは黙りこくってしまった。
すると、リヒャルトが思い出したように一枚の封筒を取り出した。
クリーム色の封蝋がなされたそれには、マリーの叔父の名が記されている。
リヒャルトは灰色をした手紙をマリーに差し出した。そのまま彼は寝台の上で腕を組む。
「さっき郵便受けに入っていた」
「ありがとうございます……あっ」
手紙を受け取る拍子に互いの指が触れる。
指先が妙に熱く感じられて、マリーは思わず手を引っ込めた。
乾いた音と共に封筒は上掛けへと落ちる。
リヒャルトは呆れたようにそれを拾い上げ、再びマリーに押し付けた。
「何やってる」
「あの、ありがとうございます」
マリーは口の中でもごもごと礼を言い、受け取ったそれをひとまず枕元に置いた。
再び黙り込んだ二人を急かすかのように、時計の針の足音が響く。
かつりかつりというそれは、妙に早く感じられた。
沈黙の溝を渡るうちに、マリーは自分がかなり薄着をしていた事を思い出した。
寝間着の首元は広めに取られていて、外気に晒された肌が泡立つ。
僅かに露出した鎖骨から、以前リヒャルトに爪を立てられた痕は姿を消していた。
マリーはさり気なく上掛けを胸元まで引っ張り上げる。
それに気づいたリヒャルトが、つまらなそうにこちらを一瞥して鼻で笑った。
「見られて困る程無いだろ」
「なっ……」
あまりの暴言に、マリーは両の頬を真っ赤にした。
ついでにおろおろと振り下ろした腕は、リヒャルトにあっさりと受け止められる。
「お嬢さんは冗談を解さないな」
「冗談で済みますか、お馬鹿!」
マリーは熟れた林檎の頬で怒りを表す。
立て続けに彼の手を叩くと、幾分間の抜けた音がした。
その音に自分の子供っぽさを指摘されたようで馬鹿馬鹿しくなったマリーは腕から力を抜く。
傍らに手を置いたまま、少女は口内にいくつかの抵抗を篭らせた。
「品が無い」だの「意地悪」だの。
しかしそれらは全て意地の悪い笑みと一緒に黙殺されてしまった。
逃げ場の無くなってしまったマリーはそっぽを向く。
(お嬢さん)
リヒャルトの何気ない一言が、小さな棘になって心に残った。
マリーはそっぽを向いたまま、ぽつりと不満を口に出す。
「……その“お嬢さん”という呼び方、やめてもらえませんか」
「ローズマリー嬢に戻して欲しいのか?」
「違います」
「俺にどうしろと」
あからさまに面倒臭がっている彼に対し、マリーは口を尖らせた。
顔を見るのも恥ずかしくて、そっぽを向いたままささめく。
「……以前からそう呼んでいるのですから、“マリー”で統一なさい」
言い終えると、マリーは偽夫の表情をちらりと伺った。
そして菫の目を少し開く。
リヒャルトは先程のつまらなそうな様子から一変し、酷く真面目な顔をしていた。
彼は軽く組んでいた腕を解き、左手の指をマリーの口端へと伸ばしかける。
立てられた肘に力がかかっていたのか、二人分の体重が寝台を軋ませた。
リヒャルトの指はマリーの顎に触れ、白い柔肌を撫でる。
「マリー」
リヒャルトは、囁くような吐息の混ざった声でマリーの名を呼んだ。
不思議と蠱惑的なその響きは、マリーの何かを狂わせてしまう。
マリーは息を呑んで、琥珀色の双眸を見つめた。
何故だか嫌いになれないその目は、マリーだけを映している。
(……捕まってしまう)
マリーがぎゅっと目を閉じ、リヒャルトの指がマリーの唇に触れたその時。
みゃあん。
不意に足元から鳴き声が響き、二人同時に固まった。マリーはぱちりと目を開き、身を縮める。
即座に手を引き戻したリヒャルトの脇を、子猫が器用に駆け登った。
要領よく膝に収まったクライネを、所作に困ったマリーは胸元に抱き上げる。
やけに早い鼓動を感じとったのか、愛猫は不思議そうにこちらを見上げてきた。
リヒャルトは、今すぐ窓から投げ捨てたいとでも言いたげな目を黒猫に向けた。
「何の用だ、毛玉」
「毛玉とは何です、毛玉とは。可哀想なクライネ」
照れ隠しもあり、マリーはことさらに小動物の側に立った。
リヒャルトの憎々しげな視線を無視して、同意を求めるように子猫と視線をあわせる。
するとクライネはそのまま身を乗り出し、マリーの唇に吸いついてきた。
ちゅう、と愛らしい音がする。
「あら」
マリーは愛猫の思わぬ行動に目を丸くした。
クライネを引き剥がそうとこちらに手を伸ばしていたリヒャルトが今度こそ凍りつく。
とは言え子猫のそういう習性自体は知っていたマリーは、驚きこそすれ拒みはしない。
問題はリヒャルトだ。
彼は色の白い顔から即座に表情を消して、小さく手招きしてきた。
「……マリー、その猫をこっちに渡せ。代わりに犬でも兎でも好きなのをやる」
「い、嫌です。百匹の犬とだって取り換えませんから」
どう考えても上機嫌には程遠い声音に、マリーは慌ててクライネを背後へかばった。
人間の事情など考慮しない子猫は、構わず背中にじゃれついてくる。
部屋の気温を数度下げそうな視線に耐え切れず、マリーは仕方なく反論した。
「大体、クライネだってあなたが下さったのでしょう」
「ああ、確かにな。今は後悔してる」
「どうしてそう猫を毛嫌いするのです」
「猫自体が嫌いな訳じゃない。あの黒いのが人のものに手を出すからだ」
苦々しげに突っ伏した彼がおかしくて、マリーはくすりと笑みを零す。
「あら、嫉妬ですか」
「悪いか」
顔を上げたリヒャルトが噛みついてくる。
冗談のつもりだった一言を真面目に返されて、マリーは二三度瞬きを繰り返した。
あまりにも率直な答えにどう答えるべきか分からず、困って首を傾げる。
リヒャルトが諦め気味に首を振って立ち上がった。
「もういい」
双眼の飴色は不機嫌そうだった。
マリーがきょとんとしている間に彼は慌ただしく部屋を出てしまう。
ぱたんという音と共に光が途切れた。
マリーは苛立った足音が離れていくのを、半身を横たえたまま聞いていた。
しばらく置いてけぼりにされていたクライネが、短く鳴いて背中から顔を出す。
そのままちょこまかと寝台を闊歩し始めた猫を眺めながら、マリーは一人ごちた。
「別に猫に嫉妬しなくても」
ねえ、と同意を求めるように黒猫と視線を合わせる。
小さな猫は訳知り顔でみゃあと鳴いた。