風邪ひき(1)
体が重い。
目覚めて早々に空咳を繰り返す口元を押さえ、マリーは寝台から身を起こした。
部屋が暗いせいか、心なし視界もぼやけて見える。
マリーは目の奥に宿る鈍い痛みに顔をしかめた。
どうやら風邪を引いてしまったらしい。
昨日から背筋に軽い寒気は感じていたものの、気温のせいだろうとさして気に留めなかった。
あまつさえ夜更かしもした。
恐らくそれが災いしたのだろう。体に不愉快な火照りを感じる。
体温計が無いので正確な数字は分からないが、平熱より幾分か高い事は間違いない。
マリーはのろのろと立ち上がり、鏡台に映る自身を確かめた。
寝起きであることも手伝ってか、瞼は腫れぼったい。顔色はお世辞にも良いとは言えないし、全体的にいつもより貧相だった。
(しかし、二日連続で寝坊というのも体裁が悪いですし)
一旦深く息を吸い込んで、天井を仰ぐ。
誰しも、弱っている所を見られるのは嫌だろう。
相手が血縁ですらない者であれば尚更の事だ。
マリーは簡単に試算した。
(リヒャルトが出かけるまで、一時間と少し)
その間だけでも彼に気づかれなければ問題ないだろう。
出来るだけ安静にしていれば、軽い風邪は早めに収まるはずだ。
霞がかった頭でそう結論を出したマリーは背筋を伸ばして、寝間着の釦に指をかけた。
***
「……何か、顔色悪くないか」
「気のせいでしょう」
なのに、どうして余計な事ばかり気がつくのか。
いっそ腹立たしい気遣いに、マリーは苛々とカップを置いた。
乱暴に扱われた陶器がテーブル上で悲鳴を上げる。
声をかけただけでむくれられたリヒャルトは、驚いたように朝食の手を止めた。
きょとんというのが相応しいだろうその表情に、マリーは八つ当たりした事を後悔する。
「それならいい」
即座に表情を打ち消したリヒャルトは、それだけ言って磁器を口元に運んだ。
やや悲しげにも見える態度に、ますます罪悪感を煽られる。
居たたまれなくなったマリーは、急いで目の前の皿を片付け始めた。
何も食べる気になれなかったので、カップと気休めの林檎が乗った皿のみ。簡単なものだ。
まだしばらくかかるらしいリヒャルトは、ちらりとだけこちらに視線を寄越して言った。
「もういいのか」
「ええ。あまり食欲が無くて」
「一応言っとくが、体調の良し悪しくらい知れるからな」
淡々と告げられた声が、立ち上がりかけていたマリーを捕まえた。
「……大丈夫です」
マリーは少し逡巡して、首を横に振る。
相手には悪いが、リヒャルトの顔を見ると熱が上がる気がする。
視線を落としたまま歩き出し、そしてその場でぐにゃりと崩れた。
「言ったそばから」
「大丈夫ですってば」
呆れ半分といった表情でリヒャルトが立ち上がる。
マリーは予想以上に体力を奪われていた事で、辛いというより先に驚いていた。
それもこれも貴方が余計な事を言うから、などと責任転嫁をしてみても現実は変わらない。
何とか立とうと足に力を入れながら強がりを口にする。
「少しのぼせただけです。心配しないで」
「何月だと思ってるんだ、馬鹿」
珍しくリヒャルトが声を荒げた。
マリーは床に膝をついたまま彼を見上げる。
リヒャルトは、何だか随分と難しい顔をしていた。
(叱られる、かも)
ぼんやりとそんな事を思った矢先、ふわりと体が宙に浮いた。
突然の事にマリーは慌てて手足をばたつかせる。
「ちょっと、リヒャルト!?」
「暴れると落ちるぞ」
さらりと返されて、マリーは言葉に詰まる。
いつの間にか背中と膝裏に腕を回され、抱き上げられていたのだった。
触れられても気付かなかった自分が憎らしい。
この体勢で落ちれば腰の強打は免れない。
何より、相当滑稽な姿を晒す事は間違いなかった。
それを避けたいのなら、擁された体勢に耐えなければならない。
マリーはリヒャルトが一歩踏み出すごとに揺られながら、悔し紛れに口を尖らせる。
「まだ荷物抱きの方がましです」
「俺は別にそれでも構わないけどな。スカートの中が見えて困るのはお前だ」
全戦全敗。言い返せなくなったマリーは子供のように口をつぐむ。
リヒャルトはおかしそうに笑って、追い打ちをかけてきた。
「いやあ、弱ってるお嬢さんを見るのは実に楽しいな。写真に残しておけないのが残念だ」
「ちょっと、貴方わざとゆっくり歩いていませんか!?」
ただでさえ思考回路が鈍っているのに、そんな意地悪を言う必要があるのだろうか。
発熱と悔しさでマリーは泣きたくなった。
抱きかかえた少女がきゅっと唇を結ぶのを、青年は面白そうに見下ろす。
やがて二階に行き着いたリヒャルトは、マリーにあてがった部屋の扉を器用に足で開けた。
「はい、到着」
「きゃんっ」
寝台に投げ落とされ、マリーは仔犬のような悲鳴を上げた。
即座に文句を言おうと肘をつき、上体を起こす。
するとリヒャルトが体を屈め、怒ったような顔で額に触れてきた。
反抗を許さない威圧感に、マリーはその手を大人しく受け入れる。
「いつからだ」
「……今朝から。大した事はありません」
その体温が気に入らないのか、青年の声は低い。
マリーがしぶしぶ答えると、リヒャルトは深い溜息をついて眉間を抑えた。
近くの椅子を引き寄せて座り、指の隙間からこちらを睨んでくる。
「どうして言わない」
答えられない。
少女は微かに身動ぎし、視線を逸らす。
リヒャルトは二つ目の息を吐いて、マリーの頭に右手を置いた。
栗色の髪と手のひらが触れる、軽い音がする。
マリーは驚いて相手を見つめた。
リヒャルトは、何故だか困ったような目をしていた。
「信用はしなくていい。頼れ」
どこか切実な響きを伴った言葉に、マリーは俯く。
違う。彼を信用していない訳ではないのだ。
ただ、弱っている姿を見られたくなくて。
(心配をかけたくなくて)
その一言がどうしても口から出ず、マリーは両手を握り締める。
おずおず顔を上げると、リヒャルトは余所を向いて病院がどうのこうの呟いている。
マリーはとっさに時計を見た。
そろそろ彼が家を出る時間が迫っている。
そう気づいたマリーは慌ててリヒャルトのシャツの袖を掴んだ。
驚きこちらを見た彼に、掠れかけた声で言う。
「私の事なら大丈夫ですから、さっさと行きなさい」
「しかし」
「これ位、寝ていれば治ります。夫を遅刻させても平気な女だと思われるのが嫌なだけです」
逡巡を示すリヒャルトに、やや強い語調でマリーは続けた。
窓から朝もやに遮られがちな光が差し込む。
「頼れと言うのでしたら、私の事も信用なさい」
「……分かった」
リヒャルトは半ば諦め気味に立ち上がる。
マリーが胸を撫で下ろしていると、ぴしりとこちらへ指を突きつけてきた。
「出来る限り安静にしてろ。水分を摂れ。寝ろ」
「子供じゃないんですから、それくらい分かっています」
さっさとお行きなさい、とマリーは追い払う手つきをしてみせる。
リヒャルトは「一言多い」と呟いて、扉の取手に手をかけた。
そこである事を思い出したマリーは、偽夫を呼び止める。
「リヒャルト」
「何だ」
「行ってらっしゃい」
マリーはしおらしく微笑んでそう言った。
リヒャルトはきっかり二秒動きを留めて、「ああ」と答える。
「お利口さんにして待ってろよ」
「子供扱いしないで下さい」
小馬鹿にしたような一言を残し、扉は閉じられた。
マリーは一息ついて、上掛けを引き上げる。
扉の外からは、どうもリヒャルトがクライネを追い払っているらしい物音が聞こえた。
それが何だかとてもおかしくて、小さな笑みがこぼれる。
そうしてマリーは、眠りの波に自身を委ねた。