万年蝋
室内外の温度差のせいか、窓硝子はしとどに濡れている。
マリーは黒い肩掛けの前を掻き合わせた。
居間には暖房があるので露を結ぶ程度には暖かいはずなのだが、不慣れな者には少し寒い。
リヒャルトとはと言えばすました表情で、珈琲に牛乳をたっぷり淹れたものを美味しそうに啜っていた。
正面に座った彼の膝では、丸まったクライネが愛らしいいびきをかいている。
この一人と一匹は相性が悪いようなので、こういった光景は貴重だ。
いっそ異常とも呼べる安寧に、マリーは何となく落ち着かない物を感じていた。
微かに身動ぎし、頬の脇で揺れる髪に触れる。
二人は先程まで長話をしていたのだが、中身自体は非常にお粗末な物だった。
桜桃と林檎のどちらを好むかだの、誕生日はいつかだの、映画は好きかだの。
よく言えば当たり障りの無い、悪く言えば子供じみた内容である。
年頃の男女らしい雰囲気など欠片も存在しない。
しかし核心めいた物に触れられて困るのはマリーだし、そういう意味では有り難くもあった。
こんなにも自然に会話が成り立つのは久しぶりだ。
あるいは、初対面時以来か。
正直、その時マリーはリヒャルトをかなり魅力的に感じていたのだった。
彼はミュートスの令嬢をしきりに賞美し、それから……。
マリーは首を振った。
ここから先は不愉快な記憶だ。あまり思い出してはいけない。
何とか自己完結し、マリーは再び沈黙に意識を戻した。
随分な時間話していた為、双方疲れて黙り込んだ結果現在に至っている。
マリーとしては相手の機嫌が心配だったのだが、くぐもった声で三拍子を口ずさんでいる辺り、少なくとも低気圧ではないらしい。
少々音程が不安定ではあったが。
半音ずれた民族調の響きを聴きながら、マリーは“落ち着かない物”の正体を突き止めようと目を瞑った。
マリーにはリヒャルトが分からない。
別に好悪や趣味を理解出来ない訳ではない。
マリーとは歳の差が八つもあるとか、生まれた日はもう半年ほど先だとか、林檎と犬が好きだとか、そういう事でもない。もっと内面的な事だ。
端的に言えば、マリーには彼が何を考えているのかよく分からないのだ。
(じゃあ私は、彼の事を理解したい?)
マリーは瞼を持ち上げ、リヒャルトを伺った。
肘掛けにもたれて目を閉じている。
そんな事にすら、マリーは小さな隔たりを感じてしまった。
そしてそれを大きくしている理由は分かっている。
彼の事を知らないからだ。
何となくそれをよく思わなかったマリーは、切り口をしばらく近寄っていない部屋に求めた。
「リヒャルト、あなたはピアノを弾きませんよね」
ようやく正しい音に戻った旋律がぴたりと止まる。
「……それがどうかしたか?」
リヒャルトの返事はあくまで普通だったが、部屋の温度が一気に冷え込んだ気がする。
目を覚ました黒猫が伸びをした。
マリーは小さく息を飲み込んで、出来るだけ簡素に言う。
「いえ、どうして調律してあるのか不思議だったので」
「ピアノは歌えなくなったらピアノじゃないだろう」
それは、求めていた回答ではない。
しかしマリーはそれ以上の追及をせず、短く「そうですね」と答えた。
リヒャルトは頷く事もせず、そっぽを向く。
まずい。このままでは再び沈黙に押さえつけられてしまう。
焦燥を感じたマリーは、慌てて口を開いた。
「ま」
「ま?」
「万年蝋は、お好きですか」
問われた側のリヒャルトは、琥珀色の目を不思議に丸くした。
しかし発言の意図は汲み取ったらしく、膝下の猫の背をいじりながら口を開く。
「可憐な花だ。いつだってすぐに枯れそうに見える。そのくせ、半端な事では花弁も落ちない」
リヒャルトはそれから、と付け加えた。
「少しいい匂いがする」
「……そう、ですか」
偽夫の言葉を黙って聴いていたマリーは、瞳を伏せて唇に指を当てた。
万年蝋は、ローズマリーの別名だ。
顔が赤いのは分かっていても、両手で隠してしまえば頬の紅潮を認める事になる。
相手はそれを見逃さず、マリーの自意識の強さを指摘してくるだろう。
自分はどうして墓穴を掘るような真似をしてしまったのか。
あくまで平然とした相手の態度がかえって恥ずかしく感じられる。
気まずさに堪えきれなくなったマリーは逃亡する事に決めた。
肩掛けの襟を直し、言い訳を口にしながら立ち上がる。
「そろそろ遅いので失礼します」
「いい夢を」
リヒャルトは癪に障るほどそつのない言葉を返してきた。
マリーは目を逸らし、「お休みなさい」と呟く。
そのまま脱兎のごとく居間を出て、扉の前で立ち止まった。
鎖骨の真中辺りを強く押さえる。
息を吸い込むと、胸が浅く上下した。
おかしな感覚が邪魔をして、何だか息苦しい。
体の芯を強く握られているような、もどかしさが胸にしこりを残しているような。
そのままへたり込んでしまいたいのを我慢し、マリーは背筋を正した。
とにもかくにも、今夜は冷える。
マリーはくしゃみを立て続けに二つして、石造りの廊下を急いだ。