いつも通り
弄べばいい。辱めればいい。抗う事を許さないまま、全部奪ってくれればいい。
それなら、彼の事を心置きなく憎める。
(……なのに)
冷たく済んだ冬の空気は、どこか甘さを持ち合わせている。
自室の窓を開け放し、マリーは息を深く吸い込んだ。
雲の浮かばない空には、場違いな程真っ白な鳥が同じ場所を幾度も巡っている。
迷ったのだろうか。あるいは仲間とはぐれたのか。
大きな白い弧を見つめながら、吸い込んだ空気を吐き出す。
嘆息はそのまま幸福すら連れ去りそうだ。
そんな事を思ってから、逃がすような幸せはどこで見つかるのだろうと指を組み合わせた。
「嫌いなのに」
マリーはもはや何度目になるのか分からない言葉を、誰に聞かせる訳でもなく呟いた。
薄桃色の唇から出たそれはあっけなく風に消え、虚しさを助長させる。
吹き込んだ風のため乾きを訴え始めた朱唇に軽く触れて、マリーは瞳を伏せる。
主の寝台で丸くなっていたクライネが喉を鳴らした。
***
昨晩から、マリーはリヒャルトと顔をあわせていない。
どんな顔をすればいいのか、どう接すればいいのか分からなくて、朝もわざと部屋に篭っていた。
リヒャルトが玄関扉を閉める音が僅かに聞こえたのみだ。
重く特徴的な響きを聞いた時、マリーは酷い自己嫌悪に陥った。
(嫌な娘、だめな娘)
マリーはもしかすると生まれて初めて、自分の事をそう蔑んだ。
どうしてよいか分からないから、避けようとする。
自ら逃げ道を塞いでいる事にすら気づかない。
まるで子供だ。自分らしくもない。
ローズマリー・ミュートスはもっと矜持を高く持っているべきなのに。
そうでなくてはいけないのに。
けれどそれを言い出してしまえば、マリーはリヒャルトに初めて会った時、既に“らしく”なかったのだ。
どうしたって、彼に調子を狂わされてしまう。
(……おかしくなってしまいそう)
初めて言った時あれ程重く感じた「嫌い」は、回数を重ねるごとに頼りなさを帯びてきていた。
幾度も口にすれば一層強固な感情になると思ったのに、ふわふわと宙に浮きそうな安っぽい言葉になってしまう。
何度も何度も、マリーは自分に暗示をかけるかのように繰り返した。
嫌い、嫌い、大嫌い。
マリーはリヒャルトが嫌いでなければいけないのだ。
クローネの軍人など好きになってはいけないのだ。
そんな事をしたら、真綿にくるまれて育ったような、家族に愛された少女ではいられなくなってしまう。
あの琥珀色の眼差しに捕まったら逃げられない。
リヒャルトはマリーを、今まで住んでいた真綿の世界から強引に引きずり出してしまう。
昨日彼の指が触れた部分に、まだ熱が残っている気がして、マリーは小さく首を振った。
鼻の奥がつんとする。
久々に込みあげた感覚は冷たい風のせいにして、揺れるカーテンの隙間に手を差し入れた。
窓枠の滑る音を聞きながら、空を見上げる。
名も知らない鳥は、まだぐるぐると巡回を繰り返していた。
***
「り、リヒャルト」
「何だ」
複数の州を流れる河に飛び込む程の気持ちで、マリーは帰宅したリヒャルトを呼び止めた。
マリーが嫌いな服を来た彼は、ごく普通に振り向く。
──「片思いは結構辛いんだ」。
あんな事を言った本人が至って平静なので、マリーは恥ずかしくなった。
首の辺りでちらつく熱を宥めながら、努めて普通の口調で話す。
「あの、おかえりなさい」
「急に改まってどうした」
リヒャルトの不審そうな台詞に、マリーはまさか昨晩の出来事は夢か何かだったのかと疑った。
菫の双眸が床をさ迷う。
それに合わせ、簡単なダウンスタイルにされた髪が背後で揺れた。
かちり、かちりとケルナー家の廊下を治める時計は律儀に歩み続けている。
それなりの辛抱強さはあるらしいリヒャルトが、冷えた空気の沈黙を破った。
「何かあったなら言えよ」
簡潔な言葉を成している声は決して硬くなく、むしろ優しい。
気を遣われているように感じられて、マリーの狼狽が増す。
このままでは、何も言えなくなってしまう。
(慌てず、落ち着いて、ゆっくり言えばいい)
自分に言い聞かせ、マリーは顔を上げた。
迷子になっていた視線をリヒャルトに合わせる。
右へ左へ逃げようとする菫色の目を、琥珀色がしっかり見返してきた。
マリーは、精一杯の声を出して話しかける。
「お茶を淹れますから、お話しませんか」
後半がかなり聞き取り辛い声量になってしまった。
リヒャルトは答えない。どうもマリーの続きを待っているようだった。
マリーはあるだけの勇気を総動員した。
「……私、貴方が何を好きで何を嫌いなのか、全然知りません。教えてくれてもいいでしょう」
最後に精一杯のつんつんした台詞を付け加えたのに、声はますます小さくなる。
リヒャルトにちゃんと聞こえただろうか。
マリーは一瞬ぎゅっと目を瞑り、窺うように青年を見た。
リヒャルトは蜜色の双眸を細めて、マリーに言った。
「悪くないな」
あ、久しぶりに笑った。
マリーは、唐突にそんな事を思った。
実際、彼が悪意だとか害意なしに笑ったのを見たのは本当に久しぶりだろう。
ひょっとしたら、初邂逅以来かもしれない。
マリーが何となく返事を出来ないでいるうちに、リヒャルトは「ちょっと待ってろよ」とこちらに背を向けてしまった。
着替えなくてはならないのはわかっていても、何度も彼の軍服を嫌いだと言った事に対する罪悪感がちくりと刺さる。
マリーは再び、青年を呼び止めた。
「リヒャルト」
「まだ何かあるのか」
リヒャルトはいつもと似たような返事をした。
マリーもまた、少し平生の冷静な声を取り戻して言う。
「珈琲ですね?」
「頼んだ」
そうして二人はいつになく穏やかに、自分のするべき事をするため歩いて行った。