困惑
「あっつ!」
「ちょっと、何をやっているのですか!」
滑り落ちたカップは、当然ながら音を立てて割れる。
かなり勢いよく零れた液体が服にかかり、リヒャルトはその場から飛び退いた。
そこまでの反応は見込んでいなかったマリーも焦って立ち上がる。
少々困らせてやれれば重畳、程度にしか思っていなかったのだ。
しかし慌てて駆け寄ってみると、被害はそれなりに深刻だった。
零れた中身のせいで本の頁はすっかりふやけてしまい、リヒャルトのシャツには派手な染みが出来ている。
落下地点がテーブルの上だったため、破損が最小限に留まった事は不幸中の幸いと言うべきか。
リヒャルトの肌に張りついた布が透けていたので、マリーは目のやり場に困ってしまった。
先程は呆れ気味の声を上げたものの、責任を感じ、背中で指を絡ませながら問う。
「だ、大丈夫ですか? その……火傷とか」
「別に。問題ない」
椅子が濡れていない事を確かめながら短く答え、リヒャルトは居直った。
そのまま銀糸のような髪を乱雑にかき回し、その体勢で動きを止める。
大人しく椅子に戻る気にもなれず、マリーは気まずい気持ちのまま佇んだ。
双眸は出来る限り青年から外されている。
至近距離に居ながらお互い余所を向いているという奇妙な状態で、沈黙が数秒間続く。
先にそれを断ち切ったのは相手の方だった。
全く面白くない話を長時間聞かされた後のような疲れた声で、リヒャルトは言う。
「誰が余計な事を言った?」
「……ディートリヒさんが」
「あの野郎」
リヒャルトは舌打ちし、いくつかの罵倒語を吐き捨てた。
とろりと机上に広がったままの紅茶が端から滴り、床に小さな水溜りを作る。
規則正しい水音の重苦しさに耐えきれず、マリーは口を開いた。
「あの」
「逆に聞くけど」
被せるように発せられた台詞に出鼻を挫かれてたじろぐ。
拗ねた子供のように、思い切り不貞腐れた態度で青年は言った。
「俺が一目惚れを認めたとして、お前はどうするんだ。愛してくれるのか?」
それはほとんど詭弁のような言だったが、マリーを困惑させるには十分過ぎた。
少女は紫色の目をぱちぱちさせ、纏っているチュニックの裾をつかむ。
(何で、今更そんなことを)
今までさんざん怯えさせたくせに。
意地悪を言って困らせたくせに。
視線が合ってしまえば逃げられなくなりそうで、マリーは俯いた。
未だに面積を増やし続ける水溜りを見つめながら、小さな声を搾り出す。
「な、何を企んでいるのですか」
「何の事だ」
意を決したマリーは顔を上げ、訝しげな相手を睨んだ。
琥珀の目に怯みそうになりながら、早口で言う。
「そんな言葉では騙されませんからね。どうせこの後、手酷い裏切りがあるんでしょう!?」
「……お前が俺をどう思っているかはよく分かった」
やや低まった声で帰ってきた返事に、マリーは体を固くした。
まさか怒らせてしまったのか。
しかし予想に反し、リヒャルトはマリーを睨みも腕を掴みもしなかった。
ただゆっくり立ち上がり、マリーの栗色の髪に触れる。
あまりに遠慮がちな触れ方の故に、マリーはかえってその手を拒む事が出来なかった。
おずおずと見上げると、リヒャルトは指で髪を梳きながら言った。
「けど、俺はお前を気に入ってる」
とても。
その一言を付け足された途端、マリーは酷く息苦しさを覚えた。
何となくきまり悪い感覚に身をよじり、彼の指から逃れる。
一瞬の沈黙すらも怖くて、あくまで目を逸らしたまま言った。
「……私は、あなたが嫌いなのですけれど」
「じゃあ、さっさと惚れてもらえるよう努力しないとな」
片思いは結構辛いんだ。
マリーは顔を見ていなかったので、彼がどんな表情をしてそう言ったのか分からない。
リヒャルトはその一言を最後に会話を打ち切って、さっさと扉へ足を向けた。
着替えないと、などと言い訳じみた言葉を残し、足音は遠ざかっていく。
扉の閉まる音から一拍置いて、マリーは顔を覆い隠した。
別に泣いている訳ではない。急に頬へと熱が上がってくるのを感じたためだ。
耳まで真っ赤になっていることくらい、鏡が無くても分かる。
「……どうして」
指同士の小さな隙間から紫眼を覗かせて、マリーは一人ごちた。
白いはずの目元は薄い朱色に染まっている。
どうして今、自分はこんなに混乱しているのだろう。
嫌いだと言い切って拒めばよかったのに。
何も言わせなければよかったのに。
せめて、何が自分を混乱に陥れているのか分かれば、いくらか気分も晴れるのに。
それは、甘い台詞も身を刺す緊張感もなく、あっさりと自分への恋慕を認められた事か。
それとも、憎らしい相手からの感情に戸惑っているだけなのか。
(あるいは)
あくまで選択肢としての可能性を思い浮かべ、マリーは慌てて首を振った。
埒もない問いに、答えは用意されていなかった。